第十七章 17時47分の最終電車
あの駅のことを、毎日思い出していた。
家に帰ってから、一週間が経った。
外の世界では、僕がいなかった時間はほとんど経っていなかった。母は心配していたけど、怒ってはいなかった。父は何も言わなかったけど、夕食のとき少し長く僕の顔を見ていた。
学校に行った。進路希望調査を提出した。
担任の先生が受け取って、少し驚いた顔をした。
「河瀬、書けたのか」
「はい」
「何を書いたんだ」
「人の話を聞く仕事に関係する進路を考えたいと思って。まだ具体的には決まっていないんですが、心理学か社会福祉か、そういう方向で大学を調べたいと思っています」
先生はしばらく調査用紙を見て、それから顔を上げた。
「そうか。じゃあ、一緒に調べよう」
それだけだった。でも、十分だった。
あの駅のことを、毎日思い出す。
夕焼けを見るたびに思い出す。夕方の空が少しオレンジに染まるたびに、あの濃い夕焼けを思い出す。
ターミナルを思い出す。足元に来て、腹の上で眠って、隣に並んで、話を聞いてくれた猫を。
夕さんを思い出す。電車の窓越しに、小さく手を挙げた姿を。
来た人たちを思い出す。田中さん、さくらちゃん、木下さん、中岡さん、橘さん、西村さん、松本さん、千鶴さん。みんなの顔を、声を、覚えている。
忘れるつもりがなかった。ターミナルみたいに、全員を覚えていようと思っていた。
ある日の放課後だった。
夕方の校舎を歩いていると、廊下の窓から夕焼けが見えた。
いつもの夕焼けだった。外の世界の、普通の夕焼け。
でもそのとき、胸に何かが走った。
あの駅の夕焼けとは違う。でも同じ夕焼けだ。どこかで繋がっている。
立ち止まって、空を見た。
そのとき、後ろから声がした。
「河瀬くん、どうしたの」
振り返ると、クラスメートの女子だった。
「なんでもない」と言いかけて、やめた。
なんでもない、ではなかった。
「夕焼けが、きれいだなと思って」
その子は少し驚いた顔をして、それから窓の外を見た。
「本当だ、きれいね」
それだけだった。でも、自分のことを少し話せた気がした。
一週間後のことだった。
放課後、一人で歩いていたとき、またあの感触が来た。
来た、というより、引っ張られる感じだった。
どこかに行かなければいけない気がした。
いつもと逆の方向に歩いていた。知らない路地を曲がって、また曲がって、細い坂道を下りて。
気づいたら、あの駅の前にいた。
駅は、あった。
でも、違った。
建物はあった。線路もあった。時計もあった。
でも、空気が違った。
来た最初の日は、この駅に入った瞬間に、特別な空気が満ちていた。夕焼けの濃い光、止まった時間、どこか別の場所に繋がっているような感覚。
今日は、それがなかった。
ただの古い駅舎だった。
時計は17時47分で止まっていた。それだけは変わっていなかった。でも、その時計が止まっていることは、もう不思議ではなかった。壊れているだけに見えた。
電波は入っていた。
切符を作れる懐中時計も、なかった。
夕さんもいなかった。
ホームに出た。
線路は続いていた。でも、電車が来る気配はなかった。
ベンチに座って、空を見た。
外の世界の、普通の夕焼け。あの駅で見ていた夕焼けより薄かったけど、確かに夕焼けだった。
「ターミナル」と呼んでみた。
答えはなかった。
当然だと思った。でも、呼ばずにいられなかった。
しばらく、ホームに座っていた。
ここに座って、夕さんの仕事を見ていた。田中さんが来て、さくらちゃんが来て。みんなの話を聞いていた。
もうここには、誰も来ない。
夕さんもいない。ターミナルもいない。
切符も、電車も、ない。
でも、ここであったことは、本物だった。
帳面は残っているだろうか、と思った。
駅舎の奥に行って、棚を見た。
帳面は、あった。
夕さんが置いていってくれた帳面が、棚にそのままあった。
一番新しい帳面を、そっと開いた。
最後のページを見た。
千鶴さんの記録があった。夕さんの丁寧な文字で、名前と来た日と行き先が書かれていた。
その下に、もう一行あった。
河瀬渚、十七歳。どこに行きたいか分からなかった人。人の話を聞いて、一緒に行き先を探すことが好きだと気づいた人。行き先は、人の行き先を探す仕事に向かう最初の駅。
そう書かれていた。
その下に、もう一行。
小さな文字で。
ここに来てくれてありがとう。あなたがいたから、私も出られました。
夕さんの文字だった。
帳面を閉じた。
しばらく、動けなかった。
胸の中に、いろんなものが混じっていた。
嬉しさと、寂しさと、温かさと、少しの悲しさが、全部一緒に混じっていた。
それを整理しようとしなかった。
そのままにしていた。
全部、本物だと思ったから。
駅舎の外に出た。
普通の夕焼けだったけど、今日はなぜか濃かった。
あの駅の夕焼けみたいだった。
空を見上げて、思った。
夕さんは今、どこにいるんだろう。
誰かのそばで、歌っているだろうか。
怖いままで、一歩だけ踏み出せているだろうか。
根拠はないけれど、できていると思った。
夕さんなら、できると思った。
線路の方を見た。
そのとき、気がついた。
ターミナルがいた。
ホームの端に、いつもの場所に、いつもの姿勢で座っていた。
電車の来る方向を向いて。
「ターミナル」と呼んだ。
ターミナルが振り返った。
金色の目が、こちらを見た。全部知っているような目だった。
僕は近づいた。
ターミナルは逃げなかった。
隣にしゃがんで、頭を撫でた。
ターミナルは目を細めた。
「ここにいたんですね」
ターミナルは何も言わなかった。
「夕さんのこと、覚えていますか?」
ターミナルがゆっくり瞬きをした。
「覚えているんですね。全部、覚えているんですね」
ターミナルの隣に座った。
二人で、線路の先を見た。
夕焼けの中に、線路が伸びていた。
「ターミナル。僕も覚えています。全部」
ターミナルは答えなかった。
「田中さんも、さくらちゃんも、木下さんも、中岡さんも、橘さんも、西村さんも、松本さんも、千鶴さんも。夕さんも。みんな、覚えています」
ターミナルがごろごろと鳴き始めた。
「夕さん、大丈夫だと思います。怖いままで、一歩踏み出せていると思います」
ごろごろという音が続いた。
「僕も、大丈夫です。行き先が決まっています」
しばらく、ターミナルと並んで座っていた。
風が吹いた。
夕焼けの光が、少し動いた。
そのとき、遠くから音が聞こえた気がした。
電車の音、ではなかった。
もっと遠い音だった。
でも、聞こえた気がした。
どこか遠くで、誰かが歌っている気がした。
言葉のない歌ではなかった。言葉のある歌だった。
行ってらっしゃい、というような。
また会いましょう、というような。
大丈夫、というような。
その声が、夕焼けの中を、どこからか届いてきた。
ターミナルが耳を立てた。
聞こえているらしかった。
「夕さんですか?」と尋ねた。
ターミナルは答えなかった。
でも、目が細まっていた。
立ち上がって、ターミナルを、もう一度撫でた。
「また来ます」
そう言ったら、ターミナルはこちらを見た。
「来てもいいですか?」
ターミナルがゆっくり瞬きをした。
それが答えだと思った。
「ありがとう」
駅舎を出る前に、もう一度時計を見た。
17時47分で止まっていた。
いつもと同じだった。
でも今日は、その止まった時計が、少し違って見えた。
止まっているのではなく、待っているように見えた。
次に来る人を。
次に迷った誰かが、ここに来る日を。
17時47分に、また誰かが来る日を。
駅を出た。
夕焼けの中を、歩いた。
家に向かって。
歩きながら、思っていた。
いつか、ここに誰かを連れてきたい。
迷っている誰かが、自分の周りにいたとき。どこに行けばいいか分からなくなっているとき。一緒に歩いて、この駅に来て、その人の話を聞く。
そういうことができたら、いいと思った。
夕さんがしてくれたことを、自分もしたい。
それが、僕の行き先に繋がっている気がした。
家の近くに来たとき、スマホが鳴った。
知らない番号だった。
「もしもし」
「あ、よかった。繋がった」
女の声だった。聞いたことのある声だった気がしたけど、思い出せなかった。
「どちらですか?」
「橘です。橘奈緒。あの駅で会った」
橘さんだった。
「橘さん」
僕は驚いた。
「どうして番号を」
「夕さんに聞いたんです。あなたの番号を教えてもらえますか、って。夕さんが教えてくれた」
「夕さんが」
「はい。連絡が取れるうちに、と言って。ちゃんと帰れましたか」
「はい、帰れました」
「よかった。実は、聞いてほしいことがあって」
「何ですか」
「小説、書けたんです」
「書けたんですか?」
「あの駅から戻って、知らない町に行って、歩いて、それで書きたくなったものを書いた。誰かに見せるためじゃなくて、ただ書きたいから書いた。そうしたら、書けた」
「それは……よかったです」
「担当編集さんに見せたら、泣かれた。こういうのを待っていたって言われた。私も泣いた。なんか、久しぶりに、届いた気がした」
声に、温かいものが混じっていた。
「届きましたね」
「届きました。あなたに報告したかったんです。直接」
「なんで、僕に」
「あの駅で、あなたがいてくれたから。ちゃんと聞いていてくれた人に、言いたかった」
電話を切った後、しばらく立っていた。
橘さんの声が、頭の中に残っていた。
届きました。
久しぶりに、届いた気がした。
それを、僕に報告してくれた。
聞いていてくれた人に、と言ってくれた。
あの駅で、ただ聞いていただけだった。何もしていないと思っていた。でも、聞いていることが、誰かにとって意味を持つことがある。
それが、じわじわと胸に染みてきた。
空の夕焼けが、少し薄くなっていた。
でも、まだあった。
夕焼けが終わっても、すぐに暗くはならない。
少しの間、明るさが残る。
その明るさの中を、家に向かって歩いた。
ポケットの中に、あの切符があった。
夕さんが作ってくれた切符。
温かかった。
家のドアを開けた。
「ただいま」と言ったら、台所から、母の声がした。
「おかえり」
その言葉が、温かかった。
さくらちゃんが練習していたただいまを、思い出した。
帰れなかった子が、帰れるようになった。
僕も、ちゃんと帰れている。
それが、当たり前のことだったけど、当たり前のことが温かかった。
夕食のとき、母に話した。
「進路、少し決まったかもしれない」
「どんな進路?」
「人の話を聞くことに関係する仕事がしたい。心理学とか、社会福祉とか、そういう方向で。まだはっきりはしていないけど」
母はしばらく何も言わなかった。
「ちゃんと、決めたの」
「決めました」
「どこで、決めたの」
「遠くに行ってたとき。いろんな人の話を聞いていたら、分かりました」
母はまた少し黙って、それから言った。
「そうか」
それだけだった。でも、その一言に、いろんなものが入っていた気がした。
眠る前に、天井を見た。
いつもの天井だった。あの部屋の木目とは違う、普通の天井。
でも、悪くなかった。
ここも自分の場所だと思えた。
あの駅に行く前は、この天井を見るたびに、どこかに行きたいような焦りがあった。でも今は、なかった。
行き先が決まっているから、今ここにいても大丈夫だと思えた。
今ここにいることが、行き先に向かっている途中だと思えた。
目を閉じる前に、思った。
夕さんは今日、どんな一日を過ごしたんだろう。
知らない町で、誰かのそばにいて、歌っているだろうか。
怖いままで、一歩ずつ進んでいるだろうか。
根拠はないけれど、そうだと思った。
ターミナルは今夜、あの駅のホームで、線路の先を見ているだろうか。
次に来る誰かを、待っているだろうか。
そうだと思った。
来た人たちは、それぞれの場所で、それぞれの日々を生きているだろうか。
分からない。でも、みんな、ちゃんとそれぞれの場所に向かっていると思った。
あの駅のことを、忘れない。
17時47分に止まった時計のことを。
夕焼けがずっと続いていた光のことを。
古い木のベンチと、懐中時計と、白い切符のことを。
夕さんの声のことを。
ターミナルの金色の目のことを。
ここに来た人は、少しだけ迷っている人です、という言葉のことを。
そして。
終着駅は、終わりの駅じゃない。
ここは、次に行く場所を決める駅です。
その言葉を、いつまでも覚えていようと思った。
目を閉じた。
眠りに落ちる前に、遠くから声が聞こえた気がした。
あの声だった。
夕焼けの中を、どこかから届いてくる声。
行ってらっしゃい、というような。
大丈夫、というような。
その声を聞きながら、眠った。




