エピローグ 終着駅のその先
三年が経った。
河瀬渚、二十歳。大学三年生。
心理学を専攻している。人の話を聞くことを、学問として学んでいる。難しかった。思っていたより、ずっと難しかった。
ただ聞くだけでいいと思っていたけど、そうではなかった。聞き方がある。返し方がある。距離の取り方がある。その人の言葉の背後にあるものを見る目の鍛え方がある。全部、学ばなければいけなかった。
でも、面白かった。
宝探しみたいだ、と最初に思った感覚は、三年経っても変わらなかった。むしろ、深くなっていた。人の言葉の中にある、その人自身も気づいていないものを、一緒に探す。それが面白かった。
難しくて、面白かった。
大学では、学生相談室でボランティアをしていた。
正式なカウンセラーではなかった。ただ話を聞く、というだけの場所だった。週に二回、放課後に相談室に行って、来た学生の話を聞いた。
来る人は多くなかった。多い週でも三人、少ない週はゼロのこともあった。
でも、来た人の話は、全員覚えていた。
あの駅で覚えたことだった。来てくれた人を、忘れないこと。
ある日の夕方だった。
相談室のシフトが終わって、帰ろうとしたとき、廊下で後輩に声をかけられた。
「河瀬先輩」
振り返った。一年生の女子だった。名前は知っていた。同じ学部の後輩で、授業で何度か顔を合わせていた。おとなしい子だった。あまり自分から話しかけてくる印象がなかったけど、今日は自分から来た。
「どうした?」
その子は少し躊躇って、でも言った。
「少し、話を聞いてもらえますか」
相談室に戻った。
二人で座った。その子は少し緊張していた。話したいことがあるのに、どこから話せばいいか分からない、という顔をしていた。
僕は急かさなかった。お茶を出した。古い急須ではなく、給湯室のお湯でインスタントだったけど、温かかった。
「ゆっくり話してくれればいいです」
その子はお茶を一口飲んで、それから話し始めた。
進路のことだった。
大学に入ったはいいけれど、何をしたいか分からないと言った。周りはもうインターンを考えていたり、資格の勉強をしていたりしている。自分だけが止まっている気がすると言った。
聞いていた。急かさなかった。否定しなかった。引き出した。
どうして今の大学を選んだのか。高校のときは何が好きだったのか。人と話すことは得意か、苦手か。将来、誰かの役に立ちたいという気持ちはあるか。
その子は話した。最初はぽつぽつと、だんだん滑らかに。
話しながら、表情が変わっていった。来たときより、少し軽くなっていった。
一時間ほど話した。
最後に、その子が言った。
「話してよかったです。なんか、整理できた気がします」
その言葉が、胸に落ちた。
どこかで、聞いたことのある言葉だった。
田中さんが言っていた言葉に、似ていた。
「整理できてよかった。一つだけ聞いていいですか」
「はい」
「もし一つだけ、やってみたいことがあるとしたら、何ですか」
その子はしばらく考えた。
「ボランティア、かもしれません。人の役に立つことがしたいと思っているので。でも、何のボランティアか、まだ分からないんですが」
「それが、次の一歩になるかもしれませんね」
そう言うと、その子はうなずいた。
その子が帰った後、一人で相談室に座っていた。
窓の外が夕暮れになっていた。
夕焼けが、空に広がっていた。
普通の夕焼けだった。でも、今日は少し濃かった。
あの駅の夕焼けに、少し似ていた。
ポケットに手を入れた。
あの切符は、今も持ち歩いていた。
ボロボロになっていたけど、捨てられなかった。
取り出して、見た。
駅の名前が、まだかろうじて読めた。
温かかった。
切符をしまって、窓の外の夕焼けを見た。
三年前のことを思い出した。
進路希望調査を渡されて、教室の空気が薄くなって、保健室に行って、歩いて、あの駅に辿り着いた日のことを。
夕さんに会った日のことを。
ターミナルが最初、冷たかったことを。
来た人たちの話を聞いていたことを。
自分の話を、ターミナルと夕さんに話せた日のことを。
夕さんが歌ってくれた日のことを。
電車に乗って、夕さんと別れた日のことを。
全部、覚えていた。
一つも、忘れていなかった。
相談室を出て、廊下を歩いた。
夕方の廊下は人が少なかった。足音だけが響いた。
あのとき夕さんに言った言葉を、今でも覚えている。
人の話を聞いて、一緒に考えて、行き先を探す。そういうことをしたいと思っています。
三年前に言った言葉のまま、今ここにいた。
行き先は変わっていなかった。
具体的な形はまだ決まっていなかったけど、向かう方向は同じだった。
校舎を出た。
夕焼けの中を、駅に向かって歩いた。
その途中で、スマホが鳴った。
見ると、橘さんからだった。三年前に電話をくれた橘さんとは、それから何度か連絡を取っていた。本が出るたびに報告をくれた。三冊目が出て、四冊目が出た。
「もしもし」
「河瀬くん、今いい」
「いいですよ」
「新しい本、今日発売だったんだけど、感想が届いて」
「読者さんから?」
「うん。十七歳の子からで。読んで救われましたって。自分だけじゃないと思えましたって。それで、泣いちゃった」
橘さんの声が、少し濡れていた。
「届きましたね」
「届いた。ちゃんと届いた。あのとき夕さんに言われたことを、思い出した。一人に届けば十分だって」
「届いてよかったです」
「報告したくて。また、直接」
「ありがとうございます。また聞かせて下さい」
電話を切って、また歩いた。
夕焼けの色が、少し変わっていた。
橘さんの声が、まだ耳に残っていた。
届いた。
あのとき橘さんがいた場所から、今日誰かに届いた。
田中さんは今どうしているだろう。専門学校を出て、どこかでゲームを作っているだろうか。
三上さんは、少し休んだあとで、自分で選び直す道を見つけられているだろうか。
さくらちゃんは高校生になっているだろうか。ただいまと言えているだろうか。
木下さんは、知らない町を一人で歩けているだろうか。
中岡さんは、十八年分の休みを終えて、資格の勉強を始めているだろうか。
橘さんは、今も誰かに届く小説を書き続けているだろうか。
西村さんは、一言を混ぜられているだろうか。
松本さんは、図書館に行けているだろうか。
千鶴さんは、集会所で話せているだろうか。
全員の顔が、浮かんだ。
全員、会ったことがある顔だった。
駅に着いた。
普通の駅だった。改札があって、券売機があって、時刻表があった。
電車を待つホームに立った。
線路を見た。
まっすぐ伸びた線路を見ていると、あの駅の線路を思い出した。
夕焼けの中に消えていく線路。どこまでも続いているように見えた線路。
電車が来た。
乗り込んだ。
座席に座って、窓の外を見た。
夕焼けが流れていった。
次の駅で、乗り換えた。
ホームで電車を待っていると、隣に人が来て座った。
二十代くらいの女性だった。リュックを背負って、疲れた顔をしていた。
特に気にしていなかったけど、ふと、その人が小さく息をついたのが聞こえた。
深い息だった。
何かを抱えているような息だった。
声をかけようかどうか、少し迷った。
でも、今日は相談室のシフトの日ではなかった。ここはホームで、僕はただの通りすがりだった。
声をかけなかった。
でも、その人の隣に、少しだけ長く座っていた。
電車が来るまでの間、ただ隣にいた。
その人が少し、肩の力を抜いたような気がした。
気のせいかもしれなかった。
でも、気のせいでもよかった。
電車に乗った。
家に向かった。
窓の外の夕焼けが、だんだんと暮れていった。
夕焼けが終わっても、すぐに暗くはならない。
少しの間、明るさが残る。その明るさの中を、電車は走っていった。
家の最寄り駅で降りた。
改札を出て、少し歩いたとき、足が止まった。
夕方の住宅街だった。
三年前、保健室を出て、どこにも行けなくて、歩いていた場所と、同じ場所だった。
あのとき、ここを歩いて、あの駅に辿り着いた。
今日も、同じ場所にいる。でも、全然違う自分でここにいる。
行き先が決まっている自分で、ここにいる。
歩き始めた。家に向かって。
歩きながら、思っていた。
この仕事を、続けていきたい。
人の話を聞いて、一緒に考えて、行き先を探す。
形はまだ決まっていない。カウンセラーになるのか、教師になるのか、別の何かになるのか。でも、やることは決まっている。
あの駅で夕さんがしていたことを、別の場所でやる。
切符は作れないけれど、話は聞ける。
行き先の候補を一緒に探すことはできる。
それが、自分にできることだと思った。
家の前に来た。
ドアを開けた。
「ただいま」と言った。
台所から、母の声がした。
「おかえり」
その声が、温かかった。
靴を脱いで、上がった。廊下を歩いて、自分の部屋に入った。
カバンを下ろして、窓の外を見た。
夕焼けが終わって、空は紫に変わっていた。
でも、まだ明るさが残っていた。
机の引き出しを開けた。あの切符が、そこにあった。
毎日持ち歩いていたけど、今日は机の引き出しにしまっておいた。
取り出して、見た。ボロボロになった白い切符。
駅の名前が、かろうじて読める。
いつも、温かかった。
切符を持ったまま、窓の外を見た。
空が、だんだん暗くなっていった。
星が出てきた。
一つ、また一つ。
夕さんは今夜、どこにいるんだろう。
誰かのそばで、歌っているだろうか。
ターミナルは今夜も、あのホームの端で線路を見ているだろうか。
次に来る誰かを、待っているだろうか。
そのとき、スマホが鳴った。
見ると、知らない番号だった。
「もしもし」
「あの」
若い声だった。女の子の声だった。
「河瀬くん、ですか。河瀬渚くん」
「はい、そうですが」
「私、田中圭介の妹なんですけど」
田中さん。あの駅で二日目に会った大学生。ゲームを作りたかった田中さん。
「田中さんの妹さん?」
「はい。お兄ちゃんから、あなたのことを聞いて。どうしても話したくて、番号を教えてもらって」
「どうかしましたか」
少し間があった。
「私も、お兄ちゃんみたいに、行き先が分からなくて。どこに行けばいいか、分からなくて。お兄ちゃんが、あなたに相談してみたらって」
僕は少し息を吸った。
田中さんが、妹に話してくれていた。あの駅でのことを、直接ではないかもしれないけれど、自分が迷ったときに助けてもらったことを。そしてその人に話してみたらと言ってくれた。
「話して下さい。聞きます」
「ありがとうございます。あの、長くなってもいいですか」
「長くなっても、大丈夫です。急がなくていいですよ」
話が始まった。
高校三年生だと言った。進路が決まらないと言った。やりたいことが見つからないと言った。
聞いた。急かさなかった。否定しなかった。
引き出した。窓の外の空が、少しずつ暗くなっていった。星が増えていった。
でも、まだ窓の端に、かすかな明るさが残っていた。
夕焼けの名残が、まだそこにあった。
話を聞きながら、思った。
三年前、僕は同じことを言っていた。
どこに行きたいか、分からないから来ました。
その言葉が、今ここに繋がっていた。
あの駅で話を聞いてもらったことが、今日この子の話を聞くことに繋がっていた。
夕さんから受け取ったものが、巡っていた。
一時間ほど話した。
最後に、その子が言った。
「話してよかったです。少し、整理できた気がします」
「よかったです。一つだけ聞いてもいいですか」
「はい」
「もし一つだけ、やってみたいことがあるとしたら、何ですか?」
しばらく間があった。
「……絵を描くことかもしれません。ずっと好きだったけど、それを仕事にできると思っていなくて」
「それが、次の一歩になるかもしれませんね」
「なるかな」
不安そうな声がした。
「なると思います。根拠はありませんが」
その子が、小さく笑った気がした。
「根拠がなくても、言ってくれてありがとうございます」
「また、話したくなったら、電話して下さい」
「はい。また電話します」
電話が終わった。
部屋が静かになった。
窓の外を見た。
夕焼けの名残は、もう消えていた。
夜になっていた。
でも、星が出ていた。
たくさんの星が、空に広がっていた。
切符を、机の引き出しにしまった。
椅子に座って、天井を見た。
あの駅の天井の木目を、思い出した。
古い、温かい木目。
ここの天井とは違う。でも、繋がっている気がした。
あの場所で過ごした時間が、今ここに繋がっている。
夕さんが聞いてくれたことが、僕が聞くことに繋がっている。
田中さんが行き先を見つけたことが、田中さんの妹の一歩に繋がっている。
橘さんが書いた本が、どこかの十七歳に届いた。
全部が、繋がっていた。
目を閉じた。
遠くから、声が聞こえた気がした。
あの声だった。
夕焼けの中から届いてきた、あの声。
行ってらっしゃい、というような。
また会いましょう、というような。
大丈夫、というような。
その声が、今夜も届いた。
聞こえた、と思った。
確かに、聞こえた。
次の日の夕方だった。
大学の帰り道、いつもと違う道を歩いていた。
なんとなく、そうしたかった。
知らない路地を曲がって、また曲がって、細い坂道を下りて。
気づいたら、あの駅の前にいた。
駅に入った。
古い駅舎。止まった時計。棚の帳面。古い写真。
全部、あった。
ホームに出た。
線路が伸びていた。
夕焼けが差し込んでいた。
今日の夕焼けは、少し濃かった。
ターミナルを探した。
ホームの端に、いた。
いつもの場所に、いつもの姿勢で。
「ターミナル」と呼んだ。
ターミナルが振り返った。
金色の目で、こちらを見た。
近づいた。隣にしゃがんだ。頭を撫でた。
ターミナルは目を細めた。
「また来ました」
ターミナルは何も言わなかった。
「今日も、誰かの話を聞きました。田中さんの妹さんの話を。行き先が分からないって言っていました」
ターミナルは線路の先を向いた。
「教えてあげたかったんですが、できませんでした。でも、一緒に探すことはできました」
二人で、線路の先を見た。
夕焼けが広がっていた。
そのとき、駅舎の方で音がした。
足音だった。振り返った。
ホームに、人が現れた。
女の子だった。十代半ばくらいで、制服を着ていた。リュックを背負って、目が少し赤かった。泣いた後の目。でも今は泣いていなかった。
きょろきょろと辺りを見回して、それからこちらを見た。
戸惑ったような、でもどこかほっとしたような顔だった。
「あの。ここ、終着駅ですか?」
僕は立ち上がって、その子の前に歩いていった。
なんと言おうか、一瞬考えた。
でも、考える必要はなかった。
夕さんが言っていた言葉が、自然に出てきた。
「ようこそ、終着駅へ」
その子が少し驚いた顔をした。
「ここで、話を聞かせてもらえますか。次に行く場所を、一緒に探しましょう」
その子が、ゆっくりと歩いてきた。
ターミナルが立ち上がって、その子の方に歩いていった。
その子がターミナルに気づいて、少し表情が和らいだ。
「猫、いるんですね」
「ターミナルといいます。ここにずっといる猫です」
「ターミナル」
その子が繰り返した。ターミナルがその子の足元で止まって、頭を押しつけた。
夕焼けの中で、駅舎に向かって歩いた。
その子と、ターミナルと、三人で。
駅舎に入った。
古い木のベンチに、その子が座った。
向かいに座った。
「ゆっくり話して下さい。急がなくていいですよ」
その子がうなずいた。
ターミナルが二人の間に来て、座った。
窓の外、夕焼けが広がっていた。
時計は17時47分のままだった。
止まったままの時計と、続く夕焼けと、古い駅舎の中で、話が始まった。
その子が、ぽつりと言った。
「どこに行けばいいか、分からなくて」
聞いた。
急かさなかった。
否定しなかった。
窓の外の夕焼けが、やわらかく光っていた。
時計は17時47分のまま、待っていた。
ターミナルは二人の間で、目を細めていた。
次に行く場所を決める時間が、また始まっていた。
終着駅は、終わりの駅じゃない。
ここは、次に行く場所を決める駅です。
どこにも行けなかった人が、次に行く場所を決めるための駅です。
人生の終点じゃなくて、分かれ道なんです。
(了)




