表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17時47分の終着駅―駅員の少女と、行き先のない僕―  作者: 明石竜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/10

第三章 帰れない子

 その日は、誰も来なかった。

 朝。と呼ぶことにした時間から夕さんはホームに出たり、駅舎の中を整えたり、懐中時計を確認したりしていた。僕はベンチに座って、特に何をするでもなく過ごした。

 スマホはまだ電波が入らなかった。バッテリーも相変わらず減っていない。時計は17時47分のまま。

 暇か、と言われれば暇だった。でも不思議と、焦らなかった。

 学校にいたときはずっと何かに追われている気がしていた。進路のこと、周りのこと、「そろそろ決めなきゃ」という空気のこと。それが全部、この駅には来ていなかった。時間が止まっているせいかもしれないし、電波が届かないせいかもしれないし、夕焼けがずっと同じせいかもしれない。

 よく分からないけど、ここにいると少し呼吸が楽だった。


 昼過ぎ。田中さんが来た日と同じくらいの時間に、夕さんがお茶を持ってきてくれた。

 古い急須で入れた緑茶で、湯呑みも古かった。でも温かくて、ちゃんと美味しかった。

「夕さんって、ここで生活してるんですか」と僕は聞いた。

「はい」

「ご飯とかも?」

「食べます」

「どこで作るんですか」

「奥に小さな台所があります。あまりたいしたものは作れませんが」

 台所まであるのか、と思った。この駅は、見えているより広いのかもしれない。

「一人で食べてるんですか、いつも」

 夕さんは湯呑みを持ったまま少し考えた。

「ターミナルがいます」

 ターミナルはその瞬間、ちょうど駅舎の入り口から入ってきたところだった。我関せず、という顔で歩いて、夕さんの足元で止まった。

「……まあ、そうですね」

 夕さんがまたほんの少し笑った。この人の笑顔は短くて、でもそのぶん本物だと思った。


 誰も来ないまま、時間が過ぎた。

 僕は駅舎の壁に飾られた古い写真をもう一度見た。白黒の写真に写った駅員たち。みんな笑顔で、制服姿で、この駅のホームに立っている。

「昔は、他にも駅員がいたんですか」

「いました。昔は、もう少し賑やかでした」

「今は夕さんだけ?」

「今は私だけです」

 それ以上は言わなかった。僕も聞かなかった。

 写真の中の人たちは、今はどこにいるんだろう。電車に乗って、どこかに行ったのだろうか。それとも――。

 考えかけて、やめた。今はまだ、そこまで聞く必要はない気がした。


 その子が来たのは、夕方に近い時間だった。

 ホームにふらりと現れたとき、最初は小さいな、と思った。

 中学生だった。たぶん一年か二年くらい。セーラー服で、靴は汚れていて、髪は少し乱れていた。大きめのリュックを背負っていて、中にいろいろ詰め込んできたのが外から見ても分かった。

 目が赤かった。泣いた後の目だった。

 でも今は泣いていなかった。泣きたいのを我慢しているのか、もう泣き切ったのか、そのどちらかだった。

 夕さんがホームに出ていくと、その子は夕さんを見て、少し身構えた。

「こんにちは」

 夕さんは挨拶したけど、その子は何も言わなかった。

「ここは終着駅です。ようこそ」

 しばらく間があって、その子はぼそりと言った。

「……知ってる。ここ、来たかったわけじゃないし」


 名前は、村上さくらと言った。中学二年生。

 夕さんに促されて駅舎に入ったけど、ベンチには座らなかった。入り口の近くに立ったまま、腕を組んで、壁の一点を見ていた。

 話しかけるタイミングを、夕さんは急がなかった。お茶を一杯用意して、さくらちゃんの近くに置いた。さくらちゃんは最初無視していたけど、少しして、黙ってそれを手に取った。

 ターミナルが入り口の近くをうろうろしていた。さくらちゃんの存在を確認するように、一定の距離を保ちながら。

 僕はベンチで静かにしていた。存在を消すようにしていた。

 しばらくして、さくらちゃんが口を開いた。

「……ここ、なんなの」

「終着駅です」

夕さんは答えた。

「それは聞いた。どういう意味の終着駅なのって聞いてる」

 少し刺のある言い方だったけど、夕さんは動じなかった。

「どこに行けばいいか分からなくなった人が来る駅です。ここで、次の行き先を探します」

「次の行き先」

「はい」

 さくらちゃんは鼻で笑うような音を出した。笑いたかったのか、泣きたかったのか、分からなかった。

「私、行き先はわかってる。でも行けないだけ」


「家に帰れないんですか」

夕さんが尋ねると、さくらちゃんの肩がぴくりと動いた。

「……なんで分かるの」

「少しだけ、分かるんです。来てくださった方のことが」

 さくらちゃんはしばらく夕さんを見ていた。疑っているような目だったけど、やがて視線を外した。

「帰れないんじゃない。帰りたくないの」

「そうですか」

「お母さんと喧嘩した。大きい喧嘩。私が悪いとは思ってない」

「何があったか、話せますか」

 さくらちゃんは少しの間黙った。腕の組み方が少し変わった。防御しているような組み方から、考えているような組み方に。

「部活のこと。私、今の部活やめたくて。でもお母さんが絶対ダメって」

「何の部活ですか」

「バレー。中学入るときにお母さんがやれって言って、やってみたら普通に嫌いだった。向いてないし、楽しくないし、もう三学期でやめようと思って言ったら」

「なんと言われましたか」

「『せめて一年間は続けなさい』って。それで言い合いになって、最終的に『だったら出て行けば』って言われた」

 声が少し硬くなっていた。

「出て行けって言われたから、出て行ってきた。意地でも帰りたくない」


 夕さんはしばらく何も言わなかった。

 さくらちゃんのお茶が、ほとんど空になっていた。

「お母さんが『出て行けば』と言ったとき、どんな気持ちでしたか?」

「頭にきた」

「それだけですか?」

 さくらちゃんは黙った。


 少し間をおいて、答えた。

「……悲しかった。出て行けって言うんだと思わなかったから」

声が少し低くなっていた。

「お母さんに、そんなことを言ってほしくなかった?」

「当たり前じゃん」

 その声は、さっきより子どもっぽかった。刺が取れて、素の声が出てきたような感じがした。

「お母さんが悪いとは思ってるけど、でも、私も言い過ぎたと思う。『お母さんの言う通りにするためにバレーやってんじゃない』って言った。言い過ぎだったかも」

「どうしてそう思いますか?」

「だって……それは本当のことだけど、あんな言い方じゃなくてもよかった」


 ターミナルが、さくらちゃんの方に少しだけ近づいた。

 さくらちゃんはターミナルに気づいて、少し驚いた顔をした。

「猫、いるんだ」

「ターミナルといいます」

「ターミナル?」

「この駅に昔からいます」

 さくらちゃんはしゃがんで、ターミナルに手を伸ばした。ターミナルは一瞬止まって、それから――驚いたことに、さくらちゃんの手に頭を押しつけた。

 夕さんが言葉を探すより先に、ターミナルの方がさくらちゃんの強がりをほどいてしまった気がした。

 僕が来た日から、ターミナルが誰かに頭を押しつけるのを見たのは初めてだった。

「かわいい」

さくらちゃんの声が、さっきと全然違った。素直な声だった。

 ターミナルは撫でられるがままになっていた。

 

「さくらちゃん」

夕さんが呼ぶと、さくらちゃんはターミナルを撫でながら顔を上げた。

「今夜、帰るつもりはありますか」

「ない」

「明日は?」

 さくらちゃんは少し考えた。

「分かんない。でも……家に帰ること自体は、したくないわけじゃない。帰りたくないんじゃなくて、謝れない」

「謝れない?」

「謝ったら、負けた気がする。でも、謝らないと帰れない」

「謝ることは、負けることですか?」

夕さんが尋ねると、さくらちゃんは手を止めた。

「……そう思ってた。でも今は、よく分かんない」

「謝るとしたら、何に謝りますか」

「言い方が悪かったこと。それと、心配かけたこと」

「謝りたくないこと、はありますか」

「部活やめたいって気持ち。それは謝りたくない」

「謝る必要はないと思います」

夕さんがそう言うと、さくらちゃんが顔を上げた。

「部活を続けたくないことは、さくらちゃんの気持ちです。そこは誰かに謝るものじゃない。でも、言い方や、心配をかけたことは、伝えることができます」

「それって……謝ることと、同じじゃないの?」

「少し違います。『部活をやめたい気持ちは間違ってませんでした』と言いながら、でも『あの言い方は良くなかった』と伝えることは、できます」


 さくらちゃんはしばらく黙って、ターミナルを見ていた。

 ターミナルはさくらちゃんの膝に乗ろうとして、体重をかけて、さくらちゃんが膝を整えてやると、そのままおさまった。

「……お母さんも、悪かったと思う。出て行けって言ったこと。あれはひどいと思う」

「そう思っていいと思います」

「でも、お母さんも心配してたんだと思う。なんか、バレーの話だけじゃなくて、私が学校でうまくいってないの、気づいてたと思うから」

「うまくいっていないんですか、学校で」

 さくらちゃんは少し視線を落とした。

「……グループがめんどくさくなってる。バレー部のグループ。やめたいのって、部活が嫌いなだけじゃなくて、そっちもあって」

「お母さんにはそれを話しましたか」

「話してない。なんか、話したら余計うるさくなると思って」

「そうかもしれません。でも、話さないと、伝わらないこともあります」

「分かってる。分かってるけど、怖い」

「怖いですか」

「ちゃんと話したのに、それでも分かってもらえなかったら、もっと傷つく気がして」

 夕焼けの光が、さくらちゃんの横顔に当たっていた。

 中学二年生の横顔だった。怒っていて、疲れていて、でも本当はただ帰りたいだけの顔だった。

 僕は黙って見ていた。

 何か言おうか、と思った。でも出てくる言葉がなかった。僕はこういうとき、いつも人の話を聞く側に回る。相談には乗れても、自分では何も言えない。それがコンプレックスだったけど、今は少し違う気がした。ここで黙って聞いていることも、何かの役に立っているかもしれない、と思えた。

「さくらちゃん、怖いのは当然です。ちゃんと話して、それでも伝わらないことはあります」

「じゃあ意味ないじゃん」

「伝わらなかったとしても、さくらちゃんが伝えようとしたことは、残ります。それはなかったことにはなりません」

 さくらちゃんは黙っていた。

「お母さんが怒っているのは、さくらちゃんのことが嫌いだからじゃないと思います。心配しているから、うまく言葉にならなくなっているんだと思います。それはさくらちゃんも同じではないですか」

「……同じかも。好きだから、腹も立つ」

「そうですね」

 ターミナルがさくらちゃんの膝の上でごろごろと鳴き始めた。

 さくらちゃんの目が、少し潤んだ。泣かなかったけど、潤んだ。

「帰りたいですか?」

夕さんが優しく尋ねた。

 さくらちゃんはしばらく答えなかった。


「……帰りたい。帰りたいけど、帰り方が分かんない」

「帰り方」

「どんな顔して帰ればいいか分かんない。謝る言葉も分かんないし、どこから話せばいいかも分かんないし」

「最初の一言だけ、決めればいいかもしれません」

「最初の一言?」

「ドアを開けて、最初に言う言葉だけ。それだけ決めて帰れば、あとは何とかなることが多いです」

「最初の一言って、何を言えばいいの」

 夕さんは少し考えた。

「例えば、『ただいま』でも、いいと思います」

 さくらちゃんが夕さんを見た。

「それだけ?」

「それだけです。謝罪も説明も、最初じゃなくていい。まずドアを開けて、ただいまと言う。それだけでいいと思います」

 さくらちゃんは「ただいま」と小さく呟いた。練習のように、声に出してみた。

「……言えるかも」


 夕さんが懐中時計を取り出した。

 蓋を開いて、少しの間見て、それから切符を作った。

 さくらちゃんに手渡されたそれを、さくらちゃんはじっと見た。

「家の最寄り駅です」

 さくらちゃんは切符を見たまま、しばらく何も言わなかった。

「……一個だけ聞いていいですか」

「はい」

「お母さんに話して、部活のこと、分かってもらえなかったとしたら……それでも帰ってよかったってなりますか?」

 夕さんは少しの間、さくらちゃんを見た。

「部活の話は、一回で決着がつかなくてもいいと思います。何度も話すことができます。でも、今夜帰ることは、それとは別の話です」

「別?」

「家はさくらちゃんの帰る場所です。それは、喧嘩の勝ち負けで変わるものじゃないと思います」

 さくらちゃんは切符を握った。

「……ありがとう」

その言葉は、夕さんに向けて言ったのか、自分に向けて言ったのか、分からなかった。


 電車が来た。

 さくらちゃんはターミナルを膝から下ろして、立ち上がった。リュックを背負い直して、切符を手に持って、ホームに出た。

 電車の扉が開くとき、さくらちゃんは振り返った。

 夕さんに向けて、ぺこりと頭を下げた。

 それから僕を見た。

「あなたも、悩んでるの?」

「はい」

「何に?」

「どこに行きたいか、分からなくて」

 さくらちゃんは少し考えるような顔をした。

「私はどこに行きたいかは分かってたけど、帰り方が分からなかった。でも帰り方って、ただいまって言うだけでよかった」

「……うん」

「あなたの行き先も、そういう感じで、気づいたら分かるといいね」

 それだけ言って、さくらちゃんは電車に乗った。

 扉が閉まって、電車が動き出した。


 電車が消えてから、しばらく誰も何も言わなかった。

 ターミナルがホームの端に行って、電車の消えた方向を見ていた。さっきまでさくらちゃんに撫でられていた頭を、少し傾けていた。

「夕さん」

「はい」

「さくらちゃんに言ってたこと。『家はさくらちゃんの帰る場所で、それは喧嘩の勝ち負けで変わらない』って」

「はい」

「あれ、すごいと思いました」

 夕さんは少し首を傾けた。

「そうですか」

「なんか、そういうことって、言えそうで言えないじゃないですか。正論じゃなくて、本当のことって感じがして」

 夕さんはしばらく黙っていた。


「さくらちゃんは、最初から分かっていたんだと思います。帰りたいということも、謝りたいということも。私はそれを、言葉にするお手伝いをしただけです」

「でも、そのお手伝いが大事なんですよね」

「そうかもしれません。言葉にならないと、動けないことがあります。気持ちはあっても」


 その夜、僕はなかなか眠れなかった。

 さくらちゃんの言葉が頭の中にあった。

 あなたの行き先も、そういう感じで、気づいたら分かるといいね。

 気づいたら分かる。

 それが正しいかどうかは分からない。でも、なんか違うかもしれないとも思った。さくらちゃんの場合は、行き先は最初から分かっていた。帰り方が分からなかっただけだった。

 僕の場合は、行き先が分からない。

 どこに行きたいか、という問いへの答えが、まだない。

 でも――夕さんが毎日ここで乗客の話を聞いて、気持ちを言葉にするお手伝いをしている、という話を聞いて、なにかが微かに引っかかった。

 引っかかった、という感触だけがあって、中身はまだ掴めなかった。

 ターミナルが部屋の入り口に来て、中を覗いた。

「眠れないんだ」

 僕は話しかけてみた。

 ターミナルはしばらくそこにいて、それから入ってきて、長椅子の足元に丸くなった。

 僕のそばに来たのは、初めてだった。

「……ありがとう」

 ターミナルは何も言わなかった。でも、離れなかった。

 窓の外は、今夜もずっと夕焼けだった。

 時計は17時47分のままで、でも確かに、昨日と今日は違う日だと思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ