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17時47分の終着駅―駅員の少女と、行き先のない僕―  作者: 明石竜


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第十六章 僕の行き先

 電車が、ホームに入ってきた。

 いつもの電車だった。古い型の車両で、窓から差し込む光が金色だった。でも今日は、その金色が少し違って見えた。いつもより温かい色だった。

 扉が開いた。

 夕さんが、扉の前で立ち止まった。

 乗り込もうとして、止まった。

「少し、待って下さい」

「どうかしましたか」

「渚さんの切符、ちゃんと確認させてください」

 手渡された切符を、夕さんが受け取った。懐中時計を出して、並べて見た。しばらく確認して、うなずいた。

「大丈夫です。ちゃんとした切符です」と言って、返してくれた。

「夕さんの切符は」

「私の切符は」

夕さんはそう言って、ポケットから取り出した。

 白い切符だった。でも、僕のものとは少し違う色をしていた。僕のは真っ白だったけど、夕さんのは少しだけ温かい色が混じっていた。

「いつ、できたんですか」

「歌ったとき。ホームで歌ったとき、懐中時計が温かくなって。それが切符になりました」


 二人で切符を持って、扉の前に立った。

 ターミナルがホームの端から、こちらを見ていた。

 動かなかった。ただ、見ていた。

「ターミナル」

夕さんが呼んだ。

 ターミナルは鳴かなかった。

「ありがとう。長い間、一緒にいてくれて」

 ターミナルがゆっくりと瞬きをした。

「また会えますか」

夕さんが尋ねた。

 ターミナルは答えなかった。でも、目を細めた。

 それが答えだと思った。


 夕さんが乗り込もうとした、そのとき。

 僕は言いたいことがあった。

「夕さん」

 呼んだら、夕さんが振り返った。

「ここに来てよかったです。夕さんに会えてよかったです」

 夕さんは少し間を置いた。

「私もです。渚さんに来てもらえてよかったです」

「夕さんが、僕に来てもらえた、というのは変ですよね。夕さんがここにいたから、僕が来られたんだから」

「変じゃないと思います。渚さんが来てくれたから、私もここを出られる。お互いに、来てもらえてよかったんです」

 それは正しい気がした。

「では、乗りましょう」

夕さんは言った。


 乗り込んだ。

 電車の中は、思ったより広かった。座席が並んでいて、窓から夕焼けが差し込んでいた。薄くなった夕焼けだったけど、電車の中から見ると少し違って見えた。窓のガラスを通すと、また少し温かい色になった。

 向かい合わせの席に座った。

 夕さんが窓の外を見た。ホームが見えた。ターミナルが端に座っていた。

「ターミナルが、見ています」

夕さんが伝えた。

「見送ってくれていますね」

 扉が閉まった。

 電車がゆっくりと動き始めた。

 ホームが流れていった。ターミナルの姿が、少しずつ遠くなった。

 夕さんが窓に手を当てた。

 ターミナルは動かなかった。ただ見ていた。

 その姿が、見えなくなった。


 電車が走り始めた。

 夕焼けの中を、線路に沿って進んでいった。

 僕は窓の外を見た。

 知らない景色が流れていった。草原、小さな川、遠くに見える山。夕焼けの光の中で、全部が少し夢みたいに見えた。

「夕さん」

「はい」

夕さんは、窓の外を見たまま返事をした。

「電車の中から見る景色って、いつも見てましたか」

「いいえ。電車に乗るのは、今日が初めてです」

「そうか。ここに来てから、ずっと送り出す側だったから」

「はい。いつも、見送る側でした。見送られる側は、初めてです」

「どんな感じですか」

 夕さんは少し考えた。


「不思議です。こういう景色が、向こうには広がっていたんですね。電車に乗った人たちが、見ていた景色が」

「きれいですね」

「きれいです」

夕さんの声が、少し柔らかかった。


 しばらく、二人で窓の外を見ていた。

 電車は静かに走っていた。

 夕焼けの色が変わっていくのが見えた。薄いピンクから、少しずつ紫に。空の色が、変わっていった。

「夕さん」

「はい」

「一つ、聞いていいですか」

「はい」

「これから、どうするつもりですか。具体的に」

 夕さんは窓から目を離して、こちらを見た。

「まだ、具体的には決まっていません。でも……まず、歌える場所を探そうと思っています」

「どんな場所ですか」

「大きな場所じゃなくていいです。誰かのそばで歌える場所。病院でも、施設でも、あるいはもっと小さな場所でも。誰かの近くにいて、歌えれば、それでいいと思っています」

「それは、昔やりたかったこととそのままですね」

「はい。変わっていないんです、やりたいことは。ずっと、同じことをやりたかった。怖くて、できていなかっただけで」

「今は、怖くないですか」

「怖いです。でも、一歩だけ、と思っています。千鶴さんが言ってくれた通り」


「夕さん」

「はい」

「うまくいくと思います」

 夕さんが少し目を細めた。

「根拠はありますか」

「あります」

「何ですか」

「ホームで聞いた声が、ちゃんと届いたから。あれが届いたなら、他の誰かにも届きます。絶対に」

 夕さんはしばらく何も言わなかった。


「絶対に、というのは根拠になりますか」

「なります。僕が保証します」

 夕さんが笑った。

 今日は何度か笑っていたけど、この笑顔が一番長かった。少しだけ、ほんの少しだけ、声が混じりそうな笑顔だった。

「ありがとうございます」


 電車が少しスピードを落とした気がした。

 夕さんが気づいて、窓の外を見た。

「もうすぐ、分かれ道です」

「夕さんの行き先と、僕の行き先が、分かれるんですか」

「はい。次の駅で、私は降ります。渚さんはもう少し乗っていきます」

 次の駅で、分かれる。

 それは分かっていたことだった。行き先が違えば、途中で分かれる。でも聞いたとき、少し胸が詰まった。

「夕さん」

「はい」

 僕が見つけた行き先は、場所の名前じゃなかった。

「僕の行き先に、夕さんがいてほしいです」

 夕さんは少し考えた。

「分かりません。ここを出たら、どこに向かうかも、どんな形になるかも、分からない。でも……」

「でも?」

「会えると思っています。根拠はないですが」

「根拠がなくても、信じてもいいですよね」

「はい。信じてもいいと思います」

 電車がさらにスピードを落とした。

 駅が見えてきた。

 小さな駅だった。ホームがあって、小さな駅舎があった。あの終着駅に少し似ていたけど、違った。こちらは、始まりの駅みたいだった。

「夕さんの駅ですか」

「はい」

 電車が止まった。扉が開いた。

 夕さんが立ち上がった。


 扉の前に立った。

 振り返った。

「渚さん」

「はい」

「ここで過ごした時間は、大切でした」

「僕もです」

「渚さんが聞いてくれたこと、話させてくれたこと、歌わせてくれたこと。全部、ありがとうございます」

「こちらこそ。夕さんに話を聞いてもらえなかったら、僕は今も、どこに行きたいか分からないままだったと思います」

「そうかな? 渚さんは、ちゃんと自分で見つけたと思います」

「夕さんがいたから、見つけられたんです」

 夕さんはしばらく僕を見ていた。


「一つだけ、頼んでもいいですか」

「何でもどうぞ」

「ターミナルのことを、覚えていて下さい」

「覚えています。ずっと」

「あの駅で過ごした時間も」

「忘れません」

「来た人たちのことも」

「三上さんも、田中さんも、さくらちゃんも、木下さんも、中岡さんも、橘さんも、西村さんも、松本さんも、千鶴さんも。全員、覚えています」

 夕さんの目が、また少し潤んだ。

「ターミナルみたいですね、渚さんも」

「そうですか」

「来た人を、全員覚えている。それはターミナルと同じです」

 その言葉が、温かかった。

「行ってらっしゃい」

 夕さんが少し驚いた顔をした。

「それ、私の言葉です」

「借りました。夕さんが、ずっとみんなに言ってきた言葉を。今日は僕が言います」

 夕さんはしばらく黙っていた。

 それから、深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

 顔を上げたとき、目が潤んでいた。でも笑っていた。

 今日一番の笑顔だった。

 夕さんが扉を抜けて、ホームに降りた。


 扉が閉まった。

 電車がゆっくり動き始めた。

 窓から、夕さんの姿が見えた。

 小さな駅のホームに立って、こちらを見ていた。

 僕は窓に手を当てた。

 夕さんが、小さく手を挙げた。

 それだけだった。

 電車が動いて、夕さんの姿が遠くなって、見えなくなった。

 小さな駅が、夕焼けの中に消えていった。


 一人になった。

 電車の中に、一人だった。

 窓の外を流れる景色を見た。

 田んぼ、川、山、ビル、家々。変わらず流れていく景色。

 夕さんがいなくなった。

 ターミナルもいない。

 あの駅も、もうない。

 でも、ここにいる。電車に乗って、行き先に向かっている。

 切符を手の中で持った。

 温かかった。

 窓の外の空が、少しずつ変わっていった。

 夕焼けが終わって、夜になりかけていた。

 でも、暗くはなかった。空の端に、まだ少し明るさが残っていた。

 夕焼けが終わっても、すぐに暗くはならない。

 少しの間、明るさが残る。

 それが今の僕みたいだと思った。

 あの駅での時間が終わって、でもその明るさがまだ残っている。


 電車が速度を落としてきた。

 次の駅が見えてきた。

 切符に書かれた駅の名前を確認した。合っていた。

 これが、僕の最初の駅だ。

 ここから、始まる。

 何が始まるのか、まだ全部は分からない。大学に行くのか、専門学校に行くのか、具体的なことは決まっていない。

 でも、方向は分かっている。

 人の話を聞いて、一緒に考えて、行き先を探す。

 それが僕のやりたいことだ。

 どんな形になるかは、この駅に降りてから、歩きながら決めていけばいい。


 電車が止まった。

 扉が開いた。

 ホームに降りた。

 外の空気が、駅のとは違った。湿度も、匂いも、温度も。全部が少し違った。

 でも、悪くなかった。

 知らない空気だったけど、怖くなかった。

 改札を抜け、外に出た。

 夕焼けの残光が、空の端にあった。

 道路があって、人が歩いていた。店があって、灯りがついていた。普通の夕方の、普通の町だった。

 どこかに進路希望調査が待っていると思った。

 でも、今は大丈夫だった。

 書ける気がした。


 スマホを取り出した。

 電波が、入っていた。

 バッテリーは、満タンのままだった。

 着信が、一件あった。

 母からだった。


「渚? どこにいるの、急に連絡取れなくなって、心配してたんだけど」

 母の声だった。怒っているような、泣きそうなような、でもほっとしているような声だった。

「ごめん。少し、遠くに行ってた」

「どこに」

「ちょっと、いろいろ考えたくて。でも、分かったから。今から帰る」

「分かった、って何が」

 少し考えた。

「行きたい場所が。どこに行きたいか、分かった」

 母が少し黙った。

「……そう。帰ってから、話して」

「うん、帰ってから話す」

 電話を切った。

進路はまだ紙の上の話だったけれど、行き先はもう胸の中にあった。


 空の端の残光が、少し薄くなっていた。

 でも、まだあった。

 駅に戻って、次の電車を調べた。

 家まで、いくつか乗り換えが必要だった。

 切符を買おうとして、ポケットに手を入れたとき、あの切符がまだあった。

 夕さんが作ってくれた切符。

 白い切符に、駅の名前が書いてあった。この駅の名前。

 もう使った切符だった。でも、捨てられなかった。

 大切にしまった。


 電車を待つホームに立って、線路を見た。

 普通の線路だった。時刻表があって、電光掲示板があって、改札があって、自動券売機があった。

 あの駅とは、全然違った。

 でも、同じ線路だとも思った。

 どこかで、繋がっている気がした。

 あの夕焼けの終着駅と、この普通の駅が同じ線路の上に、ある気がした。


 電車が来た。

 乗り込んだ。

 座席に座って、窓の外を見た。

 夜になっていた。空に星が出ていた。

 電車が動き出した。

 家に帰る。進路希望調査を書く。どこに行きたいか、書く。人の話を聞くことに繋がる場所を探す。

 具体的なことは、まだ全部決まっていない。

 でも、それでいい。

 歩きながら、決めていけばいい。

 夕さんが言っていたことが、頭の中で鳴った。

 方向が決まれば、あとは歩きながら決めていける。


 電車が走っていった。

 夜の町を、線路の上を、どこかに向かって。

 ポケットの中の、切符は温かかった。

 窓に映った自分の顔は、来た最初の日とは違う顔をしていた。

 何かが、ちゃんとあった。

 夕さんが言ってくれた。ちゃんとあります、と。

 あるんだと思った。

 僕が、ちゃんとあった。


 電車が、夜の中を走っていった。どこまでも、どこかに向かって。行き先が、決まっていた。


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