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17時47分の終着駅―駅員の少女と、行き先のない僕―  作者: 明石竜


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15/18

第十五章 夕の切符

 十三日目の朝だった。

 目が覚めた瞬間、空気がさらに薄いと分かった。

 薄い、というより、遠い。この部屋が、現実から少し離れたところに浮いているような感覚。壁を触ると確かに固いのに、でもどこか頼りない気がした。

 窓の外の夕焼けは、もう淡かった。オレンジというより、薄いピンクに近かった。まだ夕焼けだったけど、消えかけている夕焼けだった。

 ターミナルが顔の横にいた。

 近い。鼻先が触れそうな距離で、じっと僕の目を見ていた。

「おはよう」

 ターミナルは瞬きをした。それから、離れなかった。

「今日が、その日ですか?」

 ターミナルは答えなかった。でも、離れなかった。


 台所に向かうと、夕さんがいた。

 いつも通りお茶を入れていたけど、動作が少し遅かった。ゆっくりと、一つ一つを確かめるように動いていた。

「おはようございます」

 僕が挨拶すると、夕さんが振り返った。

 目が、澄んでいた。

 昨日までと少し違う目だった。何かを決めた後の目、というより、何かに向かう途中の目だった。怖さはあるけど、それより前に向いているものが大きい、そういう目だった。

「おはようございます。今日は、晴れていますか」

「外の天気は分かりませんが、夕焼けは、さらに薄くなっています」

「そうですね。感じます」


 朝食のとき、夕さんがいつもより少し丁寧に食事を作っていた。

 卵焼きだけでなく、小さな煮物も作った。いつもは卵焼きとご飯と味噌汁だけなのに、今日は一品多かった。

「今日は、豪華ですね」

「最後の朝食になるかもしれないので」

「今日、出るんですか」

「今日か、今夜か。そのくらいだと思います。駅がなくなる前に、出た方がいい気がしています」

「なぜですか」

「駅がなくなってから出るのではなく、駅があるうちに出たい。ちゃんと電車に乗って出ていきたい」

「それはそうですね」

「それに、渚さんの行き先も、今日決まる気がします」


 今日決まる。

 その言葉を聞いて、不思議と焦らなかった。

 むしろ、そうか、という感じだった。来た最初の日から、いつか決まると思っていた。でも今日だとは思っていなかった。でも聞いて、そうか、と思った。

「どうして今日だと思うんですか」

「懐中時計が、そう言っています。今朝確認したら、渚さんのことが、はっきりと見えました。もうすぐ、渚さん自身が気づくと思います」

「気づいたら、教えてもらえますか」

「渚さんが気づいたとき、切符を作ります。それが答えです」


 朝食が終わって、片付けをした。

 夕さんが食器を洗いながら、台所を見回した。それから、奥の棚を確認して、帳面を整えた。

「片付けをしているんですか」

「少し。次に来る人のために、きれいにしておきたくて」

「次に来る人が、いると思いますか」

「いると信じています。この駅が続くかどうかは分からない。でも、信じています。私が出ていって、また誰かが来て、また誰かが迎える。そういうことが続くと」

「信じているだけで、根拠はないですか」

「根拠はありません。でも――」

「でも?」

「信じることが、続けることだと思います。根拠がなくても信じていれば、その気持ちがどこかに残って、続いていく気がします」


 午前中、夕さんはホームを丁寧に掃いた。

 端から端まで、いつもより時間をかけて。隅の方まで、丁寧に。

 僕はベンチに座って、それを見ていた。

 夕さんが掃いている場所を、光が斜めに照らしていた。薄くなった夕焼けの光だったけど、それが夕さんに当たって、少し金色に見えた。

 この人が、もうすぐここを出ていく。

 その事実が、ゆっくりと胸に落ちてきた。

 寂しかった。

 でも、それより大きな気持ちもあった。夕さんが行けるということへの、嬉しさが。

「夕さん」

「はい」

「ここで過ごした時間、楽しかったですか」

 夕さんが手を止めた。

 振り返って、僕を見た。

「楽しかった、という言葉が正確かどうか分かりません。でも、大切な時間でした。来た方々の話を聞いて、一緒に考えて、送り出して。その全部が、大切でした」

「渚さんが来てくれたことも、大切でした」


 昼過ぎ、夕さんが駅舎の奥から古い帳面を持ってきた。

 昨日見た、一番古い帳面ではなかった。別の帳面だった。

「これは何ですか」

「私が来てから書いてきた帳面です。私が記録してきた全部が、ここにあります」

 帳面は何冊もあった。夕さんが来てから今まで、書き続けてきた記録。

「全部、持っていきますか」

「いいえ。ここに置いていきます。この駅の記録だから。次に来る駅員に、渡したい」

「次の駅員が来るとは限らないのに」

「来ると信じているので」

 それだけだった。

 根拠はないけれど、信じている。その言葉に、夕さんの全部が詰まっている気がした。


 午後、夕さんが懐中時計を手に持って、テーブルに座った。

 僕も向かいに座った。

「渚さん」

「はい」

「今日、ここで過ごした時間のことを、少し話してもいいですか」

「聞きます」

「渚さんが来てから、十三日経ちました。その間に、いろんなことがありました」

「はい」

「田中さんが来て、さくらちゃんが来て、木下さんが来て、中岡さんが来て、橘さんが来た。それから、渚さんと二人で話す日があって、ターミナルの話をして、私の仕事を見てもらって、私の過去を話して」

「はい」

僕は全部、覚えていた。

「渚さんがいなければ、私はまだ、自分のことを後回しにしていたと思います」

「そんなことはないと思います」

「いいえ、そう思っています。渚さんが聞いてくれたから、話せた。聞いてくれる人がいたから、言葉になった。一人では、言葉にならないままだったと思います」

「夕さんも同じことをしてきましたよね、来た人たちに」

「はい。でも、自分には同じことができていなかった。渚さんが、してくれた」

 夕さんがこういうことを言うのは、珍しかった。いつも、来た人のためにしたことを「当然のことです」と言う人だった。その人が、してもらったと言っている。

「お互い様です。ここに来て、夕さんに話を聞いてもらって、いろんな人の話を聞かせてもらって、僕も変わりました」

「変わりましたね。来た最初の日と、今は、全然違います」

「そうですか」

「来た最初の日の渚さんは、うまく言えないですが……自分がないように見えました。でも今は、ちゃんとあります。ちゃんと、渚さんがいます」


 その言葉が、穏やかに胸に落ちた。

 自分がない、と思ってきた。ずっと。周りに合わせて生きてきて、自分のものさしがなくて。

 でも今、夕さんに「ちゃんとあります」と言ってもらえた。

「ありがとうございます」

「本当のことです」

 しばらく、二人で黙っていた。

 ターミナルがテーブルの横に来て、座った。三人で黙っていた。

 悪くない沈黙だった。


「夕さん、切符は、自分で作れますか。自分の分を」

「作れません。切符は、自分では作れないんです」

「なぜですか」

「行き先は自分では見えないことが多いからです。自分のことは、自分では分からないことがある。だから、誰かに作ってもらわなければなりません」

「じゃあ、誰に作ってもらうんですか」

「それが、問題で。この駅に、私以外の駅員がいない。自分の切符を、自分では作れない。ずっとそれが、引っかかっていました」

「それが、出られない理由の一つだったんですか」

「はい。行き先は決まっていた。でも、切符がない。電車は来るかもしれない。でも、切符がなければ、乗れない」

「切符がなければ、乗れないんですか」

「原則はそうです。でも……」

「でも?」

「例外があるかもしれない、と最近思っています」

「例外というのは」

「切符は、行き先が決まったときに作れます。行き先が決まっていれば、切符は形を変えても存在するかもしれない。懐中時計を使わなくても、別の形で」

「別の形というのは、どういうことですか」

 夕さんは少し考えた。

「例えば、誰かに、あなたの行き先はここだ、と言ってもらうことが、切符の代わりになるかもしれない。言葉が、切符になる」

「言葉が切符になる」

「確かなことは分かりません。でも、昨日、千鶴さんが言ってくれましたよね。怖いままで、一歩だけ、と。その言葉が、何かを動かした気がしました。あれが切符の代わりだったかもしれない」

「だとしたら……僕が言えますよ」

「え」

「夕さんの行き先を、言葉にすることができます。それが切符の代わりになるなら」

 夕さんはしばらく僕を見ていた。

「でも、渚さんには懐中時計がありません。見える行き先が、本物かどうか、分かりません」

「夕さんの行き先は、音楽に向かうことですよね」

「……はい」

「それは、ずっと前から分かっていたことです。夕さん自身が言っていた。誰かのそばで歌いたかったと。届けたかったと。それは今も変わっていない。昨日、千鶴さんの前でも、出ていく、と言っていた」

「はい」

「だったら、行き先は決まっています。あとは、一歩踏み出すだけです」

「渚さん」

「はい」

「怖いです」

「知っています」

「うまくいかないかもしれない」

「そうかもしれない」

「誰かに届かないかもしれない」

「届かないこともあるかもしれない」

「それでも、行けますか」

「行けます。行けます。昨日、千鶴さんから聞いた言葉を、夕さんも言いましたよね。怖いままで、一歩だけ、と。それだけでいい」

 夕さんは動かなかった。

 懐中時計を、両手でそっと持っていた。


「夕さん、一つだけ、お願いがあります」

「何ですか」

「今日、もう一度歌ってもらえませんか」

 夕さんが少し驚いた顔をした。

「なぜですか」

「出ていく前に、聞きたいんです。夕さんの声を。それが、夕さんの行き先への、最初の一歩になると思うから」

 夕さんはしばらく動かなかった。

 懐中時計を見た。それから、ターミナルを見た。それから、窓の外の薄くなった夕焼けを見た。

「怖いですか」

「怖いです」

「怖いままで、いいです」


 長い間があった。

 ターミナルが夕さんを見ていた。

 風が窓の外で鳴った。

 夕さがゆっくりと立ち上がった。

 懐中時計をポケットに入れて、ホームに出た。

 僕とターミナルがついていった。

 ホームの真ん中に立って、夕さんは線路の先を見た。

 薄くなった夕焼けの中に、線路が伸びていた。

 夕さんが、息を吸った。

 目を閉じた。

 それから、歌い始めた。


 今日の歌は、前と違った。前は言葉のない歌だった。メロディだけだった。

 でも今日は、言葉があった。はっきりした歌詞ではなかった。でも、声の中に言葉が混じっていた。

 行ってらっしゃい、というような言葉。

 また会いましょう、というような言葉。

 大丈夫、というような言葉。

 それが、夕焼けの中に溶けていった。

 線路の先まで、届いていく気がした。

 ターミナルがごろごろと鳴き始めた。

 僕は何も考えられなかった。ただ聞いていた。

 夕さんが歌っている。ここで何年も、何十年も、ひとりで抱えてきた声が、ようやく外に出ていった。

 きれいだとか、上手だとか、そういうことじゃなかった。

 ただ、届いた。


 歌が終わった。

 夕さんが目を開けた。

 夕焼けを見たまま、しばらく立っていた。

 僕は何も言わなかった。

 ターミナルも鳴き止んで、静かになった。

 しばらくして、夕さんが振り返った。

 目が、潤んでいた。でも泣いていなかった。

「どうでしたか」

「届きました。今日の方が、もっと届きました」

「そうですか」

夕さんの声が少し震えていた。

「そうですか」

「これが、夕さんの一歩目だと思います。ここで歌えた。それが、最初の一歩です」


 夕さんがポケットから懐中時計を取り出した。

 蓋を、そっと開いた。

 しばらく文字盤を見ていた。

 指先が、少し震えていた。

 それから、夕さんが囁くような声で言った。

「あなたの行き先を、聞いてもいいですか?」

「え」

「渚さんの行き先が、見えています。でも、渚さん自身に言ってほしいんです。自分の言葉で」

 僕は少し考えた。

 でも、考える必要はあまりなかった。

 もう、分かっていたから。

「人の行き先を探す仕事がしたい。具体的には、まだはっきりしていません。カウンセラーかもしれない、教師かもしれない、別の何かかもしれない。でも、人の話を聞いて、一緒に考えて、その人の行き先を一緒に探す。そういうことをしたいと思っています」

「それが、行き先ですか」

「はい。それが、行き先です」

 夕さんは懐中時計を見た。

 文字盤に、指先を当てた。

 少しの間、そうしていた。

 それから、白い切符が現れた。

 夕さんが切符を手渡してくれた。

 受け取って、見た。

 そこには、駅の名前が書いてあった。

 知らない駅名だったけど、でもどこかで見た気がした。いや、見たことはない。でも、行くべき場所だと分かった。

「この駅はどこですか」

「渚さんが向かうべき場所への、最初の駅です。具体的にどこに行くかは、この駅に着いてから、少しずつ決めていけばいいと思います」

「すぐには決まらなくていい、ということですか」

「はい。行き先は、最初から全部決まっていなくていい。方向が決まれば、あとは歩きながら決めていける」

 切符を手の中で持った。

 温かかった。


「夕さん、ありがとうございます」

「こちらこそ」

「切符をもらいました。でも、電車は今日乗るんですか」

「今日乗っていいと思います。決まったから」

「夕さんも、今日乗りますか」

 夕さんは少し間を置いた。

「今日、乗ります」

「今日、乗るんですね」

「はい。駅があるうちに、乗ります。渚さんと、一緒に」

 一緒に。その言葉が、予想外だった。でも嬉しかった。

「一緒に乗れるんですか、同じ電車に」

「行き先が違っても、同じ電車に乗れます。途中で分かれますが、最初は一緒に乗れます」


「それは……」

僕は言いかけて、止まった。

 嬉しいとか、よかったとか、そういう言葉では足りなかった。

「それは、いいですね」

 夕さんが少し笑った。今日の笑顔は、いつもより長かった。短くて、すぐ消えるいつもの笑顔ではなかった。少しだけ、長く続いた笑顔だった。

「電車が来るまで、少し時間があります。その間に、最後の準備をします」

「何か手伝えることはありますか」

「一緒にいてもらえれば、十分です」


 夕さんが駅舎に戻って、最後の確認をした。

 棚の帳面が整っているか。台所が片付いているか。ホームに問題がないか。

 全部確認して、最後に、古い写真の前に立った。

 壁に飾られた、昔の駅員たちの白黒写真。

 夕さんがしばらく、その写真を見ていた。

「みんな、ちゃんと行ったんですね」

「夕さんも、行きます」

「はい、行きます」


 ターミナルが夕さんの足元に来た。

 夕さんがターミナルを抱き上げた。

 今日は長く抱いていた。ターミナルはごろごろとも鳴かなかった。ただ、抱かれていた。

「ターミナル」

 夕さんが呼ぶ声は細かった。ターミナルは何も言わなかった。

「ここにいてくれてありがとう。ずっと」

 ターミナルが、夕さんの肩に顔を寄せた。

 夕さんの目から、涙が一粒だけ出た。

 それだけだった。でも、その一粒に、長い時間が全部入っていた気がした。


 懐中時計が、夕さんのポケットの中で、少し温かくなった。

 夕さんがそれを感じたらしく、ポケットに手を当てた。

「電車が来ます」

「今日の電車は、いつもと違いますか」

「少し違うかもしれません。私が乗る電車だから」

 ターミナルを下ろした。ターミナルはホームの方に歩いていった。

 夕さんが僕を見た。

「行きましょう」

「はい」


 ホームに出た。

 夕焼けは、今日これまでで一番薄かった。でも、消えてはいなかった。まだ夕焼けだった。

 線路の先を見た。電車が来るのを、三人で待った。夕さんと、僕と、ターミナル。

 風が吹いた。薄い夕焼けの中で、草が揺れた。ターミナルが、ホームの端に座った。いつもの場所で、いつもの姿勢で。電車の来る方向を向いていた。その背中が、今日は少し違って見えた。見送る準備ができている背中だった。


 遠くから、音が聞こえてきた。電車の音だった。でも、今日の音は少し違った。いつもの電車の音より、柔らかかった。温かかった。線路の先に、光が見えてきた。

 夕さんが息を吸った。僕も息を吸った。

 電車が、少しずつ近づいてきた。夕焼けの中から、静かに現れてきた。


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