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17時47分の終着駅―駅員の少女と、行き先のない僕―  作者: 明石竜


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17/18

第十七章 17時47分の最終電車

 あの駅のことを、毎日思い出していた。

 家に帰ってから、一週間が経った。

 外の世界では、僕がいなかった時間はほとんど経っていなかった。母は心配していたけど、怒ってはいなかった。父は何も言わなかったけど、夕食のとき少し長く僕の顔を見ていた。

 学校に行った。進路希望調査を提出した。

 担任の先生が受け取って、少し驚いた顔をした。

「河瀬、書けたのか」

「はい」

「何を書いたんだ」

「人の話を聞く仕事に関係する進路を考えたいと思って。まだ具体的には決まっていないんですが、心理学か社会福祉か、そういう方向で大学を調べたいと思っています」

 先生はしばらく調査用紙を見て、それから顔を上げた。

「そうか。じゃあ、一緒に調べよう」

 それだけだった。でも、十分だった。


 あの駅のことを、毎日思い出す。

 夕焼けを見るたびに思い出す。夕方の空が少しオレンジに染まるたびに、あの濃い夕焼けを思い出す。

 ターミナルを思い出す。足元に来て、腹の上で眠って、隣に並んで、話を聞いてくれた猫を。

 夕さんを思い出す。電車の窓越しに、小さく手を挙げた姿を。

 来た人たちを思い出す。田中さん、さくらちゃん、木下さん、中岡さん、橘さん、西村さん、松本さん、千鶴さん。みんなの顔を、声を、覚えている。

 忘れるつもりがなかった。ターミナルみたいに、全員を覚えていようと思っていた。


 ある日の放課後だった。

 夕方の校舎を歩いていると、廊下の窓から夕焼けが見えた。

 いつもの夕焼けだった。外の世界の、普通の夕焼け。

 でもそのとき、胸に何かが走った。

 あの駅の夕焼けとは違う。でも同じ夕焼けだ。どこかで繋がっている。

 立ち止まって、空を見た。

 そのとき、後ろから声がした。

「河瀬くん、どうしたの」

 振り返ると、クラスメートの女子だった。

「なんでもない」と言いかけて、やめた。

 なんでもない、ではなかった。

「夕焼けが、きれいだなと思って」

 その子は少し驚いた顔をして、それから窓の外を見た。

「本当だ、きれいね」

 それだけだった。でも、自分のことを少し話せた気がした。


 一週間後のことだった。

 放課後、一人で歩いていたとき、またあの感触が来た。

 来た、というより、引っ張られる感じだった。

 どこかに行かなければいけない気がした。

 いつもと逆の方向に歩いていた。知らない路地を曲がって、また曲がって、細い坂道を下りて。

 気づいたら、あの駅の前にいた。


 駅は、あった。

 でも、違った。

 建物はあった。線路もあった。時計もあった。

 でも、空気が違った。

 来た最初の日は、この駅に入った瞬間に、特別な空気が満ちていた。夕焼けの濃い光、止まった時間、どこか別の場所に繋がっているような感覚。

 今日は、それがなかった。

 ただの古い駅舎だった。

 時計は17時47分で止まっていた。それだけは変わっていなかった。でも、その時計が止まっていることは、もう不思議ではなかった。壊れているだけに見えた。

 電波は入っていた。

 切符を作れる懐中時計も、なかった。

 夕さんもいなかった。


 ホームに出た。

 線路は続いていた。でも、電車が来る気配はなかった。

 ベンチに座って、空を見た。

 外の世界の、普通の夕焼け。あの駅で見ていた夕焼けより薄かったけど、確かに夕焼けだった。

「ターミナル」と呼んでみた。

 答えはなかった。

 当然だと思った。でも、呼ばずにいられなかった。


 しばらく、ホームに座っていた。

 ここに座って、夕さんの仕事を見ていた。田中さんが来て、さくらちゃんが来て。みんなの話を聞いていた。

 もうここには、誰も来ない。

 夕さんもいない。ターミナルもいない。

 切符も、電車も、ない。

 でも、ここであったことは、本物だった。

 帳面は残っているだろうか、と思った。

 駅舎の奥に行って、棚を見た。

 帳面は、あった。

 夕さんが置いていってくれた帳面が、棚にそのままあった。


 一番新しい帳面を、そっと開いた。

 最後のページを見た。

 千鶴さんの記録があった。夕さんの丁寧な文字で、名前と来た日と行き先が書かれていた。

 その下に、もう一行あった。


 河瀬渚、十七歳。どこに行きたいか分からなかった人。人の話を聞いて、一緒に行き先を探すことが好きだと気づいた人。行き先は、人の行き先を探す仕事に向かう最初の駅。

 

そう書かれていた。

 その下に、もう一行。

 小さな文字で。


 ここに来てくれてありがとう。あなたがいたから、私も出られました。

 

夕さんの文字だった。

 帳面を閉じた。

 しばらく、動けなかった。

 胸の中に、いろんなものが混じっていた。

 嬉しさと、寂しさと、温かさと、少しの悲しさが、全部一緒に混じっていた。

 それを整理しようとしなかった。

 そのままにしていた。

 全部、本物だと思ったから。


 駅舎の外に出た。

 普通の夕焼けだったけど、今日はなぜか濃かった。

 あの駅の夕焼けみたいだった。

 空を見上げて、思った。

 夕さんは今、どこにいるんだろう。

 誰かのそばで、歌っているだろうか。

 怖いままで、一歩だけ踏み出せているだろうか。

 根拠はないけれど、できていると思った。

 夕さんなら、できると思った。


 線路の方を見た。

 そのとき、気がついた。

 ターミナルがいた。

 ホームの端に、いつもの場所に、いつもの姿勢で座っていた。

 電車の来る方向を向いて。

「ターミナル」と呼んだ。

 ターミナルが振り返った。

 金色の目が、こちらを見た。全部知っているような目だった。

 僕は近づいた。

 ターミナルは逃げなかった。

 隣にしゃがんで、頭を撫でた。

 ターミナルは目を細めた。

「ここにいたんですね」

 ターミナルは何も言わなかった。

「夕さんのこと、覚えていますか?」

 ターミナルがゆっくり瞬きをした。

「覚えているんですね。全部、覚えているんですね」


 ターミナルの隣に座った。

 二人で、線路の先を見た。

 夕焼けの中に、線路が伸びていた。

「ターミナル。僕も覚えています。全部」

 ターミナルは答えなかった。

「田中さんも、さくらちゃんも、木下さんも、中岡さんも、橘さんも、西村さんも、松本さんも、千鶴さんも。夕さんも。みんな、覚えています」

 ターミナルがごろごろと鳴き始めた。

「夕さん、大丈夫だと思います。怖いままで、一歩踏み出せていると思います」

 ごろごろという音が続いた。

「僕も、大丈夫です。行き先が決まっています」


 しばらく、ターミナルと並んで座っていた。

 風が吹いた。

 夕焼けの光が、少し動いた。

 そのとき、遠くから音が聞こえた気がした。

 電車の音、ではなかった。

 もっと遠い音だった。

 でも、聞こえた気がした。

 どこか遠くで、誰かが歌っている気がした。

 言葉のない歌ではなかった。言葉のある歌だった。

 行ってらっしゃい、というような。

 また会いましょう、というような。

 大丈夫、というような。

 その声が、夕焼けの中を、どこからか届いてきた。


 ターミナルが耳を立てた。

 聞こえているらしかった。

「夕さんですか?」と尋ねた。

 ターミナルは答えなかった。

 でも、目が細まっていた。

 立ち上がって、ターミナルを、もう一度撫でた。

「また来ます」

 そう言ったら、ターミナルはこちらを見た。

「来てもいいですか?」

 ターミナルがゆっくり瞬きをした。

 それが答えだと思った。

「ありがとう」


 駅舎を出る前に、もう一度時計を見た。

 17時47分で止まっていた。

 いつもと同じだった。

 でも今日は、その止まった時計が、少し違って見えた。

 止まっているのではなく、待っているように見えた。

 次に来る人を。

 次に迷った誰かが、ここに来る日を。

 17時47分に、また誰かが来る日を。


 駅を出た。

 夕焼けの中を、歩いた。

 家に向かって。

 歩きながら、思っていた。

 いつか、ここに誰かを連れてきたい。

 迷っている誰かが、自分の周りにいたとき。どこに行けばいいか分からなくなっているとき。一緒に歩いて、この駅に来て、その人の話を聞く。

 そういうことができたら、いいと思った。

 夕さんがしてくれたことを、自分もしたい。

 それが、僕の行き先に繋がっている気がした。


 家の近くに来たとき、スマホが鳴った。

 知らない番号だった。

「もしもし」

「あ、よかった。繋がった」

 女の声だった。聞いたことのある声だった気がしたけど、思い出せなかった。

「どちらですか?」

「橘です。橘奈緒。あの駅で会った」

 橘さんだった。

「橘さん」

僕は驚いた。

「どうして番号を」

「夕さんに聞いたんです。あなたの番号を教えてもらえますか、って。夕さんが教えてくれた」

「夕さんが」

「はい。連絡が取れるうちに、と言って。ちゃんと帰れましたか」

「はい、帰れました」

「よかった。実は、聞いてほしいことがあって」

「何ですか」

「小説、書けたんです」

「書けたんですか?」

「あの駅から戻って、知らない町に行って、歩いて、それで書きたくなったものを書いた。誰かに見せるためじゃなくて、ただ書きたいから書いた。そうしたら、書けた」

「それは……よかったです」

「担当編集さんに見せたら、泣かれた。こういうのを待っていたって言われた。私も泣いた。なんか、久しぶりに、届いた気がした」

 声に、温かいものが混じっていた。

「届きましたね」

「届きました。あなたに報告したかったんです。直接」

「なんで、僕に」

「あの駅で、あなたがいてくれたから。ちゃんと聞いていてくれた人に、言いたかった」


 電話を切った後、しばらく立っていた。

 橘さんの声が、頭の中に残っていた。

 届きました。

 久しぶりに、届いた気がした。

 それを、僕に報告してくれた。

 聞いていてくれた人に、と言ってくれた。

 あの駅で、ただ聞いていただけだった。何もしていないと思っていた。でも、聞いていることが、誰かにとって意味を持つことがある。

 それが、じわじわと胸に染みてきた。


 空の夕焼けが、少し薄くなっていた。

 でも、まだあった。

 夕焼けが終わっても、すぐに暗くはならない。

 少しの間、明るさが残る。

 その明るさの中を、家に向かって歩いた。

 ポケットの中に、あの切符があった。

 夕さんが作ってくれた切符。

 温かかった。


 家のドアを開けた。

「ただいま」と言ったら、台所から、母の声がした。

「おかえり」

 その言葉が、温かかった。

 さくらちゃんが練習していたただいまを、思い出した。

 帰れなかった子が、帰れるようになった。

 僕も、ちゃんと帰れている。

 それが、当たり前のことだったけど、当たり前のことが温かかった。


 夕食のとき、母に話した。

「進路、少し決まったかもしれない」

「どんな進路?」

「人の話を聞くことに関係する仕事がしたい。心理学とか、社会福祉とか、そういう方向で。まだはっきりはしていないけど」

 母はしばらく何も言わなかった。


「ちゃんと、決めたの」

「決めました」

「どこで、決めたの」

「遠くに行ってたとき。いろんな人の話を聞いていたら、分かりました」

 母はまた少し黙って、それから言った。

「そうか」

 それだけだった。でも、その一言に、いろんなものが入っていた気がした。


 眠る前に、天井を見た。

 いつもの天井だった。あの部屋の木目とは違う、普通の天井。

 でも、悪くなかった。

 ここも自分の場所だと思えた。

 あの駅に行く前は、この天井を見るたびに、どこかに行きたいような焦りがあった。でも今は、なかった。

 行き先が決まっているから、今ここにいても大丈夫だと思えた。

 今ここにいることが、行き先に向かっている途中だと思えた。


 目を閉じる前に、思った。

 夕さんは今日、どんな一日を過ごしたんだろう。

 知らない町で、誰かのそばにいて、歌っているだろうか。

 怖いままで、一歩ずつ進んでいるだろうか。

 根拠はないけれど、そうだと思った。

 ターミナルは今夜、あの駅のホームで、線路の先を見ているだろうか。

 次に来る誰かを、待っているだろうか。

 そうだと思った。

 来た人たちは、それぞれの場所で、それぞれの日々を生きているだろうか。

 分からない。でも、みんな、ちゃんとそれぞれの場所に向かっていると思った。


 あの駅のことを、忘れない。

 17時47分に止まった時計のことを。

 夕焼けがずっと続いていた光のことを。

 古い木のベンチと、懐中時計と、白い切符のことを。

 夕さんの声のことを。

 ターミナルの金色の目のことを。

 ここに来た人は、少しだけ迷っている人です、という言葉のことを。

 そして。

 終着駅は、終わりの駅じゃない。

 ここは、次に行く場所を決める駅です。

 その言葉を、いつまでも覚えていようと思った。


 目を閉じた。

 眠りに落ちる前に、遠くから声が聞こえた気がした。

 あの声だった。

 夕焼けの中を、どこかから届いてくる声。

 行ってらっしゃい、というような。

 大丈夫、というような。

 その声を聞きながら、眠った。

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