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17時47分の終着駅―駅員の少女と、行き先のない僕―  作者: 明石竜


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第十四章 最後の乗客

 十二日目の朝だった。

 目が覚めた瞬間、昨日より空気が薄いと思った。

 気のせいではなかった。窓から差し込む夕焼けの光が、昨日より少し淡かった。いつもはオレンジ色が濃くて、部屋の壁を染めるくらいだった。でも今朝は、その色が薄かった。まだ夕焼けだったけど、少し白に近づいていた。

 ターミナルが足元にいた。

 いつもは朝になると消えているのに、今日も離れなかった。昨日から、ずっとそばにいる。

「今日が、その日ですか?」と尋ねてみた。

 ターミナルは答えなかった。でも、離れなかった。


 朝食のとき、夕さんも感じていた。

「今日、空気が変わっています」

夕さんは言った。

「昨日より、薄いですね」

「はい。昨日より、確かに」

 卵焼きを食べながら、夕さんの手元を見た。懐中時計を、いつもより頻繁に確認していた。確認するたびに、少し表情が動いた。

「来ますか」

「来ます。もうすぐ」

「昨日、夕さんに関係のある人だと言っていましたよね」

「はい。誰か、分かってきました」

「誰ですか」

 夕さんはしばらく懐中時計を見ていた。

「昔、私がここに来たとき、私のことを知っていた人だと思います」


 朝食が終わって、ホームに出た。

 線路を見た。

 いつもと同じ線路だったけど、今日は何かが違った。遠くに見える夕焼けの色が、少し淡かった。線路の先が、いつもより見えにくい気がした。霞んでいるような、薄れているような。

 夕さんが懐中時計を持ったまま、ホームの入り口に立った。来た人をすぐに迎えられるように。

 僕はベンチに座って、待った。

 ターミナルがホームの端に座った。電車の来る方向を向いていた。

 風が止んでいた。草も揺れていなかった。全部が、穏やかに待っていた。


 その人が来たのは、午前中だった。

 ホームに現れたとき、僕は最初、息が止まった。

 六十代くらいの女性だった。白髪混じりの髪を短く整えていて、服装は落ち着いていた。体の動き方に、長い時間を生きてきた人の重さがあった。

 でも、その目が。

 その目が、夕さんにとても似ていた。

 目の形が、というよりも、目の持っている静けさが。何かを深いところに持っていて、でも表には出さない、そういう目が。

 夕さんがその人を見た瞬間、僕は夕さんの体が一瞬固まるのを見た。

 夕さんが固まるのを見たのは、初めてだった。


 女性がゆっくりとホームを歩いてきた。

 夕さんを見て、止まった。

 夕さんも止まっていた。

 二人が、しばらく見つめ合った。

 それから、女性が口を開いた。

「夕ちゃん」と言った。

 夕さんの名前を呼んだ。

 夕さんの肩が、わずかに動いた。

「……千鶴さん」

夕さんの声が、いつもと全然違った。子どものころの声みたいだった。


 駅舎に入って、女性――千鶴さんは夕さんの向かいに座った。

 千鶴さんはゆっくりと駅舎の中を見回した。古い写真、棚の帳面、止まった時計、ターミナル。一つ一つを、確かめるように見た。

「変わっていないね」

「はい。変わっていません」

「私が来たときと、同じ」

「千鶴さんは、ここに来たことがあるんですか」

夕さんの声が少し震えていた。

「あるよ。随分前に」

千鶴さんは穏やかに言った。

「いつですか」

「夕ちゃんが、ここに来る前」

 夕さんが目を少し見開いた。

「私がここに来る前、ということは……」

「そう。私もここに来た。迷って、来た。あなたと同じように」

「千鶴さんも、行き先が分からなくなっていたんですか」

「そうだった。若いころに。いろんなことがうまくいかなくて、どこに行けばいいか分からなくなって、気づいたらここに来ていた」

 夕さんはしばらく何も言わなかった。

「行き先は、決まりましたか」

「決まった。ここで話を聞いてもらって、切符をもらって、電車に乗った」

「覚えていますか、どんな話をしたか」

「よく覚えているよ」

千鶴さんは少し笑った。

「当時の駅員さんに、ずいぶん長い話を聞いてもらった。私、話すの好きだから」


 ターミナルが千鶴さんの方に歩いていった。

 千鶴さんはターミナルを見て、目を細めた。

「この子も、いる。変わっていない」

「ターミナルは、ずっとここにいます」

「知っている。私が来たときも、いた。覚えているかな、私のことを」

 ターミナルが千鶴さんの足元に来て、においを嗅いだ。それから、頭を千鶴さんの手に押しつけた。

「覚えていてくれた」

千鶴さんの声が少し和らいだ。

「ありがとう」


「千鶴さん、今日、なぜ来たんですか」

「また迷ったから。随分前に来て、行き先をもらって、出ていった。それからずっと、外で生きてきた。いろんなことがあった。でもまた、どこに行けばいいか分からなくなってきた」

「何があったんですか」

「年を取ってね」

千鶴さんは穏やかに言った。でも少し重かった。

「夫も亡くなって、子どもたちも独立して、一人になった。これまでは、誰かのために動いていた。でも一人になったら、自分のために何をすればいいか分からなくて」

「誰かのためではなく、自分のために」

「そう。これまで、ずっと誰かのそばにいることが自分の場所だった。でも今は、そういう場所がなくなって。自分一人の行き先が、見えなくなった」

「千鶴さん、以前ここに来たとき、行き先はどんな場所でしたか」

「人と関わる仕事に就く、という行き先だった。私、人と話すのが好きだから。それを活かしなさい、と当時の駅員さんに言われて。それで、福祉の仕事に就いた。長い間、続けた」

「それは、自分に合っていましたか」

「合っていた。好きだった。でも定年になって辞めた。それから、少しずつ迷い始めて」

「好きだったことが、なくなった」

「仕事としてはなくなった。でも、好きな気持ちは残っている。ただ、どこに向ければいいか分からなくて」


 夕さんは少し考えた。

「千鶴さん、今でも人と話すことは好きですか」

「好きだよ」

千鶴さんはすぐに答えた。

「この年になっても。むしろ、若いころより好きになった気がする」

「では、人と話す場所は、仕事でなくても作れると思います。地域の活動でも、ボランティアでも、あるいはただ誰かのそばにいることでも。仕事という形でなくても、好きなことを続ける方法はあります」

「そうかもしれないね。でも、踏み出すのが億劫で。若いころと違って、新しいことを始めるのが怖くなってきている」

「年齢には関係ないと思います。怖さは、いつでもあります。若いころも、年を取ってからも」

「そうね」

千鶴さんは少し笑って言った。

「あなた、若いのに、しっかり言うね」


 それから少し間があった。

 千鶴さんが夕さんをじっと見た。

「夕ちゃん」

「はい」

「ここに、長くいるね」

 夕さんは少し間を置いた。

「はい」

「私がここに来たとき、あなたはいなかった。でも、次に来たときにはいた。それからずっと、ここにいる」

「次に来たとき、というのは」

「しばらく前に、一度来た。用事があったわけではないけど、懐かしくて来た。そのとき、あなたがいた。若い駅員さんがいると思って、話しかけたら、あなただった」

「覚えていません」

「そうかもしれないね。私のことを覚えていなくても、あなたはずっとここにいた。その頃から、ずっと。夕ちゃん、あなたも、迷ってここに来たんじゃないの」

「はい」

「行き先は、決まった?」

 夕さんはしばらく答えなかった。


「決まっています。でも、まだ行けていません」

「なぜ行けないの」

「怖くて」

 千鶴さんはうなずいた。責めなかった。

「何が怖いの」

「外に出て、やりたいことをやって、うまくいかなかったとき。それが一番怖いです」

「そうね。私も若いころ、同じだった。でも行ったよ」

「千鶴さんは、怖くなかったんですか」

「怖かった。でも、ここにいた人に言われたんだよね。怖いままで行けばいい、と」


 夕さんが少し動いた。

「誰に言われたんですか」

「当時の駅員さん。穏やかな人で、芯があって、来た人の話をよく聞いていた人。あなたに少し似た人」

 夕さんの目が、少し変わった。

「その人のことを、覚えていますか」

「よく覚えているよ。ここを出ていくとき、その人に見送ってもらった。怖いままで行けばいいと言われて、でも背中を押されて、電車に乗った。それからずっと、その言葉を覚えていた」

「その人は」

夕さんは言いかけて、止まった。

「その人がどうかしたの」

「その人は、今はいません。ずっと前に、電車に乗って行きました」

「そう。でも、その人の言葉は残っている。私の中に、ずっと」


 駅舎の中が静かになった。

 夕焼けの光が、いつもより少し弱く差し込んでいた。

「千鶴さん、今日ここに来たのは、行き先を探すためだけじゃない気がしています」

「そうかもしれないね」

「私に、何かを伝えに来てくれたんじゃないかと思っています」

 千鶴さんはしばらく夕さんを見ていた。

「賢い子ね」

千鶴さんはそう褒めて、少し笑った。

「そうかもしれない。ここに来るとき、なぜか、あなたに会うような気がしていた。会ったことがある気がしていた。でも、会った記憶はなくて」

「私が来る前に、千鶴さんはここに来ていた。でも私は覚えていない」

「でも、縁はあったんだね。こうして、また会っているから」

「千鶴さん、昔の駅員さんに言われた言葉、もう一度聞いてもいいですか。怖いままで行けばいい、という言葉を」

「どうして」

「私が、聞く必要がある気がして」

 千鶴さんはしばらく夕さんを見ていた。それから、ゆっくりとうなずいた。

「怖いままで行けばいい。怖さが消えるのを待たなくていい。怖いまま、一歩だけ踏み出せばいい。一歩踏み出せば、次の景色が見える。次の景色が見えれば、また一歩踏み出せる。それだけでいい」

 夕さんは聞いていた。

「それだけでいい」

「そう。それだけでいい。難しく考えなくていい。ただ、一歩だけ」


「千鶴さん」

僕はそれまで黙って聞いていたけど、声が出た。

 千鶴さんが僕を見た。

「あなたも、迷っているの?」

「はい。でも、もうすぐ見えてきそうです」

「そう。焦らなくていい。ここに来たということは、ちゃんと考えている人だから」

「ありがとうございます」

「あなたに一つだけ言ってもいいかな」

「はい」

「人の話を聞くことができる人は、大切にされなければいけない。そういう人は、聞いてもらう側になることを忘れがちだから。自分も、ちゃんと誰かに話すことを、覚えておきなさい」

 それは、昨日夕さんと話したこととつながる言葉だった。

「はい。覚えておきます」


 夕さんが懐中時計を出した。

 蓋を開いて、しばらく見た。

「千鶴さんの行き先が、見えています」

「どこ?」

「近所の集会所です。地域で集まる場所。そこに行けば、話せる人たちがいます。仕事ではないけど、千鶴さんが好きなことができる場所です」

「集会所か。近いね」

「近くていいと思います。新しいことを遠くに探さなくていい。近くにある場所から始める」

「そうね。近いからこそ、長続きするかもしれない」

 切符が作られて、千鶴さんに手渡された。

 千鶴さんは切符を受け取って、見た。

「また、もらえた。随分前にもらった切符と、また別の切符を」

「何度もらってもいいんです」


 電車が来る前に、千鶴さんが夕さんに言った。

「夕ちゃん」

「はい」

「あなたも、ちゃんと行きなさい」

「はい」

「怖いままで、一歩だけ。それだけでいい」

「はい」

「昔の駅員さんも、同じことを言って出ていった。怖かったけど、出ていった。あなたも、同じようにできる」

 夕さんは何も言わなかった。

 千鶴さんが立ち上がって、夕さんの近くに来た。

 それから、夕さんの手を握った。

 夕さんが、ゆっくりと目を閉じた。

「ありがとうございます」

夕さんの声が、また子どもみたいだった。

「ありがとうは、こっちの言葉よ」


 電車が来た。

 千鶴さんがホームに出た。

 ターミナルが千鶴さんのそばについていった。ホームの端まで、並んで歩いた。

 千鶴さんが扉の前で立ち止まって、ターミナルを見た。

「またね。今度は、もっと早く来る」

 ターミナルがゆっくり瞬きした。

 千鶴さんが乗り込んだ。扉が閉まった。

 電車がゆっくりと動き出した。

 夕さんが頭を下げた。

 電車が夕焼けの中に消えていった。


 ホームに静けさが戻った。

 でも今日の静けさは、他の日とは違った。

 何か大切なものが通り過ぎた後の静けさだった。

 夕さんがしばらく、電車の消えた方向を見ていた。

 僕は隣に立っていた。

「夕さん」

「はい」

夕さんの声がかすれていた。

「千鶴さんに会えてよかったですね」

「はい。会えてよかったです」

「昔の駅員さんのことも、少し分かりましたね。千鶴さんの話から」

「はい。怖いままで行けばいいと言った人が、いたんですね。その人が電車に乗って出ていって、その後に私が来た」

「繋がっているんですね」

「繋がっています。ここに来た人たちが、また誰かに伝えて、その誰かがまたここに来て。それが繋がっていく」

「千鶴さんが言ってくれましたよね。怖いままで、一歩だけ、と」

「はい」

「今、その言葉を、自分のこととして聞けましたか」

 夕さんは少し間を置いた。

「聞けました。昨日より、ずっとはっきり聞こえました」

「それはよかったです」

「千鶴さんが来てくれなければ、こんなにはっきりは聞こえなかったと思います」

「だから、最後の乗客だったんですね。行き先を探しに来ただけじゃなくて、夕さんに伝えるために来た」

「そうかもしれません。この駅の最後に、こういう人が来た。それは、意味があることだと思います」


 ターミナルが夕さんの足元に来た。

 夕さんがターミナルを抱き上げた。

 昨日も抱き上げていた。でも今日は、少し長く抱いていた。

「ターミナル」

夕さんは低い声で言う。

「そろそろ、ですね」

 ターミナルは何も言わなかった。

「分かっています。怖いままで、一歩だけ」

 ターミナルがごろごろと鳴いた。

 夕さんの目が、また少し潤んだ。でも今度は、泣かなかった。

 潤んだまま、夕焼けを見た。


 夕食のとき、夕さんが言った。

「千鶴さんが来てくれて、整理できました」

「何が整理できましたか」

「ここを出ることへの、怖さです。消えたわけじゃない。でも、整理できた。怖いままで行けばいいと、自分のこととして受け取れた」

「昨日と今日で、変わりましたか」

「変わりました。昨日は、まだ頭で分かっているだけでした。でも今日、千鶴さんから聞いて、体で分かった気がします」

「体で分かる、というのは」

「動けそうな気がする、ということです。怖いけど、動けそうな気がする」

 それは、ここに来てから初めて夕さんから聞く言葉だった。

 動けそうな気がする。

 その言葉が、夕焼けの中にやわらかく溶けていった。


「夕さん」

「はい」

「もうすぐですね」

「はい。もうすぐです」

「怖いですか」

「怖いです。でも、それでいいと思っています。怖くてもいい」

「そうですね。怖くてもいい」

 ターミナルがテーブルの下にいた。夕さんの足元に。いつもの場所に。

 夕焼けは続いていた。でも今夜の光は、昨日よりさらに少し薄かった。確かに薄くなっていた。

 駅が消えていく。でも今日、大切なことが起きた。

 千鶴さんが来た。昔の駅員さんの言葉が、千鶴さんを通じて夕さんに届いた。怖いままで、一歩だけ。

 長い時間をかけて、繋がってきた言葉が、ようやく届くべき人に届いた。

 それが今日だった。


 眠る前に、思っていた。明日か、明後日か、もうすぐ夕さんが出ていく日が来る。

 そして僕の行き先も、もうすぐ見えてくる。この駅で過ごした時間が、終わりに近づいている。寂しいと思った。正直に。でも、それよりも大きな気持ちもあった。

 夕さんが行けると思っていること。怖くてもいいと思えていること。

 それが嬉しかった。誰かの扉が開く瞬間に立ち会っている、という感覚があった。

 それが好きだと、改めて思った。ターミナルが足元に来た。今夜は特別近くに来て、丸くなった。「今日も、ありがとう」と言った。

 ターミナルはごろごろと鳴いた。夕焼けは続いていた。時計は17時47分のままだった。

 でも今夜の光は、かなり薄かった。もうすぐだった。


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