第二章 夢をやめた人
朝、というのかどうか分からなかった。
窓の外はずっと夕焼けのままだった。17時47分の光が、昨日と同じ角度で差し込んでいる。時計の針は動いていない。でも確かに、僕は眠って、目が覚めた。それだけは本物だった。
夕さんが用意してくれた毛布は古かったけど、温かかった。駅舎の奥に小さな部屋があって、そこにベッド代わりの長椅子がある。「宿泊用ではないんですが」と夕さんは少し申し訳なさそうに言っていたけど、僕にとっては十分だった。
目を覚ましてから少しの間、天井を見ていた。
木目の古い天井。どこかで鳥が鳴いている。ターミナルが部屋の入り口に座っていて、僕を見ていた。
「おはよう」と言ってみた。
ターミナルは一秒だけ僕を見て、それから視線を外した。
「……そっか」
起き上がって、顔を洗った。蛇口をひねると水が出た。冷たくて、それがやけにはっきりしていた。鏡を見ると、寝ぐせがひどかった。直そうとしたけど、どうにもならなかったのでやめた。
ホームに出ると、夕さんはすでにそこにいた。
制服姿で、ホームの端に立って、線路の向こうを見ていた。遠くを見ているようで、でも何か特定のものを見ているわけでもなさそうな目だった。
足音に気づいたのか、夕さんがこちらを向いた。
「おはようございます、渚さん。よく眠れましたか」
「はい。思ったより」
正直に答えたら、夕さんは小さくうなずいた。
「それはよかったです」
ターミナルがいつの間にか僕の足元にいた。相変わらず温度の低い目をしていたけど、一応ついてきているらしかった。
「今日も誰か来ますか?」
「来るかもしれません。分からない日もあります」
「夕さんは、毎日ここにいるんですか?」
少し間があった。
「はい」
それだけだった。続きはなかった。僕も追わなかった。
午前中、と呼ぶことにした時間帯は、静かだった。
夕さんはホームを掃いたり、駅舎の中を拭いたり、時々懐中時計を開いて何かを確認したりしていた。その動作はどれも無駄がなくて、何年も繰り返してきたことが分かった。
僕はベンチに座って、それを眺めていた。
スマホはまだ電波が入らなかった。バッテリーは減っていない。時計アプリを開いても、17時47分のままだった。家族に連絡できないことが少し気になったけど、不思議とそれほど焦らなかった。ここにいる間は、外の時間は動いていないのかもしれない、と思った。そういうことにしておくことにした。
進路希望調査のことは、考えなかった。
考えなくていい、と最初に感じていた。
その人が来たのは、昼を過ぎた頃だった。
二十歳くらいの男性で、昨日来た人とは少し雰囲気が違った。昨日の人は疲れた目をしていたけど、この人の目は違う種類の疲れ方をしていた。何かを溜め込んで、でもどこにも出せなくて、そのまま固まってしまったような目だった。
リュックを背負っていた。大きなリュックで、中にいろんなものが入っているのか、ずっしりと重そうだった。
ホームに現れた瞬間、きょろきょろと辺りを見回した。それから夕さんを見つけて、少し安心したような顔をした。
「あの、ここ、終着駅……ですか?」
「はい。ようこそ」
夕さんは笑顔で答えた。
男性の名前は、田中圭介と言った。
大学四年生。就活は今年の春に終わった。
夕さんに促されて駅舎の中に入り、ベンチに腰を下ろして、最初はなかなか話さなかった。僕が隣のベンチにいることに気づいて、少し驚いた顔をした。
「他にも、来てる人いるんですね」
「昨日から。まだ行き先が決まってないので」
田中さんは「そうですか」と言って、少し考えるような顔をした。それから夕さんを見た。
「俺も……同じかもしれない」
夕さんは何も言わずに、続きを待った。
田中さんは大きく息を吸って、それから話し始めた。
「ゲームが、好きだったんです。ずっと」
田中さんの声は低くて、最初はぽつぽつとしていた。
「中学のときに初めて自分でプログラムしたゲームが、クラスで少し話題になって。それが嬉しくて、高校でも独学で作り続けて。大学は情報系に入って、もうゲームクリエイターになるしかないって思ってたんです。ゲームを作ることが、俺にとっては全部だったから」
懐中時計を夕さんがそっと手の中で転がしているのが見えた。話の邪魔をしない、でも聞いているという合図のように見えた。
「就活で、ゲーム会社を受けました。大手から中小まで、全部で十二社」
田中さんは窓の外を見た。
「全部、落ちました」
その言葉は、思ったより穏やかに出てきた。怒りでも悲しみでもなく、ただ事実として言ったような声だった。それがかえって、胸に刺さった。
「最終面接まで行ったのが三社あって、そこも全部ダメで。選考が終わるたびに、自分の作ったゲームのどこが悪かったんだろうって考えて、直して、また出して、また落ちて」
田中さんはリュックを膝の上に引き寄せた。
「就職活動が終わって、親に報告したら、もう諦めろって言われました。ゲームなんて不安定な業界は向いてない、安定した会社に入れって。普通の就職をしろって」
「今は、どうしていますか」
夕さんが尋ねた。
「内定は一社だけもらってます。ゲームとは全然関係ない、物流系の会社。来年の四月から入ることになってます」
「それは、自分で決めましたか」
田中さんは少しの間、答えなかった。
「……親が決めました。俺は、ただ、判子を押しました」
駅舎の中がしんとした。
ターミナルがいつの間にかベンチの下に入り込んでいて、丸くなっていた。眠っているのか起きているのか分からなかったけど、いるだけで少し空気が柔らかかった。
「本当は、まだ諦めたくないんです」
田中さんの声が、ここで初めて揺れた。
「内定先には悪いと思ってる。でも、このまま判子を押したまま四月を迎えていいのかって。ゲームを作ることを、本当に諦めていいのかって。ずっと考えてて、でも答えが出なくて……気づいたら、ここに来てた」
「ゲームは、今も作っていますか?」
夕さんが尋ねた。
「就活が終わってから、作れてないです」
「なぜですか?」
田中さんは少し驚いたような顔をした。なぜ、という問いを想定していなかったのかもしれない。
「……作っても、意味ないかなって思って」
「意味がない、というのは」
「どこにも出せないし、誰にも見てもらえないし」
「作ること自体は、好きですか」
田中さんはまた黙った。今度の沈黙は短かった。
「好きです。好きだから、つらいんです」
夕さんはしばらくの間、何も言わなかった。
窓の外の夕焼けが、やわらかく差し込んでいた。17時47分の光は、いつでも同じ角度にあった。
「田中さん、少し聞いてもいいですか」
「はい」
「ゲーム会社に入ることと、ゲームを作ることは、同じことですか」
田中さんは眉を動かした。
「……違う、と思います。でも……」
「でも?」
「ゲーム会社に入らないと、ゲームは作れないと思ってました。ちゃんとしたものは」
「ちゃんとしたもの、というのは」
「多くの人に届くもの。評価されるもの。仕事として成立するもの」
「それは、あなたが最初にゲームを作り始めた理由ですか」
田中さんの口が、少し開いて、止まった。
中学のとき、クラスで少し話題になった。それが嬉しかった。でも最初は、そのために作り始めたわけじゃなかったはずだ。最初はただ、作りたかっただけだったはずだ。
「……違います」
田中さんの声が少し変わっていた。
「最初は、作りたかったから、作ってた」
「今もその気持ちは、ありますか」
「……あります。消えてないです。消したかったけど、消えなかった」
田中さんは自分で言った言葉に驚いているようだった。消したかったけど消えなかった、という言葉が、本人の中でも予想外に出てきたらしかった。
「ゲーム会社に入ることは、一つの道です。でも唯一の道ではないと思います」
「でも親は……」
「親御さんのことは、大切だと思います。心配されているのだと思います」
夕さんの言い方は、批判するものではなかった。
「でも、田中さんの人生の行き先を決めるのは、田中さんです」
それは、すごく当たり前のことだった。
でも当たり前のことが、一番言われていなかったりする。
「今すぐ全部を変えなくてもいいかもしれません。内定を辞退するかどうかは、田中さんが決めることです。でも、もしもう一つだけ道があるとしたら……ゲームを作りながら、別の仕事をする道も、あります」
「専門学校、ですか」
「ゲームの制作を学べる場所は、いくつかあります。働きながら通える夜間の学校もあります。内定を保留しながら、もう少し考える時間をつくることも、できるかもしれない」
田中さんは俯いた。
「……そんな選択肢、あるんですね」
「最初から諦めるか続けるかの二択ではないかもしれません。もう少しだけ、細かく道を探してみることはできますか」
田中さんはしばらく黙っていた。
膝の上のリュックを両手で抱えていた。中に何が入っているか、僕には見えなかったけど、なんとなく分かる気がした。諦めようとしたものが、全部入っているんじゃないかと思った。
「一個、聞いていいですか」
田中さんは、夕さんではなく、どちらかというと自分自身に向けて言っているような声だった。
「はい」
「俺が専門学校に行って、それでもゲーム会社に入れなかったとしたら」
「その可能性はあります」
夕さんは囁くような声で言った。
「入れなかったとしても、作り続けることはできますか」
「それも、田中さんが決めることです。でも、作り続けることそのものに、意味はあると思います」
「根拠は?」
「根拠はありません。でも、好きだから消せなかった気持ちは、根拠のある気持ちだと思います」
田中さんはしばらくそれを聞いていた。
それから、笑った。
泣きそうな笑顔だったけど、笑顔だった。
「ありがとうございます。なんか、少しだけ、息ができる気がします」
夕さんが懐中時計を取り出した。
蓋を開いて、何かを確認するようにしばらく見てから、指先でそっと触れた。するとまた、白い切符が現れた。
田中さんに手渡されたそれを、僕は隣から見ようとした。文字が一瞬だけ見えた。
そこには、駅の名前が書いてあった。
知らない駅名だったけど、「専門」という文字が含まれていた気がした。
「これが、次の場所です」
夕さんは伝えた。
田中さんは切符を受け取って、じっと見た。
「……これで、乗っていいんですか」
「はい。準備ができたら、ホームに来て下さい」
電車が来るまでの間、田中さんはリュックを開いた。
中に入っていたのは、ノートパソコンだった。古いモデルで、シールがいくつか貼ってある。そのうちの一枚は、キャラクターのシールで、たぶん田中さんが自分で作ったゲームのキャラクターだと思った。
「持ってきてたんですか」
僕は尋ねた。思わず声が出た。
「捨てようとしてたんです。諦めるなら、持ってたくないと思って」
「捨てなかったんですね」
「捨てられなかった。朝から何度もゴミ袋に入れようとして、でも最終的に持ってきてしまった」
消したかったけど、消えなかった。
さっきの言葉と、繋がった。
「持ってきてよかったと思います」
夕さんが言った。
田中さんはパソコンをリュックに戻して、ファスナーを閉めた。さっきより少し手の力が違った。捨てるために持っていたときの力ではなくなっていた。
捨てられないものがある人は、どこにも行けないんじゃなくて、まだ行き先を手放していないのかもしれなかった。
電車が来た。
昨日と同じ古い型の車両で、窓から夕陽が差し込んでいた。扉が開いて、田中さんが乗り込もうとして、一度振り返った。
「あの」
田中さんは僕に向かって言った。
「あなたも、何か決められなくて来たんですか」
「そうです」
「何を?」
「どこに行きたいか」
田中さんはそれを聞いて、少しの間考えるような顔をした。
「それは……難しいですね。俺は行き先はあったけど、道が分からなくなってたから。行き先自体が分からないのは、また別の話ですね」
「そうなんです」
「でも、俺、今日ここに来てよかったと思ってるんで。あなたも、きっといい場所が見つかりますよ」
それは根拠のない励ましだったけど、悪くなかった。
「ありがとうございます」
田中さんは笑って、電車に乗った。扉が閉まって、車両がゆっくりと動き出した。
夕さんが頭を下げて見送った。
電車が夕焼けの向こうに消えていくのを、僕は立ったまま見ていた。
ホームに静けさが戻った。
ターミナルがいつの間にかホームに出てきていて、電車の消えた方向を見ていた。その目は、さっきより少し優しかった気がした。
「夕さん」
「はい」
「さっき、田中さんに言ってたこと」
「はい」
「『行き先を決めるのは自分』って、あれは……田中さんだけじゃなくて、みんなに言ってることですか」
夕さんは少しの間、夕焼けを見ていた。
「そうです。ここに来た方には、みなさんに」
「夕さん自身は?」
また間があった。昨日の朝と同じような間だった。
「私は……」
夕さんは言いかけて、止まった。
止まったまま、懐中時計を握った。
「私は、まだ少し時間がかかりそうです」
それだけ言って、夕さんはホームの掃除を再開した。
答えになっているようで、なっていないような言葉だった。でも僕は追わなかった。
代わりに、ターミナルが僕の足元に近づいてきた。さっきまでより明らかに近い位置に来て、しばらくそこにいた。
触っていいか分からなくて、そのままにしていた。
でもターミナルは離れなかった。
夕焼けの中で、時計は17時47分のままだった。




