第四章 失恋した人
翌朝、夕さんが台所で何かを作っている音で目が覚めた。
包丁の音と、何かを炒める音と、それから出汁の匂い。古い木造の駅舎に、その匂いはよく馴染んでいた。
ターミナルはもういなかった。足元に丸くなっていたはずなのに、いつの間にか消えていた。猫とはそういうものだ、と思った。いるときはいる。いないときはいない。それだけだ。
顔を洗って、台所を覗くと、夕さんが小さなコンロの前に立っていた。
「おはようございます」と言うと、振り返って「おはようございます」と返ってきた。
「何作ってるんですか」
「味噌汁と、卵焼きです。よければ一緒にどうぞ」
断る理由がなかった。
台所の隣に小さな食事スペースがあった。テーブルが一つと、椅子が二脚。窓から夕焼けの光が差し込んでいた。いつも同じ光だったけど、朝の食事のときに見ると、なんとなく違って見えた。
味噌汁は豆腐とわかめで、卵焼きは少し甘かった。白米は古い炊飯器で炊いたらしく、ほんの少し芯があったけど、それも悪くなかった。
「夕さんって、毎日こういうものを食べてるんですか」
「だいたいそうです。あまりレパートリーはありません」
「一人で全部作るんですか」
「はい。来てくださった方がいるときは、一緒に食べます」
一緒に、という言葉がさらりと出てきた。特別なことではなく、当たり前のことのように言った。
「それって……嬉しくないですか。一人じゃないと思えて」
夕さんは味噌汁を一口飲んで、少し考えた。
「嬉しいです。来てくださる方がいると、賑やかになります」
「でも、みんな行ってしまう」
「はい」
それだけだった。続きはなかった。
僕は卵焼きを食べながら、それ以上聞かなかった。
その日の午前中も、静かだった。
夕さんはいつものように駅舎を整えて、ホームを掃いて、懐中時計を確認していた。僕はベンチに座ったり、ホームに出て線路を眺めたりしていた。
線路はまっすぐ伸びていて、夕焼けの中に消えていた。どこまで続いているのか、見えなかった。電車が来る方向も、出ていく方向も、同じ夕焼けの中だった。
ターミナルが線路の近くに座って、遠くを見ていた。何を見ているのか分からない目をしていた。
「ターミナルって、電車に乗りたいとか思わないのかな」
僕は声に出してみた。
ターミナルは振り返らなかった。
「まあ、そうですよね。ここが好きなんですよね」
「ターミナルはここが自分の場所だと思っているようです」
振り返ると、夕さんがホームの端に立っていた。
「自分の場所、か」
「この駅ができたときから、ここにいます。それが全部なんだと思います」
「夕さんもそうですか。ここが全部」
少し間があった。
「そうかもしれません。今は、そうです」
今は、という言葉が少しだけ引っかかった。でも追わなかった。
その人が来たのは、昼を過ぎてしばらくしてからだった。
ホームに現れた瞬間、あ、大人だ、と思った。
三十代くらいの女性だった。髪は肩より少し下まであって、きちんとまとめてあった。服装は落ち着いていて、バッグは小ぶりで、全体的に整った人だと思った。でも目の下に薄いくまがあって、表情に力がなかった。
悲しんでいる人の顔だ、と思った。悲しみを抑えて、でも抑えきれていない、そういう顔だった。
夕さんが近づいていくと、女性は「ここが、終着駅ですか」尋ねた。声は静かで、落ち着いていた。でも落ち着いているのは、もう十分に泣いた後だからのような気がした。
「はい。ようこそ」
夕さんは穏やかな、優しい声で迎えた。
女性の名前は、木下葵と言った。三十二歳。
駅舎に入って、ベンチに腰を下ろして、バッグを膝に置いた。その動作は丁寧で、でも少し機械的だった。何かを考えながら動いているのではなく、体が覚えている動作をただなぞっているような感じがした。
「失礼ですが、最近、何か大きなことがありましたか?」
夕さんが尋ねると、木下さんは少しだけ目を伏せた。
「はい。別れました」
「大切な方と?」
「五年、付き合った人と。三ヶ月前に」
三ヶ月前。そこそこ前のことのように聞こえるけど、木下さんの顔を見ると、まだ昨日のことのように感じているのが分かった。
「結婚を考えていました」
木下さんの声に感情はなかった。整理して話しているのか、感情を切り離して話しているのか、どちらか分からなかった。
「三十二歳で、五年付き合って、次は結婚かなと思っていました。周りもそう思っていたと思います。でも、向こうから別れを切り出されました」
「理由を聞きましたか」
「聞きました。『結婚は考えられない』と言われました。理由はそれだけで、それ以上は教えてもらえませんでした」
駅舎の中が静かだった。
ターミナルがいつの間にか入ってきていて、木下さんの少し離れたところに座っていた。近づかなかったけど、背を向けてもいなかった。
「仕事も辞めました」
「別れたことと、関係がありますか」
「少しあります。仕事が忙しくて、ちゃんと向き合えていなかったと思うので。でも、それだけじゃないです。仕事自体も、限界でした。ちょうど重なってしまいました」
「今は?」
「実家に戻っています。三ヶ月、ほとんど外に出ていません」
三ヶ月。
想像した。三ヶ月間、外に出られないでいる木下さんを。毎日が同じで、でも何も変わらなくて、変えられなくて、それでも時間だけが過ぎていく三ヶ月間を。
「外に出ようと思わなかったわけではありません。でも、どこに行けばいいか分からなくて。行きたい場所がなくて」
「行きたい場所が、なくなってしまったんですか」
夕さんの質問に、木下さんはしばらく黙っていた。
「……そうかもしれません。あの人と行く予定だった場所が、たくさんあって。旅行の計画も立てていました。でもそれが全部、なくなってしまったので。行き先が全部消えた感じがして」
「行き先が全部消えた」
「はい。変ですよね。自分でも分かっています。別れたからといって、旅行に行けなくなるわけじゃない。一人で行けばいい。でも、一人で行く理由が分からなくて」
「一人で行く理由が必要ですか」
木下さんは少し考えた。
「私はずっと、誰かと一緒に行動することが当たり前だと思っていました。友達と、彼氏と。一人で旅行に行く人のことが、少し理解できなくて。でも今は、誰かと一緒に行ける人がいなくて、だから行けない。でも、一人でも行ける気がしない」
「なぜ一人では行けない気がするのでしょう」と夕さんが聞いた。
「……楽しめないと思うからです。誰かと共有できないと、楽しいかどうかも分からないような気がして」
「今まで、一人が楽しかった経験はありますか」
木下さんは少し首を傾けた。
「あります。一人で本を読んでいるときとか、一人で映画を見ているときとか。でもそれは家の中の話で、外に出て一人というのは、また違う気がして」
「どう違いますか」
「外だと、目に入るものが全部、誰かと一緒にいるときの記憶に繋がってしまって。あそこに行ったとき、あの人と一緒だった、とか。一人でいると、その記憶が余計に刺さる気がして」
夕さんはしばらく何も言わなかった。
窓の外の夕焼けが、相変わらず同じ角度で差し込んでいた。
「木下さん」と夕さんが言った。「少し聞いてもいいですか」
「はい」
「その人のことを、まだ好きですか」
木下さんの手が、バッグの上で少し動いた。
「……好きかどうかは、もう分かりません。最初はすごく悲しかったです。次に怒りました。どうして結婚を考えられないのか、理由も言わずに別れるのか、と。でも今は、怒る気力もなくて。ただ、疲れています」
「疲れている」
「五年間、ちゃんと一緒にいようとして、仕事も頑張って、でも全部うまくいかなかった。疲れました。次に何かを頑張れる気がしない」
「頑張らなくていいかもしれません」
夕さんがそう言うと、木下さんが顔を上げた。
「頑張らなくていい?」
「今すぐ次の目標を見つけなくていい。次の旅行先を決めなくていい。今はただ、疲れたと思っていていいと思います」
「でも、三ヶ月も経っているのに」
「三ヶ月は、長いですか」と夕さんが聞いた。
木下さんは少し考えた。
「……短いかもしれません。五年に対して、三ヶ月は」
「そうだと思います。五年間のことが、三ヶ月で整理できなくても、おかしくないと思います」
木下さんの目が、少し潤んだ。
泣くかもしれない、と思った。でも木下さんは泣かなかった。唇を少し噛んで、それから息を吐いた。
「周りが、早く元気になれって雰囲気で。実家の母も、友達も、みんな励ましてくれるんですが、それがかえって辛くて。早く立ち直らなきゃいけないって、焦ってしまって」
「焦ることはないと思います。でも、ずっとそのままでいい、ということではありません。ただ、今の木下さんには、立ち直ることより先に、休むことが必要な気がします」
「休む……こと」
「三ヶ月、外に出られなかったのは、休んでいたからでもあると思います。ただ、その休み方が、自分を責める方向に向いていた気がします」
木下さんは黙っていた。
「自分は三ヶ月も何もできなかった、早く動かなければ、と思いながら休んでいても、休まりません。ただ、疲れを溜めるだけになってしまいます」
「では、どうすれば」
「ちゃんと疲れたと認めて、休んでいいと自分に言ってあげることが、最初だと思います」
ターミナルが立ち上がって、木下さんの方に歩いていった。
木下さんの足元で止まって、上を見た。
木下さんはターミナルを見て、少し表情が穏やかになった。手を伸ばして、ゆっくりと頭を撫でた。
「かわいい」
木下さんの声に、初めて温度が入った。
ターミナルは頭を撫でられたまま、おとなしくしていた。
「この子、何歳なんですか」
木下さんが夕さんに尋ねた。
「はっきりとは分かりません。昔からいますので」
「昔から……ずっとここにいるんですね」
「はい」
「寂しくないんでしょうか」
「どうでしょう。でも、一人ではないと思います。来てくださる方がいますから」
木下さんはターミナルを撫でながら、少し遠くを見た。
「私も、一人ではなかったのかもしれません。三ヶ月、一人だと思っていたけど。実家に帰っていたし、母もいたし、友達も連絡をくれていたし」
「そうですね」
「でも、一番そばにいてほしかった人がいなかった。だから一人だと思っていた」
「その気持ちは、本物だと思います。一番そばにいてほしかった人がいない寂しさは、他の誰かがいても埋まらないことがあります。それは本物の寂しさです」
「木下さん、今日、この駅に来たのはなぜですか?」
木下さんは少し考えた。
「分かりません。気づいたら来ていました。でも……外に出ようとしていたのかもしれません。初めて」
「三ヶ月ぶりに、外に出ようとした」
「はい。何かに背中を押された気がして。何かは分からないんですが」
夕さんは小さくうなずいた。
「木下さんの中に、動き出そうとしているものがあるんだと思います。それが今日、ここに来るという形で出てきたのかもしれません」
「動き出そうとしている」
「まだ完全には動けないかもしれない。でも、三ヶ月前と今は、少し違うと思います」
木下さんは手を止めて、自分の手を見た。ターミナルを撫でていた手を。
「……違うかもしれません。三ヶ月前は、外に出ようとも思えなかった。でも今日、出てきた」
「それは小さいことじゃないと思います」
「一人旅のことを」
「はい」
「一人で行ってみようかな、と少し思っています。でも、どこに行けばいいか分からなくて」
「どこでもいいと思います。目的地は、どこだっていい。大切なのは、一人で外に出るということだと思います」
「目的がなくてもいいですか」
「なくていいと思います。ただ電車に乗って、見知らぬ駅で降りて、ご飯を食べて帰ってくる。それだけでも、最初の一歩になります」
「見知らぬ駅……なんか、この駅みたいですね」
「そうかもしれません」
夕さんはほんの少し、笑った。
木下さんも、笑った。短い笑顔だったけど、本物だった。
夕さんが懐中時計を取り出した。
いつものように蓋を開いて、少しの間見てから、切符を作った。
木下さんに手渡されたそれを、木下さんは受け取って見た。
「どこですか、これ」
「一人旅の最初の駅です。遠くはありません。でも、行ったことはない場所だと思います」
「知らない場所に、一人で」
「はい。怖ければ、日帰りでも構いません。ただ行って、帰ってくるだけでも」
木下さんは切符をしばらく見ていた。
「……行ってみます」
声に、三ヶ月ぶりくらいの意志が宿っているような気がした。
切符は、人生を変えるためのものじゃなくてもいいのかもしれなかった。ただ一歩ぶん、前に出るためのものでも。
電車が来た。
木下さんは立ち上がって、バッグを持って、ターミナルをもう一度撫でた。
「ありがとう」
そう言われ、ターミナルは目を細めた。
ホームに出て、扉が開いて、木下さんが乗り込む前に振り返った。夕さんに向かって、深く頭を下げた。
「ありがとうございました。あの……立ち直る必要はないって言ってもらえて、少し楽になりました。みんなに励まされるたびに、立ち直れない自分がどんどん嫌になっていたので」
「立ち直ることより、休むことが先です。でもいつか、動き出したいと思ったとき、その気持ちを信じて下さい」
木下さんはもう一度頷いて、それから僕を見た。
「あなたも、ここで、ゆっくり考えてみて下さい」
「はい」
「焦らなくていいと思います。焦ってもいいことないって、最近やっと分かりました」
木下さんは電車に乗った。扉が閉まった。
電車がゆっくりと動き出して、夕焼けの中に消えていった。
ホームに静けさが戻った。
夕さんが電車の消えた方向を見ていた。いつものように、頭を下げて、それからしばらく立っていた。
僕はその隣に立っていた。
「夕さん」
「はい」
「一個、聞いていいですか」
「はい」
「木下さんに言ってた、『立ち直る必要はない』って。あれは、本当にそう思ってるんですか」
夕さんは少しの間、夕焼けを見ていた。
「今すぐ立ち直らなくていいということです。でも、ずっとそのままでいいとは思っていません」
「その違いは?」
「順番だと思います。休むことが先で、動くことが後。その順番を間違えると、動けなくなります」
「夕さんは、その順番通りにできていますか」
夕さんは動かなかった。
少しの間があって、
「……むずかしい問いですね」と言った。
答えではなかった。でも、答えに一番近い言葉だった気がした。
その夜、夕食を一緒に食べながら、僕は少し考えていた。
木下さんの話を聞いていて、引っかかったことがあった。
行き先が全部消えた、という言葉。
木下さんの行き先は、誰かと一緒に行くことを前提にしていた。だから相手がいなくなったとき、行き先も一緒に消えた。
僕の場合は逆で、最初から行き先がなかった。
でも、似ているところもある気がした。木下さんは行き先を誰かに預けていた。僕は行き先を決めることを、いつか誰かが教えてくれるのを待っていたような気がする。親でも、先生でも、友達でも、誰かが「これをやれ」と言ってくれれば、そこに向かえた。でも誰もそれを言ってくれなくて、気づいたらここに来ていた。
自分で決めなければいけないのは、分かっている。
でも自分で決めるためには、自分が何を大切にしているかを知らなければいけなくて、それがまだ分からなかった。
夕さんが味噌汁を温め直しながら、こちらを見た。
「考え事ですか?」
「少し」
「無理に言わなくていいですが」
「うん、まだうまく言葉にならないんで。でも、なんか少しずつ、何かが動いている気はします」
「それでいいと思います。ゆっくり動くものの方が、遠くまで行けることがあります」
ターミナルが台所の入り口に座って、夕食の匂いを嗅いでいた。
夕焼けは今夜も続いていて、時計は17時47分のままで、それでも確かに、今日もここで何かが起きた日だったと思った。




