第十五章 夕の切符
十三日目の朝だった。
目が覚めた瞬間、空気がさらに薄いと分かった。
薄い、というより、遠い。この部屋が、現実から少し離れたところに浮いているような感覚。壁を触ると確かに固いのに、でもどこか頼りない気がした。
窓の外の夕焼けは、もう淡かった。オレンジというより、薄いピンクに近かった。まだ夕焼けだったけど、消えかけている夕焼けだった。
ターミナルが顔の横にいた。
近い。鼻先が触れそうな距離で、じっと僕の目を見ていた。
「おはよう」
ターミナルは瞬きをした。それから、離れなかった。
「今日が、その日ですか?」
ターミナルは答えなかった。でも、離れなかった。
台所に向かうと、夕さんがいた。
いつも通りお茶を入れていたけど、動作が少し遅かった。ゆっくりと、一つ一つを確かめるように動いていた。
「おはようございます」
僕が挨拶すると、夕さんが振り返った。
目が、澄んでいた。
昨日までと少し違う目だった。何かを決めた後の目、というより、何かに向かう途中の目だった。怖さはあるけど、それより前に向いているものが大きい、そういう目だった。
「おはようございます。今日は、晴れていますか」
「外の天気は分かりませんが、夕焼けは、さらに薄くなっています」
「そうですね。感じます」
朝食のとき、夕さんがいつもより少し丁寧に食事を作っていた。
卵焼きだけでなく、小さな煮物も作った。いつもは卵焼きとご飯と味噌汁だけなのに、今日は一品多かった。
「今日は、豪華ですね」
「最後の朝食になるかもしれないので」
「今日、出るんですか」
「今日か、今夜か。そのくらいだと思います。駅がなくなる前に、出た方がいい気がしています」
「なぜですか」
「駅がなくなってから出るのではなく、駅があるうちに出たい。ちゃんと電車に乗って出ていきたい」
「それはそうですね」
「それに、渚さんの行き先も、今日決まる気がします」
今日決まる。
その言葉を聞いて、不思議と焦らなかった。
むしろ、そうか、という感じだった。来た最初の日から、いつか決まると思っていた。でも今日だとは思っていなかった。でも聞いて、そうか、と思った。
「どうして今日だと思うんですか」
「懐中時計が、そう言っています。今朝確認したら、渚さんのことが、はっきりと見えました。もうすぐ、渚さん自身が気づくと思います」
「気づいたら、教えてもらえますか」
「渚さんが気づいたとき、切符を作ります。それが答えです」
朝食が終わって、片付けをした。
夕さんが食器を洗いながら、台所を見回した。それから、奥の棚を確認して、帳面を整えた。
「片付けをしているんですか」
「少し。次に来る人のために、きれいにしておきたくて」
「次に来る人が、いると思いますか」
「いると信じています。この駅が続くかどうかは分からない。でも、信じています。私が出ていって、また誰かが来て、また誰かが迎える。そういうことが続くと」
「信じているだけで、根拠はないですか」
「根拠はありません。でも――」
「でも?」
「信じることが、続けることだと思います。根拠がなくても信じていれば、その気持ちがどこかに残って、続いていく気がします」
午前中、夕さんはホームを丁寧に掃いた。
端から端まで、いつもより時間をかけて。隅の方まで、丁寧に。
僕はベンチに座って、それを見ていた。
夕さんが掃いている場所を、光が斜めに照らしていた。薄くなった夕焼けの光だったけど、それが夕さんに当たって、少し金色に見えた。
この人が、もうすぐここを出ていく。
その事実が、ゆっくりと胸に落ちてきた。
寂しかった。
でも、それより大きな気持ちもあった。夕さんが行けるということへの、嬉しさが。
「夕さん」
「はい」
「ここで過ごした時間、楽しかったですか」
夕さんが手を止めた。
振り返って、僕を見た。
「楽しかった、という言葉が正確かどうか分かりません。でも、大切な時間でした。来た方々の話を聞いて、一緒に考えて、送り出して。その全部が、大切でした」
「渚さんが来てくれたことも、大切でした」
昼過ぎ、夕さんが駅舎の奥から古い帳面を持ってきた。
昨日見た、一番古い帳面ではなかった。別の帳面だった。
「これは何ですか」
「私が来てから書いてきた帳面です。私が記録してきた全部が、ここにあります」
帳面は何冊もあった。夕さんが来てから今まで、書き続けてきた記録。
「全部、持っていきますか」
「いいえ。ここに置いていきます。この駅の記録だから。次に来る駅員に、渡したい」
「次の駅員が来るとは限らないのに」
「来ると信じているので」
それだけだった。
根拠はないけれど、信じている。その言葉に、夕さんの全部が詰まっている気がした。
午後、夕さんが懐中時計を手に持って、テーブルに座った。
僕も向かいに座った。
「渚さん」
「はい」
「今日、ここで過ごした時間のことを、少し話してもいいですか」
「聞きます」
「渚さんが来てから、十三日経ちました。その間に、いろんなことがありました」
「はい」
「田中さんが来て、さくらちゃんが来て、木下さんが来て、中岡さんが来て、橘さんが来た。それから、渚さんと二人で話す日があって、ターミナルの話をして、私の仕事を見てもらって、私の過去を話して」
「はい」
僕は全部、覚えていた。
「渚さんがいなければ、私はまだ、自分のことを後回しにしていたと思います」
「そんなことはないと思います」
「いいえ、そう思っています。渚さんが聞いてくれたから、話せた。聞いてくれる人がいたから、言葉になった。一人では、言葉にならないままだったと思います」
「夕さんも同じことをしてきましたよね、来た人たちに」
「はい。でも、自分には同じことができていなかった。渚さんが、してくれた」
夕さんがこういうことを言うのは、珍しかった。いつも、来た人のためにしたことを「当然のことです」と言う人だった。その人が、してもらったと言っている。
「お互い様です。ここに来て、夕さんに話を聞いてもらって、いろんな人の話を聞かせてもらって、僕も変わりました」
「変わりましたね。来た最初の日と、今は、全然違います」
「そうですか」
「来た最初の日の渚さんは、うまく言えないですが……自分がないように見えました。でも今は、ちゃんとあります。ちゃんと、渚さんがいます」
その言葉が、穏やかに胸に落ちた。
自分がない、と思ってきた。ずっと。周りに合わせて生きてきて、自分のものさしがなくて。
でも今、夕さんに「ちゃんとあります」と言ってもらえた。
「ありがとうございます」
「本当のことです」
しばらく、二人で黙っていた。
ターミナルがテーブルの横に来て、座った。三人で黙っていた。
悪くない沈黙だった。
「夕さん、切符は、自分で作れますか。自分の分を」
「作れません。切符は、自分では作れないんです」
「なぜですか」
「行き先は自分では見えないことが多いからです。自分のことは、自分では分からないことがある。だから、誰かに作ってもらわなければなりません」
「じゃあ、誰に作ってもらうんですか」
「それが、問題で。この駅に、私以外の駅員がいない。自分の切符を、自分では作れない。ずっとそれが、引っかかっていました」
「それが、出られない理由の一つだったんですか」
「はい。行き先は決まっていた。でも、切符がない。電車は来るかもしれない。でも、切符がなければ、乗れない」
「切符がなければ、乗れないんですか」
「原則はそうです。でも……」
「でも?」
「例外があるかもしれない、と最近思っています」
「例外というのは」
「切符は、行き先が決まったときに作れます。行き先が決まっていれば、切符は形を変えても存在するかもしれない。懐中時計を使わなくても、別の形で」
「別の形というのは、どういうことですか」
夕さんは少し考えた。
「例えば、誰かに、あなたの行き先はここだ、と言ってもらうことが、切符の代わりになるかもしれない。言葉が、切符になる」
「言葉が切符になる」
「確かなことは分かりません。でも、昨日、千鶴さんが言ってくれましたよね。怖いままで、一歩だけ、と。その言葉が、何かを動かした気がしました。あれが切符の代わりだったかもしれない」
「だとしたら……僕が言えますよ」
「え」
「夕さんの行き先を、言葉にすることができます。それが切符の代わりになるなら」
夕さんはしばらく僕を見ていた。
「でも、渚さんには懐中時計がありません。見える行き先が、本物かどうか、分かりません」
「夕さんの行き先は、音楽に向かうことですよね」
「……はい」
「それは、ずっと前から分かっていたことです。夕さん自身が言っていた。誰かのそばで歌いたかったと。届けたかったと。それは今も変わっていない。昨日、千鶴さんの前でも、出ていく、と言っていた」
「はい」
「だったら、行き先は決まっています。あとは、一歩踏み出すだけです」
「渚さん」
「はい」
「怖いです」
「知っています」
「うまくいかないかもしれない」
「そうかもしれない」
「誰かに届かないかもしれない」
「届かないこともあるかもしれない」
「それでも、行けますか」
「行けます。行けます。昨日、千鶴さんから聞いた言葉を、夕さんも言いましたよね。怖いままで、一歩だけ、と。それだけでいい」
夕さんは動かなかった。
懐中時計を、両手でそっと持っていた。
「夕さん、一つだけ、お願いがあります」
「何ですか」
「今日、もう一度歌ってもらえませんか」
夕さんが少し驚いた顔をした。
「なぜですか」
「出ていく前に、聞きたいんです。夕さんの声を。それが、夕さんの行き先への、最初の一歩になると思うから」
夕さんはしばらく動かなかった。
懐中時計を見た。それから、ターミナルを見た。それから、窓の外の薄くなった夕焼けを見た。
「怖いですか」
「怖いです」
「怖いままで、いいです」
長い間があった。
ターミナルが夕さんを見ていた。
風が窓の外で鳴った。
夕さがゆっくりと立ち上がった。
懐中時計をポケットに入れて、ホームに出た。
僕とターミナルがついていった。
ホームの真ん中に立って、夕さんは線路の先を見た。
薄くなった夕焼けの中に、線路が伸びていた。
夕さんが、息を吸った。
目を閉じた。
それから、歌い始めた。
今日の歌は、前と違った。前は言葉のない歌だった。メロディだけだった。
でも今日は、言葉があった。はっきりした歌詞ではなかった。でも、声の中に言葉が混じっていた。
行ってらっしゃい、というような言葉。
また会いましょう、というような言葉。
大丈夫、というような言葉。
それが、夕焼けの中に溶けていった。
線路の先まで、届いていく気がした。
ターミナルがごろごろと鳴き始めた。
僕は何も考えられなかった。ただ聞いていた。
夕さんが歌っている。ここで何年も、何十年も、ひとりで抱えてきた声が、ようやく外に出ていった。
きれいだとか、上手だとか、そういうことじゃなかった。
ただ、届いた。
歌が終わった。
夕さんが目を開けた。
夕焼けを見たまま、しばらく立っていた。
僕は何も言わなかった。
ターミナルも鳴き止んで、静かになった。
しばらくして、夕さんが振り返った。
目が、潤んでいた。でも泣いていなかった。
「どうでしたか」
「届きました。今日の方が、もっと届きました」
「そうですか」
夕さんの声が少し震えていた。
「そうですか」
「これが、夕さんの一歩目だと思います。ここで歌えた。それが、最初の一歩です」
夕さんがポケットから懐中時計を取り出した。
蓋を、そっと開いた。
しばらく文字盤を見ていた。
指先が、少し震えていた。
それから、夕さんが囁くような声で言った。
「あなたの行き先を、聞いてもいいですか?」
「え」
「渚さんの行き先が、見えています。でも、渚さん自身に言ってほしいんです。自分の言葉で」
僕は少し考えた。
でも、考える必要はあまりなかった。
もう、分かっていたから。
「人の行き先を探す仕事がしたい。具体的には、まだはっきりしていません。カウンセラーかもしれない、教師かもしれない、別の何かかもしれない。でも、人の話を聞いて、一緒に考えて、その人の行き先を一緒に探す。そういうことをしたいと思っています」
「それが、行き先ですか」
「はい。それが、行き先です」
夕さんは懐中時計を見た。
文字盤に、指先を当てた。
少しの間、そうしていた。
それから、白い切符が現れた。
夕さんが切符を手渡してくれた。
受け取って、見た。
そこには、駅の名前が書いてあった。
知らない駅名だったけど、でもどこかで見た気がした。いや、見たことはない。でも、行くべき場所だと分かった。
「この駅はどこですか」
「渚さんが向かうべき場所への、最初の駅です。具体的にどこに行くかは、この駅に着いてから、少しずつ決めていけばいいと思います」
「すぐには決まらなくていい、ということですか」
「はい。行き先は、最初から全部決まっていなくていい。方向が決まれば、あとは歩きながら決めていける」
切符を手の中で持った。
温かかった。
「夕さん、ありがとうございます」
「こちらこそ」
「切符をもらいました。でも、電車は今日乗るんですか」
「今日乗っていいと思います。決まったから」
「夕さんも、今日乗りますか」
夕さんは少し間を置いた。
「今日、乗ります」
「今日、乗るんですね」
「はい。駅があるうちに、乗ります。渚さんと、一緒に」
一緒に。その言葉が、予想外だった。でも嬉しかった。
「一緒に乗れるんですか、同じ電車に」
「行き先が違っても、同じ電車に乗れます。途中で分かれますが、最初は一緒に乗れます」
「それは……」
僕は言いかけて、止まった。
嬉しいとか、よかったとか、そういう言葉では足りなかった。
「それは、いいですね」
夕さんが少し笑った。今日の笑顔は、いつもより長かった。短くて、すぐ消えるいつもの笑顔ではなかった。少しだけ、長く続いた笑顔だった。
「電車が来るまで、少し時間があります。その間に、最後の準備をします」
「何か手伝えることはありますか」
「一緒にいてもらえれば、十分です」
夕さんが駅舎に戻って、最後の確認をした。
棚の帳面が整っているか。台所が片付いているか。ホームに問題がないか。
全部確認して、最後に、古い写真の前に立った。
壁に飾られた、昔の駅員たちの白黒写真。
夕さんがしばらく、その写真を見ていた。
「みんな、ちゃんと行ったんですね」
「夕さんも、行きます」
「はい、行きます」
ターミナルが夕さんの足元に来た。
夕さんがターミナルを抱き上げた。
今日は長く抱いていた。ターミナルはごろごろとも鳴かなかった。ただ、抱かれていた。
「ターミナル」
夕さんが呼ぶ声は細かった。ターミナルは何も言わなかった。
「ここにいてくれてありがとう。ずっと」
ターミナルが、夕さんの肩に顔を寄せた。
夕さんの目から、涙が一粒だけ出た。
それだけだった。でも、その一粒に、長い時間が全部入っていた気がした。
懐中時計が、夕さんのポケットの中で、少し温かくなった。
夕さんがそれを感じたらしく、ポケットに手を当てた。
「電車が来ます」
「今日の電車は、いつもと違いますか」
「少し違うかもしれません。私が乗る電車だから」
ターミナルを下ろした。ターミナルはホームの方に歩いていった。
夕さんが僕を見た。
「行きましょう」
「はい」
ホームに出た。
夕焼けは、今日これまでで一番薄かった。でも、消えてはいなかった。まだ夕焼けだった。
線路の先を見た。電車が来るのを、三人で待った。夕さんと、僕と、ターミナル。
風が吹いた。薄い夕焼けの中で、草が揺れた。ターミナルが、ホームの端に座った。いつもの場所で、いつもの姿勢で。電車の来る方向を向いていた。その背中が、今日は少し違って見えた。見送る準備ができている背中だった。
遠くから、音が聞こえてきた。電車の音だった。でも、今日の音は少し違った。いつもの電車の音より、柔らかかった。温かかった。線路の先に、光が見えてきた。
夕さんが息を吸った。僕も息を吸った。
電車が、少しずつ近づいてきた。夕焼けの中から、静かに現れてきた。




