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17時47分の終着駅―駅員の少女と、行き先のない僕―  作者: 明石竜


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18/18

エピローグ 終着駅のその先

 三年が経った。

 河瀬渚、二十歳。大学三年生。

 心理学を専攻している。人の話を聞くことを、学問として学んでいる。難しかった。思っていたより、ずっと難しかった。

 ただ聞くだけでいいと思っていたけど、そうではなかった。聞き方がある。返し方がある。距離の取り方がある。その人の言葉の背後にあるものを見る目の鍛え方がある。全部、学ばなければいけなかった。

 でも、面白かった。

 宝探しみたいだ、と最初に思った感覚は、三年経っても変わらなかった。むしろ、深くなっていた。人の言葉の中にある、その人自身も気づいていないものを、一緒に探す。それが面白かった。

 難しくて、面白かった。


 大学では、学生相談室でボランティアをしていた。

 正式なカウンセラーではなかった。ただ話を聞く、というだけの場所だった。週に二回、放課後に相談室に行って、来た学生の話を聞いた。

 来る人は多くなかった。多い週でも三人、少ない週はゼロのこともあった。

 でも、来た人の話は、全員覚えていた。

 あの駅で覚えたことだった。来てくれた人を、忘れないこと。


 ある日の夕方だった。

 相談室のシフトが終わって、帰ろうとしたとき、廊下で後輩に声をかけられた。

「河瀬先輩」

 振り返った。一年生の女子だった。名前は知っていた。同じ学部の後輩で、授業で何度か顔を合わせていた。おとなしい子だった。あまり自分から話しかけてくる印象がなかったけど、今日は自分から来た。

「どうした?」

 その子は少し躊躇って、でも言った。

「少し、話を聞いてもらえますか」


 相談室に戻った。

 二人で座った。その子は少し緊張していた。話したいことがあるのに、どこから話せばいいか分からない、という顔をしていた。

 僕は急かさなかった。お茶を出した。古い急須ではなく、給湯室のお湯でインスタントだったけど、温かかった。

「ゆっくり話してくれればいいです」

 その子はお茶を一口飲んで、それから話し始めた。

 進路のことだった。

 大学に入ったはいいけれど、何をしたいか分からないと言った。周りはもうインターンを考えていたり、資格の勉強をしていたりしている。自分だけが止まっている気がすると言った。

 聞いていた。急かさなかった。否定しなかった。引き出した。

 どうして今の大学を選んだのか。高校のときは何が好きだったのか。人と話すことは得意か、苦手か。将来、誰かの役に立ちたいという気持ちはあるか。

 その子は話した。最初はぽつぽつと、だんだん滑らかに。

 話しながら、表情が変わっていった。来たときより、少し軽くなっていった。


 一時間ほど話した。

 最後に、その子が言った。

「話してよかったです。なんか、整理できた気がします」

 その言葉が、胸に落ちた。

 どこかで、聞いたことのある言葉だった。

 田中さんが言っていた言葉に、似ていた。

「整理できてよかった。一つだけ聞いていいですか」

「はい」

「もし一つだけ、やってみたいことがあるとしたら、何ですか」

 その子はしばらく考えた。

「ボランティア、かもしれません。人の役に立つことがしたいと思っているので。でも、何のボランティアか、まだ分からないんですが」

「それが、次の一歩になるかもしれませんね」

 そう言うと、その子はうなずいた。


 その子が帰った後、一人で相談室に座っていた。

 窓の外が夕暮れになっていた。

 夕焼けが、空に広がっていた。

 普通の夕焼けだった。でも、今日は少し濃かった。

 あの駅の夕焼けに、少し似ていた。

 ポケットに手を入れた。

 あの切符は、今も持ち歩いていた。

 ボロボロになっていたけど、捨てられなかった。

 取り出して、見た。

 駅の名前が、まだかろうじて読めた。

 温かかった。


 切符をしまって、窓の外の夕焼けを見た。

 三年前のことを思い出した。

 進路希望調査を渡されて、教室の空気が薄くなって、保健室に行って、歩いて、あの駅に辿り着いた日のことを。

 夕さんに会った日のことを。

 ターミナルが最初、冷たかったことを。

 来た人たちの話を聞いていたことを。

 自分の話を、ターミナルと夕さんに話せた日のことを。

 夕さんが歌ってくれた日のことを。

 電車に乗って、夕さんと別れた日のことを。

 全部、覚えていた。

 一つも、忘れていなかった。


 相談室を出て、廊下を歩いた。

 夕方の廊下は人が少なかった。足音だけが響いた。

 あのとき夕さんに言った言葉を、今でも覚えている。

 人の話を聞いて、一緒に考えて、行き先を探す。そういうことをしたいと思っています。

 三年前に言った言葉のまま、今ここにいた。

 行き先は変わっていなかった。

 具体的な形はまだ決まっていなかったけど、向かう方向は同じだった。

 

 校舎を出た。

 夕焼けの中を、駅に向かって歩いた。

 その途中で、スマホが鳴った。

 見ると、橘さんからだった。三年前に電話をくれた橘さんとは、それから何度か連絡を取っていた。本が出るたびに報告をくれた。三冊目が出て、四冊目が出た。

「もしもし」

「河瀬くん、今いい」

「いいですよ」

「新しい本、今日発売だったんだけど、感想が届いて」

「読者さんから?」

「うん。十七歳の子からで。読んで救われましたって。自分だけじゃないと思えましたって。それで、泣いちゃった」

 橘さんの声が、少し濡れていた。

「届きましたね」

「届いた。ちゃんと届いた。あのとき夕さんに言われたことを、思い出した。一人に届けば十分だって」

「届いてよかったです」

「報告したくて。また、直接」

「ありがとうございます。また聞かせて下さい」


 電話を切って、また歩いた。

 夕焼けの色が、少し変わっていた。

 橘さんの声が、まだ耳に残っていた。

 届いた。

 あのとき橘さんがいた場所から、今日誰かに届いた。

 田中さんは今どうしているだろう。専門学校を出て、どこかでゲームを作っているだろうか。

三上さんは、少し休んだあとで、自分で選び直す道を見つけられているだろうか。

さくらちゃんは高校生になっているだろうか。ただいまと言えているだろうか。

木下さんは、知らない町を一人で歩けているだろうか。

中岡さんは、十八年分の休みを終えて、資格の勉強を始めているだろうか。

橘さんは、今も誰かに届く小説を書き続けているだろうか。

西村さんは、一言を混ぜられているだろうか。

松本さんは、図書館に行けているだろうか。

千鶴さんは、集会所で話せているだろうか。

全員の顔が、浮かんだ。

全員、会ったことがある顔だった。


 駅に着いた。

 普通の駅だった。改札があって、券売機があって、時刻表があった。

 電車を待つホームに立った。

 線路を見た。

 まっすぐ伸びた線路を見ていると、あの駅の線路を思い出した。

 夕焼けの中に消えていく線路。どこまでも続いているように見えた線路。

 電車が来た。

 乗り込んだ。

 座席に座って、窓の外を見た。

 夕焼けが流れていった。


 次の駅で、乗り換えた。

 ホームで電車を待っていると、隣に人が来て座った。

 二十代くらいの女性だった。リュックを背負って、疲れた顔をしていた。

 特に気にしていなかったけど、ふと、その人が小さく息をついたのが聞こえた。

 深い息だった。

 何かを抱えているような息だった。

 声をかけようかどうか、少し迷った。

 でも、今日は相談室のシフトの日ではなかった。ここはホームで、僕はただの通りすがりだった。

 声をかけなかった。

 でも、その人の隣に、少しだけ長く座っていた。

 電車が来るまでの間、ただ隣にいた。

 その人が少し、肩の力を抜いたような気がした。

 気のせいかもしれなかった。

 でも、気のせいでもよかった。


 電車に乗った。

 家に向かった。

 窓の外の夕焼けが、だんだんと暮れていった。

 夕焼けが終わっても、すぐに暗くはならない。

 少しの間、明るさが残る。その明るさの中を、電車は走っていった。


 家の最寄り駅で降りた。

 改札を出て、少し歩いたとき、足が止まった。

 夕方の住宅街だった。

 三年前、保健室を出て、どこにも行けなくて、歩いていた場所と、同じ場所だった。

 あのとき、ここを歩いて、あの駅に辿り着いた。

 今日も、同じ場所にいる。でも、全然違う自分でここにいる。

 行き先が決まっている自分で、ここにいる。


 歩き始めた。家に向かって。

 歩きながら、思っていた。

 この仕事を、続けていきたい。

 人の話を聞いて、一緒に考えて、行き先を探す。

 形はまだ決まっていない。カウンセラーになるのか、教師になるのか、別の何かになるのか。でも、やることは決まっている。

 あの駅で夕さんがしていたことを、別の場所でやる。

 切符は作れないけれど、話は聞ける。

 行き先の候補を一緒に探すことはできる。

 それが、自分にできることだと思った。


 家の前に来た。

 ドアを開けた。

「ただいま」と言った。

 台所から、母の声がした。

「おかえり」

 その声が、温かかった。

 靴を脱いで、上がった。廊下を歩いて、自分の部屋に入った。

 カバンを下ろして、窓の外を見た。

 夕焼けが終わって、空は紫に変わっていた。

 でも、まだ明るさが残っていた。


 机の引き出しを開けた。あの切符が、そこにあった。

 毎日持ち歩いていたけど、今日は机の引き出しにしまっておいた。

 取り出して、見た。ボロボロになった白い切符。

 駅の名前が、かろうじて読める。

 いつも、温かかった。


 切符を持ったまま、窓の外を見た。

 空が、だんだん暗くなっていった。

 星が出てきた。

 一つ、また一つ。

 夕さんは今夜、どこにいるんだろう。

 誰かのそばで、歌っているだろうか。

 ターミナルは今夜も、あのホームの端で線路を見ているだろうか。

 次に来る誰かを、待っているだろうか。

 そのとき、スマホが鳴った。

 見ると、知らない番号だった。

「もしもし」

「あの」

 若い声だった。女の子の声だった。

「河瀬くん、ですか。河瀬渚くん」

「はい、そうですが」

「私、田中圭介の妹なんですけど」

 田中さん。あの駅で二日目に会った大学生。ゲームを作りたかった田中さん。

「田中さんの妹さん?」

「はい。お兄ちゃんから、あなたのことを聞いて。どうしても話したくて、番号を教えてもらって」

「どうかしましたか」

 少し間があった。

「私も、お兄ちゃんみたいに、行き先が分からなくて。どこに行けばいいか、分からなくて。お兄ちゃんが、あなたに相談してみたらって」


 僕は少し息を吸った。

 田中さんが、妹に話してくれていた。あの駅でのことを、直接ではないかもしれないけれど、自分が迷ったときに助けてもらったことを。そしてその人に話してみたらと言ってくれた。

「話して下さい。聞きます」

「ありがとうございます。あの、長くなってもいいですか」

「長くなっても、大丈夫です。急がなくていいですよ」


 話が始まった。

 高校三年生だと言った。進路が決まらないと言った。やりたいことが見つからないと言った。

 聞いた。急かさなかった。否定しなかった。

 引き出した。窓の外の空が、少しずつ暗くなっていった。星が増えていった。

 でも、まだ窓の端に、かすかな明るさが残っていた。

 夕焼けの名残が、まだそこにあった。


 話を聞きながら、思った。

 三年前、僕は同じことを言っていた。

 どこに行きたいか、分からないから来ました。

 その言葉が、今ここに繋がっていた。

 あの駅で話を聞いてもらったことが、今日この子の話を聞くことに繋がっていた。

 夕さんから受け取ったものが、巡っていた。


 一時間ほど話した。

 最後に、その子が言った。

「話してよかったです。少し、整理できた気がします」

「よかったです。一つだけ聞いてもいいですか」

「はい」

「もし一つだけ、やってみたいことがあるとしたら、何ですか?」

 しばらく間があった。

「……絵を描くことかもしれません。ずっと好きだったけど、それを仕事にできると思っていなくて」

「それが、次の一歩になるかもしれませんね」

「なるかな」

不安そうな声がした。

「なると思います。根拠はありませんが」

 その子が、小さく笑った気がした。

「根拠がなくても、言ってくれてありがとうございます」

「また、話したくなったら、電話して下さい」

「はい。また電話します」


 電話が終わった。

 部屋が静かになった。

 窓の外を見た。

 夕焼けの名残は、もう消えていた。

 夜になっていた。

 でも、星が出ていた。

 たくさんの星が、空に広がっていた。

 切符を、机の引き出しにしまった。

 椅子に座って、天井を見た。

 あの駅の天井の木目を、思い出した。

 古い、温かい木目。

 ここの天井とは違う。でも、繋がっている気がした。

 あの場所で過ごした時間が、今ここに繋がっている。

 夕さんが聞いてくれたことが、僕が聞くことに繋がっている。

 田中さんが行き先を見つけたことが、田中さんの妹の一歩に繋がっている。

 橘さんが書いた本が、どこかの十七歳に届いた。

 全部が、繋がっていた。


 目を閉じた。

 遠くから、声が聞こえた気がした。

 あの声だった。

 夕焼けの中から届いてきた、あの声。

 行ってらっしゃい、というような。

 また会いましょう、というような。

 大丈夫、というような。

 その声が、今夜も届いた。

 聞こえた、と思った。

 確かに、聞こえた。


 次の日の夕方だった。

 大学の帰り道、いつもと違う道を歩いていた。

 なんとなく、そうしたかった。

 知らない路地を曲がって、また曲がって、細い坂道を下りて。

 気づいたら、あの駅の前にいた。


 駅に入った。

 古い駅舎。止まった時計。棚の帳面。古い写真。

 全部、あった。

 ホームに出た。

 線路が伸びていた。

 夕焼けが差し込んでいた。

 今日の夕焼けは、少し濃かった。

 ターミナルを探した。

 ホームの端に、いた。

 いつもの場所に、いつもの姿勢で。

「ターミナル」と呼んだ。

 ターミナルが振り返った。

 金色の目で、こちらを見た。

 近づいた。隣にしゃがんだ。頭を撫でた。

 ターミナルは目を細めた。

「また来ました」

 ターミナルは何も言わなかった。

「今日も、誰かの話を聞きました。田中さんの妹さんの話を。行き先が分からないって言っていました」

 ターミナルは線路の先を向いた。

「教えてあげたかったんですが、できませんでした。でも、一緒に探すことはできました」


 二人で、線路の先を見た。

 夕焼けが広がっていた。

 そのとき、駅舎の方で音がした。

 足音だった。振り返った。


 ホームに、人が現れた。

 女の子だった。十代半ばくらいで、制服を着ていた。リュックを背負って、目が少し赤かった。泣いた後の目。でも今は泣いていなかった。

 きょろきょろと辺りを見回して、それからこちらを見た。

 戸惑ったような、でもどこかほっとしたような顔だった。

「あの。ここ、終着駅ですか?」


 僕は立ち上がって、その子の前に歩いていった。

 なんと言おうか、一瞬考えた。

 でも、考える必要はなかった。

 夕さんが言っていた言葉が、自然に出てきた。

「ようこそ、終着駅へ」

 その子が少し驚いた顔をした。

「ここで、話を聞かせてもらえますか。次に行く場所を、一緒に探しましょう」

 その子が、ゆっくりと歩いてきた。

 ターミナルが立ち上がって、その子の方に歩いていった。

 その子がターミナルに気づいて、少し表情が和らいだ。

「猫、いるんですね」

「ターミナルといいます。ここにずっといる猫です」

「ターミナル」

その子が繰り返した。ターミナルがその子の足元で止まって、頭を押しつけた。


 夕焼けの中で、駅舎に向かって歩いた。

 その子と、ターミナルと、三人で。

 駅舎に入った。

 古い木のベンチに、その子が座った。

 向かいに座った。

「ゆっくり話して下さい。急がなくていいですよ」

 その子がうなずいた。

 ターミナルが二人の間に来て、座った。


 窓の外、夕焼けが広がっていた。

 時計は17時47分のままだった。

 止まったままの時計と、続く夕焼けと、古い駅舎の中で、話が始まった。

 その子が、ぽつりと言った。

「どこに行けばいいか、分からなくて」

 

 聞いた。

 急かさなかった。

 否定しなかった。


 窓の外の夕焼けが、やわらかく光っていた。

 時計は17時47分のまま、待っていた。

 ターミナルは二人の間で、目を細めていた。

 次に行く場所を決める時間が、また始まっていた。


 終着駅は、終わりの駅じゃない。

 ここは、次に行く場所を決める駅です。

 どこにも行けなかった人が、次に行く場所を決めるための駅です。

 人生の終点じゃなくて、分かれ道なんです。

                                     (了)

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