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17時47分の終着駅―駅員の少女と、行き先のない僕―  作者: 明石竜


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第一章 17時47分の終着駅

 その駅の時計は、17時47分で止まっていた。

 最初は壊れているだけだと思った。無人駅みたいだったし、古い駅舎だったし、そういうこともあるだろうと。でも、しばらくして気づいた。

 ここには、電車の時刻表がなかった。改札もない。券売機もない。あるのは、古い木のベンチと、止まったままの時計と、それから、線路の向こうに伸びる夕焼けだけだった。

 どうして僕は、こんな駅に来たんだろう。

 そう思って振り返ったとき、

「ここ、終着駅なんです」

 いつの間にか、僕の後ろに駅員の制服を着た女の子が立っていた。

「終着駅?」

「はい」

 思わず聞き返すと、駅員の女の子は小さくうなずいた。

 年は、僕より一つか二つ下に見えた。セミロングの黒髪。古びた紺色の制服は、今どきの鉄道会社のものとは明らかに違う、どこか古めかしいデザインだった。胸ポケットに、金色の懐中時計が半分だけ覗いている。

 表情は穏やかで、でも何かを大切にしまい込んでいるような、そういう静けさがあった。

「はい。ここに、みなさんたどり着くんです」

「みなさんって……誰が来るんですか?」

 女の子は少しだけ考えるようにして、それから言った。

「どこへ行けばいいか、分からなくなった人です」

 その言葉が、夕方の空気の中にゆっくり沈んでいった。

 僕はしばらく何も言えなかった。

 言い返せる言葉が、なかったからだと思う。

「……君が、駅員さん?」

 やっと口から出たのはそんな言葉だった。間抜けだと思ったけど、他に何も浮かばなかった。

「はい。時守夕ときもり ゆうと申します。この駅の、駅員です」

 時守夕。少し変わった名前だと思った。でも、なぜか聞いた瞬間に覚えてしまった。

「僕は、河瀬渚。高校三年で……」

 その先を言おうとして、止まった。高校三年で、何なんだろう。進路も決めていない。夢もない。ここにいる理由も分からない。

「存じています」

「え?」

「河瀬渚さん。十七歳。高校三年生」

 僕は思わず一歩引いた。

「なんで知ってるんですか!?」

「ここに来た方のことは、分かるんです。少しだけ」

 少しだけ、という部分を彼女は穏やかに強調した。全部じゃない、という意味だろうか。それとも、全部は言わない、という意味だろうか。

 そのとき、足元でなにかが動いた。

 三毛猫だった。中型で、耳の先がほんの少し欠けている。目は金色で、僕のことを見上げてくる視線がどこか品定めをしているようだった。

「ニャア」

 一声鳴いて、それだけだった。愛想のかけらもなかった。

「この子は?」

「ターミナルです。この駅に住んでいます。昔からずっと」

「ターミナル……終着点って意味ですか」

「そうです。自分でそう名乗ったので」

 猫が自分で名乗った、という部分に僕はとりあえず突っ込まないことにした。この駅に来てからというもの、何もかもが普通じゃなかった。今さら猫の命名の話で驚いていられなかった。

 ターミナルはしばらく僕を見ていたけど、やがて興味をなくしたように視線を外し、夕さんの足元に寄っていって、そのまま丸くなった。

 僕の足元には来なかった。


 駅舎の中に案内された。古い木造の建物で、天井が高く、わずかに埃の匂いがした。でもどこか清潔で、大切に使われてきたことが分かる空気があった。

 壁には何枚かの古い写真が飾られていた。昔の駅員たちだろうか、制服姿の人間が並んでいる白黒写真。どれも笑顔だった。でも、よく見ると写真のどれかに写っているはずの名前プレートが、全部読めないくらい色あせていた。

「座って下さい」

夕さんはそう言って、奥のベンチを示した。

 プラットホームの外から差し込む夕陽が、駅舎の床に長い影をつくっていた。

「あの……」と僕は言いながら腰を下ろした。

「この駅、どこにあるんですか?」

「どこ、というのは難しい質問です。地図には載っていません」

「地図に載っていない駅なんて、あるんですか」

「ここに来た方は、みなさんそう聞きます」

 彼女は僕の正面に立ったまま、静かな目でこちらを見ていた。怖い目ではなかった。ただ、深い、と思った。なにかをたくさん知っていて、でも全部は言わない、そういう目だった。

「ここは、普通の駅じゃありません。でも、本物の駅です。ここから、本物の電車が出ます」

「電車?」

「一日一本です。17時47分過ぎに来て、18時ちょうどに出ます」

 僕は壁の時計を見た。17時47分で止まっている時計。

「今、何時なんですか?」

「いつも17時47分です。ここにいる間は、時間が動きません」

 それは、ものすごく不思議なことのはずだった。でも、なぜかそれほど驚かなかった。夕暮れのオレンジ色が窓から差し込んでいて、なんとなく、この光の中ではそういうこともあるかもしれないと思えた。


「電車に乗るには、切符が必要です」

夕さんは続けた。彼女は懐中時計を取り出して、蓋をぱちりと開いた。その動作はとても慣れていて、何千回もやってきたように見えた。

「切符には、行き先が書いてあります。ここに来た方には、それぞれの行き先があります。それが決まったとき、切符が用意できます」

「決まらなかったら?」

「ここでは、行き先が決まるまで時間は動きません」

「……決まったら?」

「切符ができます。そのとき、その人の止まっていた時間も動きます。だから、時計も進むんです」

「じゃあ、決まるまでずっと17時47分のまま?」 

「はい。ですから、決まるまでここにいてもらいます」

 そう言って、夕さんはかすかに微笑んだ。笑顔は短くて、すぐに消えた。でも確かにそこにあった。

「ここに来た人は、どこかに行きたいんだけど、どこに行けばいいか分からなくなっている。だからここで、次の行き先を探すんです」

「そういう人が、何人も来るんですか?」

「はい。毎日ではありませんが、来ます」

 毎日来るわけじゃない人間を相手に、ひとりでこの駅を守っている。

 どれくらい前から、と聞きそうになって、やめた。なぜかうまく聞けなかった。


 しばらくして、「来客」がやってきた。

 僕と同じくらいか、少し上に見えた。たぶん十八歳か十九歳くらい。黒いパーカーにジーンズ、スニーカー。大きめのリュックを背負っていて、肩紐を握る手に少し力が入っていた。 

 ホームに現れたとき、その人はまず時計を見て、それから線路を見て、最後に夕さんを見た。

 どこか呆然としていた。疲れているというより、何かを急に失くしてしまって、そのあと何を見ればいいのか分からなくなっている顔だった。


 夕さんはゆっくりと歩いていって、その人の前で立ち止まった。

「ようこそ。終着駅へ」

 その人は少し眉を寄せた。

「……終着駅」

「はい」

「本当にあるんだ」

「ご存じでしたか」

「噂で、少しだけ」

 その人はそう言ってから、苦笑した。

「いや、噂っていうか……変な話ですよね。どこに行けばいいか分からなくなった人が来る駅なんて」

「そうかもしれません」

 夕さんは穏やかにうなずいた。

「でも、いらっしゃいました」


 駅舎の中に入ると、その人はベンチに座る前に一度だけ深く息を吐いた。座ったあとも、すぐには何も言わなかった。

 夕さんは急かさず、正面に立ったまま待っていた。

 僕は少し離れたベンチに座って、その様子を見ていた。

「お名前を聞いてもいいですか」

「……三上晴斗です」

 少し迷うような間があってから、その人――三上さんは答えた。

「十八です」

「ありがとうございます、三上さん」

 夕さんは穏やかな声で言った。

「ここに来た理由を、話せそうなら聞かせて下さい」


 三上さんは、膝の上で両手を組んだ。

「看護学校を、辞めました」

 声は小さかった。でも、はっきりしていた。

「昨日、手続きをして」

 そこで一度止まって、乾いた笑いみたいなものをこぼした。

「辞めたのに、全然すっきりしなくて。むしろ、辞めたあとからの方が苦しくて」


 夕さんは何も言わず、続きを待った。

「入る前は、自分で決めたつもりだったんです。人の役に立つ仕事がしたいって思ってたし、向いてるんじゃないかって言われることも多かったし。自分でも、そうかもしれないって思ってました」

 三上さんは少し視線を落とした。

「でも、入ってみたら違った。勉強が無理だったとかじゃなくて……たぶん、そこにいる自分が、ずっとしっくりこなかったんです」

「しっくりこなかった、ですか」

「はい。実習も、授業も、ちゃんとやろうとは思ってました。でも、やればやるほど、自分がそこに向いてない気がして」

 その声には、逃げた言い訳を探している感じはなかった。むしろ逆で、本当はもう認めてしまっていることを、やっと言葉にしている感じがあった。

「辞めることは、ご自分で決めましたか?」

「はい」

 三上さんはすぐにうなずいた。

「親は反対しました。せっかく入ったのにって。そりゃそうだと思います。自分でもそう思います」

「それでも、辞めた」

「はい」

 今度は答えるまでに少し時間がかかった。

「このまま続けても、たぶん壊れると思ったからです」

 駅舎の中が少し静かになった。

 ターミナルがいつの間にか入り口のところにいて、座ったまま三上さんを見ていた。

「辞めたことを、後悔していますか?」

 夕さんが尋ねた。

「……してないです。でも、してないって思うと、余計苦しいんです」

「どうしてですか?」

「自分で選んで、自分で辞めたことになるからです。誰かのせいにできない。向いてなかったのか、頑張りが足りなかったのかも分からないし、ただ逃げただけかもしれないって、ずっと考えてしまう」

 その言葉に、僕は少しだけ息が詰まった。

 決められないことも苦しいけど、自分で決めたあとに、その決断を疑い続けるのも苦しいんだと思った。

 僕にはまだその苦しさはなかった。でも、少し先にはあるのかもしれないと思った。

「三上さん」

夕さんが呼んだ。

「はい」

「看護学校に入りたいと思った気持ちは、嘘でしたか?」

 三上さんは顔を上げた。

 すぐには答えなかった。

「……嘘じゃないです」

「今もそう思いますか?」

「人の役に立ちたいって気持ちは、たぶん今もあります」

「では、続けられなかったことと、その気持ちが嘘だったことは、同じですか?」

 三上さんは黙った。

 黙ったまま、膝の上の手を少しだけ握った。

「……同じじゃ、ないかもしれない」

 やっと出てきた声は、さっきより少しだけ弱くて、そのぶん本音に近い気がした。

「合わない場所を離れることは、間違いとは限りません」

 夕さんの声は、穏やかだった。

「続けられなかったことと、最初の気持ちが間違っていたことも、同じではないと思います」

「でも、辞めたら、何も残ってないみたいで」

「何も残っていませんか」

 三上さんは少し考えた。

「……分からないです」

「では、少し言い方を変えます。辞めると決めるまでに、自分のことを一つ知ったはずです」

「一つ?」

「ここでは続けられない、と分かった。それは、何もないことではないと思います」

 三上さんはその言葉を、すぐには飲み込めないみたいだった。

 でも、否定もしなかった。

「辞めるとき、怖かったですか?」

 夕さんが尋ねると、三上さんは苦く笑った。

「めちゃくちゃ怖かったです」

「それでも辞めた」

「……はい」

「それは、逃げることと同じでしょうか?」

 三上さんは少し目を見開いた。

 たぶん、その問いは思っていなかったのだと思う。

「分かりません。でも、逃げたかっただけなら、もっと早く辞めてたかもしれないです。ギリギリまで、悩んだので」

 夕さんは小さくうなずいた。

「三上さんは、次の行き先が決まらないまま、今ここにいるんですね」

「はい」

「今すぐ次の進路を決めなくてもいいかもしれません」

 三上さんは夕さんを見た。

「決めなくて、いいんですか」

「方向だけでも、十分です」

「方向?」

「少し休むのか、学び直すのか、誰かに相談するのか。駅名まで決まっていなくても、次に向かう向きが決まれば、切符になることがあります」


 三上さんは、しばらく黙っていた。

 窓の外の夕焼けが、横顔に落ちていた。

「……少しだけ、休みたいです」

 その言葉は、ようやく出てきたものみたいだった。

「それから、ちゃんと考えたい。なんでしんどくなったのかとか、何なら続けられるのかとか」

「はい」

「親にも、まだちゃんと話せてないです。辞めるってことしか言ってないから」

「では、話す時間も必要ですね」

「そう、かもしれないです」


 夕さんは懐中時計を取り出した。

 蓋を開いて、しばらく見てから、そっと指先で触れた。

 白い切符が現れる。

 三上さんは、それを受け取った。

「これは……」

「今の三上さんの、次の行き先です」

 三上さんは切符を見つめた。

 そこに書かれた駅名を見て、少しだけ目を丸くした。

「祖母の家の近くの駅だ」

「休める場所ですか」

「……はい」

 その返事は、今まででいちばん自然だった。


 電車が入ってきた。

 夕焼けの色をまとった古い車両だった。

 三上さんは立ち上がって、リュックを背負い直した。

 扉の前まで行って、それから一度振り返った。

「辞めたこと、間違いじゃないって、まだ思いきれないです」

 夕さんはうなずいた。

「今はそれでいいと思います」

「でも、ここに来る前よりは、少しだけ先がある気がします」

「はい」

「ありがとうございます」

 三上さんは電車に乗った。

 扉が閉まって、車両がゆっくり動き出す。

 夕さんが小さく頭を下げた。

 電車が夕焼けの向こうへ消えていくのを、僕は黙って見ていた。

ホームには静けさだけが残った。

 夕さんは少しだけその場に立っていて、それから振り返って、僕のところに歩いてきた。

「見ていてよかったですか? あの人のこと」

「来た方には、お好きにしていていただいています」

 ターミナルがいつの間にか戻ってきていて、夕さんの隣に座っていた。今度は僕のことも少しだけ見た。やっぱり品定めするような目だったけど、さっきよりわずかに温度があった気がした。

「渚さん」

夕さんが呼んだ。名前を呼ばれるのは、この場所では慣れない気がした。

「はい」

「今日、ここに来た理由を聞いてもいいですか?」

 僕は少し考えた。

 進路が決められないから、とか、学校がつらかったから、とか、そういう答えは浮かんだ。でもそれは全部、正確じゃないような気がした。

 しばらくして、やっと答えが出た。

「……どこに行きたいか、分からないから」

 夕さんはうなずいた。急かさなかった。続きを促しもしなかった。ただ聞いていた。

「みんなは、なんかやりたいことがあったり、なりたいものがあったりするじゃないですか。でも僕には、それがない。ずっとないまま来た。で、そのまま進路を書かないといけない時期になって……なんか、どこにも行けない気がした」

「どこにも行けない、ですか」

夕さんの声に批判はなかった。ただ、確認するように、丁寧に繰り返した。

「そうしたら、ここに来てた。なんで来たのか自分でも分からない。でも……」

 言いかけて、止まった。

 でも、来てよかった、と思っている。

 その続きは、まだうまく言葉にならなかった。


 夕焼けは、いつまでも続いていた。

電車は18時ちょうどに出ていった。

それでも時計は、17時47分のままだった。

この駅だけが、まだ同じ夕暮れの中にあるように思えた。


「今夜は泊まっていけますよ。行き先が決まるまで、何日でも」

 

夕さんの何日でも、という言葉は少し不思議だった。時間が止まっているのに、何日もあるのだろうか。でも聞かなかった。今はそれでよかった。

 ターミナルが伸びをして、あくびをした。

 その顔はどこか呆れているようで、でも嫌いじゃないな、と僕は思った。

「ターミナル」

僕は呼びかけてみた。猫は振り返らなかった。

「……まあ、そうですよね」

 夕さんが、ほんのわずかに笑った。さっきより少しだけ長い笑顔だった。

 僕はベンチに腰を落ち着けて、窓の外の夕焼けを見た。

 どこに行きたいか、まだ分からなかった。

 でも、ここが「終わりの場所じゃない」とはなんとなく感じていた。

 まだ答えは出ていない。

 でも、ここはそれを探す場所なんだと思った。

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