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17時47分の終着駅―駅員の少女と、行き先のない僕―  作者: 明石竜


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第四章 失恋した人

 翌朝、夕さんが台所で何かを作っている音で目が覚めた。

 包丁の音と、何かを炒める音と、それから出汁の匂い。古い木造の駅舎に、その匂いはよく馴染んでいた。

 ターミナルはもういなかった。足元に丸くなっていたはずなのに、いつの間にか消えていた。猫とはそういうものだ、と思った。いるときはいる。いないときはいない。それだけだ。

 顔を洗って、台所を覗くと、夕さんが小さなコンロの前に立っていた。

「おはようございます」と言うと、振り返って「おはようございます」と返ってきた。

「何作ってるんですか」

「味噌汁と、卵焼きです。よければ一緒にどうぞ」

 断る理由がなかった。


 台所の隣に小さな食事スペースがあった。テーブルが一つと、椅子が二脚。窓から夕焼けの光が差し込んでいた。いつも同じ光だったけど、朝の食事のときに見ると、なんとなく違って見えた。

 味噌汁は豆腐とわかめで、卵焼きは少し甘かった。白米は古い炊飯器で炊いたらしく、ほんの少し芯があったけど、それも悪くなかった。

「夕さんって、毎日こういうものを食べてるんですか」

「だいたいそうです。あまりレパートリーはありません」

「一人で全部作るんですか」

「はい。来てくださった方がいるときは、一緒に食べます」

 一緒に、という言葉がさらりと出てきた。特別なことではなく、当たり前のことのように言った。

「それって……嬉しくないですか。一人じゃないと思えて」

 夕さんは味噌汁を一口飲んで、少し考えた。

「嬉しいです。来てくださる方がいると、賑やかになります」

「でも、みんな行ってしまう」

「はい」

 それだけだった。続きはなかった。

 僕は卵焼きを食べながら、それ以上聞かなかった。


 その日の午前中も、静かだった。

 夕さんはいつものように駅舎を整えて、ホームを掃いて、懐中時計を確認していた。僕はベンチに座ったり、ホームに出て線路を眺めたりしていた。

 線路はまっすぐ伸びていて、夕焼けの中に消えていた。どこまで続いているのか、見えなかった。電車が来る方向も、出ていく方向も、同じ夕焼けの中だった。

 ターミナルが線路の近くに座って、遠くを見ていた。何を見ているのか分からない目をしていた。

「ターミナルって、電車に乗りたいとか思わないのかな」

僕は声に出してみた。

 ターミナルは振り返らなかった。

「まあ、そうですよね。ここが好きなんですよね」

「ターミナルはここが自分の場所だと思っているようです」

 振り返ると、夕さんがホームの端に立っていた。

「自分の場所、か」

「この駅ができたときから、ここにいます。それが全部なんだと思います」

「夕さんもそうですか。ここが全部」

 少し間があった。

「そうかもしれません。今は、そうです」

 今は、という言葉が少しだけ引っかかった。でも追わなかった。


 その人が来たのは、昼を過ぎてしばらくしてからだった。

 ホームに現れた瞬間、あ、大人だ、と思った。

 三十代くらいの女性だった。髪は肩より少し下まであって、きちんとまとめてあった。服装は落ち着いていて、バッグは小ぶりで、全体的に整った人だと思った。でも目の下に薄いくまがあって、表情に力がなかった。

 悲しんでいる人の顔だ、と思った。悲しみを抑えて、でも抑えきれていない、そういう顔だった。

 夕さんが近づいていくと、女性は「ここが、終着駅ですか」尋ねた。声は静かで、落ち着いていた。でも落ち着いているのは、もう十分に泣いた後だからのような気がした。

「はい。ようこそ」

 夕さんは穏やかな、優しい声で迎えた。

 女性の名前は、木下葵と言った。三十二歳。

 駅舎に入って、ベンチに腰を下ろして、バッグを膝に置いた。その動作は丁寧で、でも少し機械的だった。何かを考えながら動いているのではなく、体が覚えている動作をただなぞっているような感じがした。

「失礼ですが、最近、何か大きなことがありましたか?」

 夕さんが尋ねると、木下さんは少しだけ目を伏せた。

「はい。別れました」

「大切な方と?」

「五年、付き合った人と。三ヶ月前に」

 三ヶ月前。そこそこ前のことのように聞こえるけど、木下さんの顔を見ると、まだ昨日のことのように感じているのが分かった。

「結婚を考えていました」

木下さんの声に感情はなかった。整理して話しているのか、感情を切り離して話しているのか、どちらか分からなかった。

「三十二歳で、五年付き合って、次は結婚かなと思っていました。周りもそう思っていたと思います。でも、向こうから別れを切り出されました」

「理由を聞きましたか」

「聞きました。『結婚は考えられない』と言われました。理由はそれだけで、それ以上は教えてもらえませんでした」


 駅舎の中が静かだった。

 ターミナルがいつの間にか入ってきていて、木下さんの少し離れたところに座っていた。近づかなかったけど、背を向けてもいなかった。

「仕事も辞めました」

「別れたことと、関係がありますか」

「少しあります。仕事が忙しくて、ちゃんと向き合えていなかったと思うので。でも、それだけじゃないです。仕事自体も、限界でした。ちょうど重なってしまいました」

「今は?」

「実家に戻っています。三ヶ月、ほとんど外に出ていません」

 三ヶ月。

 想像した。三ヶ月間、外に出られないでいる木下さんを。毎日が同じで、でも何も変わらなくて、変えられなくて、それでも時間だけが過ぎていく三ヶ月間を。

「外に出ようと思わなかったわけではありません。でも、どこに行けばいいか分からなくて。行きたい場所がなくて」

「行きたい場所が、なくなってしまったんですか」

 夕さんの質問に、木下さんはしばらく黙っていた。

「……そうかもしれません。あの人と行く予定だった場所が、たくさんあって。旅行の計画も立てていました。でもそれが全部、なくなってしまったので。行き先が全部消えた感じがして」

「行き先が全部消えた」

「はい。変ですよね。自分でも分かっています。別れたからといって、旅行に行けなくなるわけじゃない。一人で行けばいい。でも、一人で行く理由が分からなくて」

「一人で行く理由が必要ですか」

 木下さんは少し考えた。

「私はずっと、誰かと一緒に行動することが当たり前だと思っていました。友達と、彼氏と。一人で旅行に行く人のことが、少し理解できなくて。でも今は、誰かと一緒に行ける人がいなくて、だから行けない。でも、一人でも行ける気がしない」

「なぜ一人では行けない気がするのでしょう」と夕さんが聞いた。

「……楽しめないと思うからです。誰かと共有できないと、楽しいかどうかも分からないような気がして」

「今まで、一人が楽しかった経験はありますか」

 木下さんは少し首を傾けた。

「あります。一人で本を読んでいるときとか、一人で映画を見ているときとか。でもそれは家の中の話で、外に出て一人というのは、また違う気がして」

「どう違いますか」

「外だと、目に入るものが全部、誰かと一緒にいるときの記憶に繋がってしまって。あそこに行ったとき、あの人と一緒だった、とか。一人でいると、その記憶が余計に刺さる気がして」


 夕さんはしばらく何も言わなかった。

 窓の外の夕焼けが、相変わらず同じ角度で差し込んでいた。

「木下さん」と夕さんが言った。「少し聞いてもいいですか」

「はい」

「その人のことを、まだ好きですか」

 木下さんの手が、バッグの上で少し動いた。

「……好きかどうかは、もう分かりません。最初はすごく悲しかったです。次に怒りました。どうして結婚を考えられないのか、理由も言わずに別れるのか、と。でも今は、怒る気力もなくて。ただ、疲れています」

「疲れている」

「五年間、ちゃんと一緒にいようとして、仕事も頑張って、でも全部うまくいかなかった。疲れました。次に何かを頑張れる気がしない」

「頑張らなくていいかもしれません」

夕さんがそう言うと、木下さんが顔を上げた。

「頑張らなくていい?」

「今すぐ次の目標を見つけなくていい。次の旅行先を決めなくていい。今はただ、疲れたと思っていていいと思います」

「でも、三ヶ月も経っているのに」

「三ヶ月は、長いですか」と夕さんが聞いた。

 木下さんは少し考えた。

「……短いかもしれません。五年に対して、三ヶ月は」

「そうだと思います。五年間のことが、三ヶ月で整理できなくても、おかしくないと思います」


 木下さんの目が、少し潤んだ。

 泣くかもしれない、と思った。でも木下さんは泣かなかった。唇を少し噛んで、それから息を吐いた。

「周りが、早く元気になれって雰囲気で。実家の母も、友達も、みんな励ましてくれるんですが、それがかえって辛くて。早く立ち直らなきゃいけないって、焦ってしまって」

「焦ることはないと思います。でも、ずっとそのままでいい、ということではありません。ただ、今の木下さんには、立ち直ることより先に、休むことが必要な気がします」

「休む……こと」

「三ヶ月、外に出られなかったのは、休んでいたからでもあると思います。ただ、その休み方が、自分を責める方向に向いていた気がします」

 木下さんは黙っていた。

「自分は三ヶ月も何もできなかった、早く動かなければ、と思いながら休んでいても、休まりません。ただ、疲れを溜めるだけになってしまいます」

「では、どうすれば」

「ちゃんと疲れたと認めて、休んでいいと自分に言ってあげることが、最初だと思います」


 ターミナルが立ち上がって、木下さんの方に歩いていった。

 木下さんの足元で止まって、上を見た。

 木下さんはターミナルを見て、少し表情が穏やかになった。手を伸ばして、ゆっくりと頭を撫でた。

「かわいい」

木下さんの声に、初めて温度が入った。

 ターミナルは頭を撫でられたまま、おとなしくしていた。

「この子、何歳なんですか」

木下さんが夕さんに尋ねた。

「はっきりとは分かりません。昔からいますので」

「昔から……ずっとここにいるんですね」

「はい」

「寂しくないんでしょうか」

「どうでしょう。でも、一人ではないと思います。来てくださる方がいますから」

 木下さんはターミナルを撫でながら、少し遠くを見た。

「私も、一人ではなかったのかもしれません。三ヶ月、一人だと思っていたけど。実家に帰っていたし、母もいたし、友達も連絡をくれていたし」

「そうですね」

「でも、一番そばにいてほしかった人がいなかった。だから一人だと思っていた」

「その気持ちは、本物だと思います。一番そばにいてほしかった人がいない寂しさは、他の誰かがいても埋まらないことがあります。それは本物の寂しさです」


「木下さん、今日、この駅に来たのはなぜですか?」

 木下さんは少し考えた。

「分かりません。気づいたら来ていました。でも……外に出ようとしていたのかもしれません。初めて」

「三ヶ月ぶりに、外に出ようとした」

「はい。何かに背中を押された気がして。何かは分からないんですが」

 夕さんは小さくうなずいた。

「木下さんの中に、動き出そうとしているものがあるんだと思います。それが今日、ここに来るという形で出てきたのかもしれません」

「動き出そうとしている」

「まだ完全には動けないかもしれない。でも、三ヶ月前と今は、少し違うと思います」

 木下さんは手を止めて、自分の手を見た。ターミナルを撫でていた手を。

「……違うかもしれません。三ヶ月前は、外に出ようとも思えなかった。でも今日、出てきた」

「それは小さいことじゃないと思います」


「一人旅のことを」

「はい」

「一人で行ってみようかな、と少し思っています。でも、どこに行けばいいか分からなくて」

「どこでもいいと思います。目的地は、どこだっていい。大切なのは、一人で外に出るということだと思います」

「目的がなくてもいいですか」

「なくていいと思います。ただ電車に乗って、見知らぬ駅で降りて、ご飯を食べて帰ってくる。それだけでも、最初の一歩になります」

「見知らぬ駅……なんか、この駅みたいですね」

「そうかもしれません」

夕さんはほんの少し、笑った。

 木下さんも、笑った。短い笑顔だったけど、本物だった。


 夕さんが懐中時計を取り出した。

 いつものように蓋を開いて、少しの間見てから、切符を作った。

 木下さんに手渡されたそれを、木下さんは受け取って見た。

「どこですか、これ」

「一人旅の最初の駅です。遠くはありません。でも、行ったことはない場所だと思います」

「知らない場所に、一人で」

「はい。怖ければ、日帰りでも構いません。ただ行って、帰ってくるだけでも」

 木下さんは切符をしばらく見ていた。

「……行ってみます」

声に、三ヶ月ぶりくらいの意志が宿っているような気がした。

切符は、人生を変えるためのものじゃなくてもいいのかもしれなかった。ただ一歩ぶん、前に出るためのものでも。

 

 電車が来た。

 木下さんは立ち上がって、バッグを持って、ターミナルをもう一度撫でた。

「ありがとう」

 そう言われ、ターミナルは目を細めた。

 ホームに出て、扉が開いて、木下さんが乗り込む前に振り返った。夕さんに向かって、深く頭を下げた。

「ありがとうございました。あの……立ち直る必要はないって言ってもらえて、少し楽になりました。みんなに励まされるたびに、立ち直れない自分がどんどん嫌になっていたので」

「立ち直ることより、休むことが先です。でもいつか、動き出したいと思ったとき、その気持ちを信じて下さい」

 木下さんはもう一度頷いて、それから僕を見た。

「あなたも、ここで、ゆっくり考えてみて下さい」

「はい」

「焦らなくていいと思います。焦ってもいいことないって、最近やっと分かりました」

 木下さんは電車に乗った。扉が閉まった。

 電車がゆっくりと動き出して、夕焼けの中に消えていった。


 ホームに静けさが戻った。

 夕さんが電車の消えた方向を見ていた。いつものように、頭を下げて、それからしばらく立っていた。

 僕はその隣に立っていた。

「夕さん」

「はい」

「一個、聞いていいですか」

「はい」

「木下さんに言ってた、『立ち直る必要はない』って。あれは、本当にそう思ってるんですか」

 夕さんは少しの間、夕焼けを見ていた。

「今すぐ立ち直らなくていいということです。でも、ずっとそのままでいいとは思っていません」

「その違いは?」

「順番だと思います。休むことが先で、動くことが後。その順番を間違えると、動けなくなります」

「夕さんは、その順番通りにできていますか」

 夕さんは動かなかった。

 少しの間があって、

「……むずかしい問いですね」と言った。

 答えではなかった。でも、答えに一番近い言葉だった気がした。


 その夜、夕食を一緒に食べながら、僕は少し考えていた。

 木下さんの話を聞いていて、引っかかったことがあった。

 行き先が全部消えた、という言葉。

 木下さんの行き先は、誰かと一緒に行くことを前提にしていた。だから相手がいなくなったとき、行き先も一緒に消えた。

 僕の場合は逆で、最初から行き先がなかった。

 でも、似ているところもある気がした。木下さんは行き先を誰かに預けていた。僕は行き先を決めることを、いつか誰かが教えてくれるのを待っていたような気がする。親でも、先生でも、友達でも、誰かが「これをやれ」と言ってくれれば、そこに向かえた。でも誰もそれを言ってくれなくて、気づいたらここに来ていた。

 自分で決めなければいけないのは、分かっている。

 でも自分で決めるためには、自分が何を大切にしているかを知らなければいけなくて、それがまだ分からなかった。

 夕さんが味噌汁を温め直しながら、こちらを見た。

「考え事ですか?」

「少し」

「無理に言わなくていいですが」

「うん、まだうまく言葉にならないんで。でも、なんか少しずつ、何かが動いている気はします」

「それでいいと思います。ゆっくり動くものの方が、遠くまで行けることがあります」

 ターミナルが台所の入り口に座って、夕食の匂いを嗅いでいた。

 夕焼けは今夜も続いていて、時計は17時47分のままで、それでも確かに、今日もここで何かが起きた日だったと思った。


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