第十六章 僕の行き先
電車が、ホームに入ってきた。
いつもの電車だった。古い型の車両で、窓から差し込む光が金色だった。でも今日は、その金色が少し違って見えた。いつもより温かい色だった。
扉が開いた。
夕さんが、扉の前で立ち止まった。
乗り込もうとして、止まった。
「少し、待って下さい」
「どうかしましたか」
「渚さんの切符、ちゃんと確認させてください」
手渡された切符を、夕さんが受け取った。懐中時計を出して、並べて見た。しばらく確認して、うなずいた。
「大丈夫です。ちゃんとした切符です」と言って、返してくれた。
「夕さんの切符は」
「私の切符は」
夕さんはそう言って、ポケットから取り出した。
白い切符だった。でも、僕のものとは少し違う色をしていた。僕のは真っ白だったけど、夕さんのは少しだけ温かい色が混じっていた。
「いつ、できたんですか」
「歌ったとき。ホームで歌ったとき、懐中時計が温かくなって。それが切符になりました」
二人で切符を持って、扉の前に立った。
ターミナルがホームの端から、こちらを見ていた。
動かなかった。ただ、見ていた。
「ターミナル」
夕さんが呼んだ。
ターミナルは鳴かなかった。
「ありがとう。長い間、一緒にいてくれて」
ターミナルがゆっくりと瞬きをした。
「また会えますか」
夕さんが尋ねた。
ターミナルは答えなかった。でも、目を細めた。
それが答えだと思った。
夕さんが乗り込もうとした、そのとき。
僕は言いたいことがあった。
「夕さん」
呼んだら、夕さんが振り返った。
「ここに来てよかったです。夕さんに会えてよかったです」
夕さんは少し間を置いた。
「私もです。渚さんに来てもらえてよかったです」
「夕さんが、僕に来てもらえた、というのは変ですよね。夕さんがここにいたから、僕が来られたんだから」
「変じゃないと思います。渚さんが来てくれたから、私もここを出られる。お互いに、来てもらえてよかったんです」
それは正しい気がした。
「では、乗りましょう」
夕さんは言った。
乗り込んだ。
電車の中は、思ったより広かった。座席が並んでいて、窓から夕焼けが差し込んでいた。薄くなった夕焼けだったけど、電車の中から見ると少し違って見えた。窓のガラスを通すと、また少し温かい色になった。
向かい合わせの席に座った。
夕さんが窓の外を見た。ホームが見えた。ターミナルが端に座っていた。
「ターミナルが、見ています」
夕さんが伝えた。
「見送ってくれていますね」
扉が閉まった。
電車がゆっくりと動き始めた。
ホームが流れていった。ターミナルの姿が、少しずつ遠くなった。
夕さんが窓に手を当てた。
ターミナルは動かなかった。ただ見ていた。
その姿が、見えなくなった。
電車が走り始めた。
夕焼けの中を、線路に沿って進んでいった。
僕は窓の外を見た。
知らない景色が流れていった。草原、小さな川、遠くに見える山。夕焼けの光の中で、全部が少し夢みたいに見えた。
「夕さん」
「はい」
夕さんは、窓の外を見たまま返事をした。
「電車の中から見る景色って、いつも見てましたか」
「いいえ。電車に乗るのは、今日が初めてです」
「そうか。ここに来てから、ずっと送り出す側だったから」
「はい。いつも、見送る側でした。見送られる側は、初めてです」
「どんな感じですか」
夕さんは少し考えた。
「不思議です。こういう景色が、向こうには広がっていたんですね。電車に乗った人たちが、見ていた景色が」
「きれいですね」
「きれいです」
夕さんの声が、少し柔らかかった。
しばらく、二人で窓の外を見ていた。
電車は静かに走っていた。
夕焼けの色が変わっていくのが見えた。薄いピンクから、少しずつ紫に。空の色が、変わっていった。
「夕さん」
「はい」
「一つ、聞いていいですか」
「はい」
「これから、どうするつもりですか。具体的に」
夕さんは窓から目を離して、こちらを見た。
「まだ、具体的には決まっていません。でも……まず、歌える場所を探そうと思っています」
「どんな場所ですか」
「大きな場所じゃなくていいです。誰かのそばで歌える場所。病院でも、施設でも、あるいはもっと小さな場所でも。誰かの近くにいて、歌えれば、それでいいと思っています」
「それは、昔やりたかったこととそのままですね」
「はい。変わっていないんです、やりたいことは。ずっと、同じことをやりたかった。怖くて、できていなかっただけで」
「今は、怖くないですか」
「怖いです。でも、一歩だけ、と思っています。千鶴さんが言ってくれた通り」
「夕さん」
「はい」
「うまくいくと思います」
夕さんが少し目を細めた。
「根拠はありますか」
「あります」
「何ですか」
「ホームで聞いた声が、ちゃんと届いたから。あれが届いたなら、他の誰かにも届きます。絶対に」
夕さんはしばらく何も言わなかった。
「絶対に、というのは根拠になりますか」
「なります。僕が保証します」
夕さんが笑った。
今日は何度か笑っていたけど、この笑顔が一番長かった。少しだけ、ほんの少しだけ、声が混じりそうな笑顔だった。
「ありがとうございます」
電車が少しスピードを落とした気がした。
夕さんが気づいて、窓の外を見た。
「もうすぐ、分かれ道です」
「夕さんの行き先と、僕の行き先が、分かれるんですか」
「はい。次の駅で、私は降ります。渚さんはもう少し乗っていきます」
次の駅で、分かれる。
それは分かっていたことだった。行き先が違えば、途中で分かれる。でも聞いたとき、少し胸が詰まった。
「夕さん」
「はい」
僕が見つけた行き先は、場所の名前じゃなかった。
「僕の行き先に、夕さんがいてほしいです」
夕さんは少し考えた。
「分かりません。ここを出たら、どこに向かうかも、どんな形になるかも、分からない。でも……」
「でも?」
「会えると思っています。根拠はないですが」
「根拠がなくても、信じてもいいですよね」
「はい。信じてもいいと思います」
電車がさらにスピードを落とした。
駅が見えてきた。
小さな駅だった。ホームがあって、小さな駅舎があった。あの終着駅に少し似ていたけど、違った。こちらは、始まりの駅みたいだった。
「夕さんの駅ですか」
「はい」
電車が止まった。扉が開いた。
夕さんが立ち上がった。
扉の前に立った。
振り返った。
「渚さん」
「はい」
「ここで過ごした時間は、大切でした」
「僕もです」
「渚さんが聞いてくれたこと、話させてくれたこと、歌わせてくれたこと。全部、ありがとうございます」
「こちらこそ。夕さんに話を聞いてもらえなかったら、僕は今も、どこに行きたいか分からないままだったと思います」
「そうかな? 渚さんは、ちゃんと自分で見つけたと思います」
「夕さんがいたから、見つけられたんです」
夕さんはしばらく僕を見ていた。
「一つだけ、頼んでもいいですか」
「何でもどうぞ」
「ターミナルのことを、覚えていて下さい」
「覚えています。ずっと」
「あの駅で過ごした時間も」
「忘れません」
「来た人たちのことも」
「三上さんも、田中さんも、さくらちゃんも、木下さんも、中岡さんも、橘さんも、西村さんも、松本さんも、千鶴さんも。全員、覚えています」
夕さんの目が、また少し潤んだ。
「ターミナルみたいですね、渚さんも」
「そうですか」
「来た人を、全員覚えている。それはターミナルと同じです」
その言葉が、温かかった。
「行ってらっしゃい」
夕さんが少し驚いた顔をした。
「それ、私の言葉です」
「借りました。夕さんが、ずっとみんなに言ってきた言葉を。今日は僕が言います」
夕さんはしばらく黙っていた。
それから、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
顔を上げたとき、目が潤んでいた。でも笑っていた。
今日一番の笑顔だった。
夕さんが扉を抜けて、ホームに降りた。
扉が閉まった。
電車がゆっくり動き始めた。
窓から、夕さんの姿が見えた。
小さな駅のホームに立って、こちらを見ていた。
僕は窓に手を当てた。
夕さんが、小さく手を挙げた。
それだけだった。
電車が動いて、夕さんの姿が遠くなって、見えなくなった。
小さな駅が、夕焼けの中に消えていった。
一人になった。
電車の中に、一人だった。
窓の外を流れる景色を見た。
田んぼ、川、山、ビル、家々。変わらず流れていく景色。
夕さんがいなくなった。
ターミナルもいない。
あの駅も、もうない。
でも、ここにいる。電車に乗って、行き先に向かっている。
切符を手の中で持った。
温かかった。
窓の外の空が、少しずつ変わっていった。
夕焼けが終わって、夜になりかけていた。
でも、暗くはなかった。空の端に、まだ少し明るさが残っていた。
夕焼けが終わっても、すぐに暗くはならない。
少しの間、明るさが残る。
それが今の僕みたいだと思った。
あの駅での時間が終わって、でもその明るさがまだ残っている。
電車が速度を落としてきた。
次の駅が見えてきた。
切符に書かれた駅の名前を確認した。合っていた。
これが、僕の最初の駅だ。
ここから、始まる。
何が始まるのか、まだ全部は分からない。大学に行くのか、専門学校に行くのか、具体的なことは決まっていない。
でも、方向は分かっている。
人の話を聞いて、一緒に考えて、行き先を探す。
それが僕のやりたいことだ。
どんな形になるかは、この駅に降りてから、歩きながら決めていけばいい。
電車が止まった。
扉が開いた。
ホームに降りた。
外の空気が、駅のとは違った。湿度も、匂いも、温度も。全部が少し違った。
でも、悪くなかった。
知らない空気だったけど、怖くなかった。
改札を抜け、外に出た。
夕焼けの残光が、空の端にあった。
道路があって、人が歩いていた。店があって、灯りがついていた。普通の夕方の、普通の町だった。
どこかに進路希望調査が待っていると思った。
でも、今は大丈夫だった。
書ける気がした。
スマホを取り出した。
電波が、入っていた。
バッテリーは、満タンのままだった。
着信が、一件あった。
母からだった。
「渚? どこにいるの、急に連絡取れなくなって、心配してたんだけど」
母の声だった。怒っているような、泣きそうなような、でもほっとしているような声だった。
「ごめん。少し、遠くに行ってた」
「どこに」
「ちょっと、いろいろ考えたくて。でも、分かったから。今から帰る」
「分かった、って何が」
少し考えた。
「行きたい場所が。どこに行きたいか、分かった」
母が少し黙った。
「……そう。帰ってから、話して」
「うん、帰ってから話す」
電話を切った。
進路はまだ紙の上の話だったけれど、行き先はもう胸の中にあった。
空の端の残光が、少し薄くなっていた。
でも、まだあった。
駅に戻って、次の電車を調べた。
家まで、いくつか乗り換えが必要だった。
切符を買おうとして、ポケットに手を入れたとき、あの切符がまだあった。
夕さんが作ってくれた切符。
白い切符に、駅の名前が書いてあった。この駅の名前。
もう使った切符だった。でも、捨てられなかった。
大切にしまった。
電車を待つホームに立って、線路を見た。
普通の線路だった。時刻表があって、電光掲示板があって、改札があって、自動券売機があった。
あの駅とは、全然違った。
でも、同じ線路だとも思った。
どこかで、繋がっている気がした。
あの夕焼けの終着駅と、この普通の駅が同じ線路の上に、ある気がした。
電車が来た。
乗り込んだ。
座席に座って、窓の外を見た。
夜になっていた。空に星が出ていた。
電車が動き出した。
家に帰る。進路希望調査を書く。どこに行きたいか、書く。人の話を聞くことに繋がる場所を探す。
具体的なことは、まだ全部決まっていない。
でも、それでいい。
歩きながら、決めていけばいい。
夕さんが言っていたことが、頭の中で鳴った。
方向が決まれば、あとは歩きながら決めていける。
電車が走っていった。
夜の町を、線路の上を、どこかに向かって。
ポケットの中の、切符は温かかった。
窓に映った自分の顔は、来た最初の日とは違う顔をしていた。
何かが、ちゃんとあった。
夕さんが言ってくれた。ちゃんとあります、と。
あるんだと思った。
僕が、ちゃんとあった。
電車が、夜の中を走っていった。どこまでも、どこかに向かって。行き先が、決まっていた。




