第三章 帰れない子
その日は、誰も来なかった。
朝。と呼ぶことにした時間から夕さんはホームに出たり、駅舎の中を整えたり、懐中時計を確認したりしていた。僕はベンチに座って、特に何をするでもなく過ごした。
スマホはまだ電波が入らなかった。バッテリーも相変わらず減っていない。時計は17時47分のまま。
暇か、と言われれば暇だった。でも不思議と、焦らなかった。
学校にいたときはずっと何かに追われている気がしていた。進路のこと、周りのこと、「そろそろ決めなきゃ」という空気のこと。それが全部、この駅には来ていなかった。時間が止まっているせいかもしれないし、電波が届かないせいかもしれないし、夕焼けがずっと同じせいかもしれない。
よく分からないけど、ここにいると少し呼吸が楽だった。
昼過ぎ。田中さんが来た日と同じくらいの時間に、夕さんがお茶を持ってきてくれた。
古い急須で入れた緑茶で、湯呑みも古かった。でも温かくて、ちゃんと美味しかった。
「夕さんって、ここで生活してるんですか」と僕は聞いた。
「はい」
「ご飯とかも?」
「食べます」
「どこで作るんですか」
「奥に小さな台所があります。あまりたいしたものは作れませんが」
台所まであるのか、と思った。この駅は、見えているより広いのかもしれない。
「一人で食べてるんですか、いつも」
夕さんは湯呑みを持ったまま少し考えた。
「ターミナルがいます」
ターミナルはその瞬間、ちょうど駅舎の入り口から入ってきたところだった。我関せず、という顔で歩いて、夕さんの足元で止まった。
「……まあ、そうですね」
夕さんがまたほんの少し笑った。この人の笑顔は短くて、でもそのぶん本物だと思った。
誰も来ないまま、時間が過ぎた。
僕は駅舎の壁に飾られた古い写真をもう一度見た。白黒の写真に写った駅員たち。みんな笑顔で、制服姿で、この駅のホームに立っている。
「昔は、他にも駅員がいたんですか」
「いました。昔は、もう少し賑やかでした」
「今は夕さんだけ?」
「今は私だけです」
それ以上は言わなかった。僕も聞かなかった。
写真の中の人たちは、今はどこにいるんだろう。電車に乗って、どこかに行ったのだろうか。それとも――。
考えかけて、やめた。今はまだ、そこまで聞く必要はない気がした。
その子が来たのは、夕方に近い時間だった。
ホームにふらりと現れたとき、最初は小さいな、と思った。
中学生だった。たぶん一年か二年くらい。セーラー服で、靴は汚れていて、髪は少し乱れていた。大きめのリュックを背負っていて、中にいろいろ詰め込んできたのが外から見ても分かった。
目が赤かった。泣いた後の目だった。
でも今は泣いていなかった。泣きたいのを我慢しているのか、もう泣き切ったのか、そのどちらかだった。
夕さんがホームに出ていくと、その子は夕さんを見て、少し身構えた。
「こんにちは」
夕さんは挨拶したけど、その子は何も言わなかった。
「ここは終着駅です。ようこそ」
しばらく間があって、その子はぼそりと言った。
「……知ってる。ここ、来たかったわけじゃないし」
名前は、村上さくらと言った。中学二年生。
夕さんに促されて駅舎に入ったけど、ベンチには座らなかった。入り口の近くに立ったまま、腕を組んで、壁の一点を見ていた。
話しかけるタイミングを、夕さんは急がなかった。お茶を一杯用意して、さくらちゃんの近くに置いた。さくらちゃんは最初無視していたけど、少しして、黙ってそれを手に取った。
ターミナルが入り口の近くをうろうろしていた。さくらちゃんの存在を確認するように、一定の距離を保ちながら。
僕はベンチで静かにしていた。存在を消すようにしていた。
しばらくして、さくらちゃんが口を開いた。
「……ここ、なんなの」
「終着駅です」
夕さんは答えた。
「それは聞いた。どういう意味の終着駅なのって聞いてる」
少し刺のある言い方だったけど、夕さんは動じなかった。
「どこに行けばいいか分からなくなった人が来る駅です。ここで、次の行き先を探します」
「次の行き先」
「はい」
さくらちゃんは鼻で笑うような音を出した。笑いたかったのか、泣きたかったのか、分からなかった。
「私、行き先はわかってる。でも行けないだけ」
「家に帰れないんですか」
夕さんが尋ねると、さくらちゃんの肩がぴくりと動いた。
「……なんで分かるの」
「少しだけ、分かるんです。来てくださった方のことが」
さくらちゃんはしばらく夕さんを見ていた。疑っているような目だったけど、やがて視線を外した。
「帰れないんじゃない。帰りたくないの」
「そうですか」
「お母さんと喧嘩した。大きい喧嘩。私が悪いとは思ってない」
「何があったか、話せますか」
さくらちゃんは少しの間黙った。腕の組み方が少し変わった。防御しているような組み方から、考えているような組み方に。
「部活のこと。私、今の部活やめたくて。でもお母さんが絶対ダメって」
「何の部活ですか」
「バレー。中学入るときにお母さんがやれって言って、やってみたら普通に嫌いだった。向いてないし、楽しくないし、もう三学期でやめようと思って言ったら」
「なんと言われましたか」
「『せめて一年間は続けなさい』って。それで言い合いになって、最終的に『だったら出て行けば』って言われた」
声が少し硬くなっていた。
「出て行けって言われたから、出て行ってきた。意地でも帰りたくない」
夕さんはしばらく何も言わなかった。
さくらちゃんのお茶が、ほとんど空になっていた。
「お母さんが『出て行けば』と言ったとき、どんな気持ちでしたか?」
「頭にきた」
「それだけですか?」
さくらちゃんは黙った。
少し間をおいて、答えた。
「……悲しかった。出て行けって言うんだと思わなかったから」
声が少し低くなっていた。
「お母さんに、そんなことを言ってほしくなかった?」
「当たり前じゃん」
その声は、さっきより子どもっぽかった。刺が取れて、素の声が出てきたような感じがした。
「お母さんが悪いとは思ってるけど、でも、私も言い過ぎたと思う。『お母さんの言う通りにするためにバレーやってんじゃない』って言った。言い過ぎだったかも」
「どうしてそう思いますか?」
「だって……それは本当のことだけど、あんな言い方じゃなくてもよかった」
ターミナルが、さくらちゃんの方に少しだけ近づいた。
さくらちゃんはターミナルに気づいて、少し驚いた顔をした。
「猫、いるんだ」
「ターミナルといいます」
「ターミナル?」
「この駅に昔からいます」
さくらちゃんはしゃがんで、ターミナルに手を伸ばした。ターミナルは一瞬止まって、それから――驚いたことに、さくらちゃんの手に頭を押しつけた。
夕さんが言葉を探すより先に、ターミナルの方がさくらちゃんの強がりをほどいてしまった気がした。
僕が来た日から、ターミナルが誰かに頭を押しつけるのを見たのは初めてだった。
「かわいい」
さくらちゃんの声が、さっきと全然違った。素直な声だった。
ターミナルは撫でられるがままになっていた。
「さくらちゃん」
夕さんが呼ぶと、さくらちゃんはターミナルを撫でながら顔を上げた。
「今夜、帰るつもりはありますか」
「ない」
「明日は?」
さくらちゃんは少し考えた。
「分かんない。でも……家に帰ること自体は、したくないわけじゃない。帰りたくないんじゃなくて、謝れない」
「謝れない?」
「謝ったら、負けた気がする。でも、謝らないと帰れない」
「謝ることは、負けることですか?」
夕さんが尋ねると、さくらちゃんは手を止めた。
「……そう思ってた。でも今は、よく分かんない」
「謝るとしたら、何に謝りますか」
「言い方が悪かったこと。それと、心配かけたこと」
「謝りたくないこと、はありますか」
「部活やめたいって気持ち。それは謝りたくない」
「謝る必要はないと思います」
夕さんがそう言うと、さくらちゃんが顔を上げた。
「部活を続けたくないことは、さくらちゃんの気持ちです。そこは誰かに謝るものじゃない。でも、言い方や、心配をかけたことは、伝えることができます」
「それって……謝ることと、同じじゃないの?」
「少し違います。『部活をやめたい気持ちは間違ってませんでした』と言いながら、でも『あの言い方は良くなかった』と伝えることは、できます」
さくらちゃんはしばらく黙って、ターミナルを見ていた。
ターミナルはさくらちゃんの膝に乗ろうとして、体重をかけて、さくらちゃんが膝を整えてやると、そのままおさまった。
「……お母さんも、悪かったと思う。出て行けって言ったこと。あれはひどいと思う」
「そう思っていいと思います」
「でも、お母さんも心配してたんだと思う。なんか、バレーの話だけじゃなくて、私が学校でうまくいってないの、気づいてたと思うから」
「うまくいっていないんですか、学校で」
さくらちゃんは少し視線を落とした。
「……グループがめんどくさくなってる。バレー部のグループ。やめたいのって、部活が嫌いなだけじゃなくて、そっちもあって」
「お母さんにはそれを話しましたか」
「話してない。なんか、話したら余計うるさくなると思って」
「そうかもしれません。でも、話さないと、伝わらないこともあります」
「分かってる。分かってるけど、怖い」
「怖いですか」
「ちゃんと話したのに、それでも分かってもらえなかったら、もっと傷つく気がして」
夕焼けの光が、さくらちゃんの横顔に当たっていた。
中学二年生の横顔だった。怒っていて、疲れていて、でも本当はただ帰りたいだけの顔だった。
僕は黙って見ていた。
何か言おうか、と思った。でも出てくる言葉がなかった。僕はこういうとき、いつも人の話を聞く側に回る。相談には乗れても、自分では何も言えない。それがコンプレックスだったけど、今は少し違う気がした。ここで黙って聞いていることも、何かの役に立っているかもしれない、と思えた。
「さくらちゃん、怖いのは当然です。ちゃんと話して、それでも伝わらないことはあります」
「じゃあ意味ないじゃん」
「伝わらなかったとしても、さくらちゃんが伝えようとしたことは、残ります。それはなかったことにはなりません」
さくらちゃんは黙っていた。
「お母さんが怒っているのは、さくらちゃんのことが嫌いだからじゃないと思います。心配しているから、うまく言葉にならなくなっているんだと思います。それはさくらちゃんも同じではないですか」
「……同じかも。好きだから、腹も立つ」
「そうですね」
ターミナルがさくらちゃんの膝の上でごろごろと鳴き始めた。
さくらちゃんの目が、少し潤んだ。泣かなかったけど、潤んだ。
「帰りたいですか?」
夕さんが優しく尋ねた。
さくらちゃんはしばらく答えなかった。
「……帰りたい。帰りたいけど、帰り方が分かんない」
「帰り方」
「どんな顔して帰ればいいか分かんない。謝る言葉も分かんないし、どこから話せばいいかも分かんないし」
「最初の一言だけ、決めればいいかもしれません」
「最初の一言?」
「ドアを開けて、最初に言う言葉だけ。それだけ決めて帰れば、あとは何とかなることが多いです」
「最初の一言って、何を言えばいいの」
夕さんは少し考えた。
「例えば、『ただいま』でも、いいと思います」
さくらちゃんが夕さんを見た。
「それだけ?」
「それだけです。謝罪も説明も、最初じゃなくていい。まずドアを開けて、ただいまと言う。それだけでいいと思います」
さくらちゃんは「ただいま」と小さく呟いた。練習のように、声に出してみた。
「……言えるかも」
夕さんが懐中時計を取り出した。
蓋を開いて、少しの間見て、それから切符を作った。
さくらちゃんに手渡されたそれを、さくらちゃんはじっと見た。
「家の最寄り駅です」
さくらちゃんは切符を見たまま、しばらく何も言わなかった。
「……一個だけ聞いていいですか」
「はい」
「お母さんに話して、部活のこと、分かってもらえなかったとしたら……それでも帰ってよかったってなりますか?」
夕さんは少しの間、さくらちゃんを見た。
「部活の話は、一回で決着がつかなくてもいいと思います。何度も話すことができます。でも、今夜帰ることは、それとは別の話です」
「別?」
「家はさくらちゃんの帰る場所です。それは、喧嘩の勝ち負けで変わるものじゃないと思います」
さくらちゃんは切符を握った。
「……ありがとう」
その言葉は、夕さんに向けて言ったのか、自分に向けて言ったのか、分からなかった。
電車が来た。
さくらちゃんはターミナルを膝から下ろして、立ち上がった。リュックを背負い直して、切符を手に持って、ホームに出た。
電車の扉が開くとき、さくらちゃんは振り返った。
夕さんに向けて、ぺこりと頭を下げた。
それから僕を見た。
「あなたも、悩んでるの?」
「はい」
「何に?」
「どこに行きたいか、分からなくて」
さくらちゃんは少し考えるような顔をした。
「私はどこに行きたいかは分かってたけど、帰り方が分からなかった。でも帰り方って、ただいまって言うだけでよかった」
「……うん」
「あなたの行き先も、そういう感じで、気づいたら分かるといいね」
それだけ言って、さくらちゃんは電車に乗った。
扉が閉まって、電車が動き出した。
電車が消えてから、しばらく誰も何も言わなかった。
ターミナルがホームの端に行って、電車の消えた方向を見ていた。さっきまでさくらちゃんに撫でられていた頭を、少し傾けていた。
「夕さん」
「はい」
「さくらちゃんに言ってたこと。『家はさくらちゃんの帰る場所で、それは喧嘩の勝ち負けで変わらない』って」
「はい」
「あれ、すごいと思いました」
夕さんは少し首を傾けた。
「そうですか」
「なんか、そういうことって、言えそうで言えないじゃないですか。正論じゃなくて、本当のことって感じがして」
夕さんはしばらく黙っていた。
「さくらちゃんは、最初から分かっていたんだと思います。帰りたいということも、謝りたいということも。私はそれを、言葉にするお手伝いをしただけです」
「でも、そのお手伝いが大事なんですよね」
「そうかもしれません。言葉にならないと、動けないことがあります。気持ちはあっても」
その夜、僕はなかなか眠れなかった。
さくらちゃんの言葉が頭の中にあった。
あなたの行き先も、そういう感じで、気づいたら分かるといいね。
気づいたら分かる。
それが正しいかどうかは分からない。でも、なんか違うかもしれないとも思った。さくらちゃんの場合は、行き先は最初から分かっていた。帰り方が分からなかっただけだった。
僕の場合は、行き先が分からない。
どこに行きたいか、という問いへの答えが、まだない。
でも――夕さんが毎日ここで乗客の話を聞いて、気持ちを言葉にするお手伝いをしている、という話を聞いて、なにかが微かに引っかかった。
引っかかった、という感触だけがあって、中身はまだ掴めなかった。
ターミナルが部屋の入り口に来て、中を覗いた。
「眠れないんだ」
僕は話しかけてみた。
ターミナルはしばらくそこにいて、それから入ってきて、長椅子の足元に丸くなった。
僕のそばに来たのは、初めてだった。
「……ありがとう」
ターミナルは何も言わなかった。でも、離れなかった。
窓の外は、今夜もずっと夕焼けだった。
時計は17時47分のままで、でも確かに、昨日と今日は違う日だと思った。




