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17時47分の終着駅―駅員の少女と、行き先のない僕―  作者: 明石竜


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13/18

第十三章 駅が消える日

 十一日目の朝だった。

 目が覚めたとき、何かが違うと思った。

 いつもと同じ夕焼けが窓から差し込んでいた。時計は17時47分のままだった。ターミナルは足元にいた。何も変わっていない。

 でも、何かが違った。

 空気が、薄い気がした。

 薄い、というのは温度が低いとか、湿度が違うとか、そういうことではなかった。もっと別の意味で。この部屋が、昨日よりわずかに遠くなっている気がした。壁が少し遠い。天井が少し高い。自分とこの駅の間に、見えない膜が一枚増えたような。

 気のせいかもしれない、と思った。

 でも、ターミナルが足元から離れなかった。いつもなら朝には消えているターミナルが、今朝は離れなかった。丸くなったまま、どこにも行かなかった。


 台所に行くと、夕さんがいた。

 お茶を入れていたけど、その動作が少し止まっていた。何かを考えながら、止まっていた。

「おはようございます」と挨拶すると、夕さんが振り返った。

 顔が、いつもと違った。

 いつもは穏やかな顔をしている。何かを抱えていても、表面は静かな人だった。でも今朝は、その静けさの下に何か別のものが透けて見えた。

「おはようございます」

夕さんの声はいつも通りだったけど、少し慎重だった。

「どうかしましたか」

 夕さんはお茶を湯呑みに注いで、テーブルに来た。

「今朝、ターミナルが伝えてきたことがあります」


 朝食を食べながら、夕さんが話してくれた。

「今朝、夢の中でターミナルの声が聞こえました」

「ターミナルの声が」

「はい。言葉ではないけど、伝わってくるものが、いつもより強かった」

「何が伝わってきましたか」

 夕さんは湯呑みを持ったまま、少し間を置いた。

「この駅が、もうすぐなくなる、と」


 その言葉が、朝の空気の中にゆっくり落ちた。

 僕は少し息を吸った。

「もうすぐ、というのは、どのくらいですか」

「分かりません。ターミナルが伝えてくることは、細かい時間までは分からない。でも、近いと思います」

「なくなる、というのは、どういうことですか。建物が消えるとか」

「建物が消えるかもしれません。でも、それより――」

夕さんは少し言葉を選んだ。

「この駅が駅として機能しなくなる、ということだと思います。来た人を迎えられなくなる。切符が作れなくなる。電車が来なくなる」

「それって、来る人がいなくなるから、ということですか。以前、話してくれたように」

「それが大きいと思います。来る人が減って、駅が薄くなっていく。それが、もうすぐ限界になる、と」


 ターミナルが台所から出てきて、テーブルの横に座った。

 夕さんを見ていた。じっと、動かずに。

「ターミナル、本当に、もうすぐなくなるんですか」

 ターミナルはこちらを向かなかった。

 夕さんを見たままだった。

「もうすぐというのが、今日なのか、一週間後なのか、一ヶ月後なのか」

「分かりません。でも、今朝、空気が違うと感じませんでしたか」

「感じました。薄い、という感じが」

「私もです。今朝起きたとき、駅が昨日より薄くなっていると感じました。ターミナルに言われなくても、感じていました」


 朝食が終わって、ホームに出た。

 夕さんと並んで、線路を見た。

 見た目は変わらなかった。線路はまっすぐ伸びていて、夕焼けの光が差し込んでいた。駅舎は古いままで、時計は17時47分のままだった。

 でも、空気が薄かった。

 来た最初の日、この駅に足を踏み入れたときのことを思い出した。あのときは、夕焼けの濃い光と、古い駅舎の重さと、時間の止まった感覚が、全部ひっくるめて「ここは特別な場所だ」と感じさせていた。

 それが今日は、少しだけ薄れていた。

「夕さん、これが進んでいくと、どうなりますか」

「少しずつ、薄くなっていきます。来る人が来られなくなって、電車が来なくなって、切符が作れなくなって、最後は……」

「最後は?」

「駅が、ただの古い建物になります。機能を持たない、ただの場所に」

「それは、いつですか」

「分かりません。でも、早いと思います」


 しばらく黙って、線路を見ていた。

 ターミナルがホームの端に座って、電車の来る方向を見ていた。いつもの場所だったけど、今日はその背中が少し違って見えた。

「ターミナル、怖いですか」

 ターミナルは振り返らなかった。

「ターミナルは怖くないと思います」

「なぜですか」

「ターミナルにとって、この駅がなくなることは、終わりではないと思うから」

「どういうことですか」

「ターミナルはこの駅がある前からいて、この駅ができて、たくさんの人が来て、みんなが出ていくのを見てきた。駅がなくなっても、ターミナルの中にある記憶は消えない。来た全員の名前を、ターミナルは覚えている。それは、駅がなくなっても残るものです」

「ターミナルの中に、この駅がある」

「そうだと思います」


「夕さんは、怖いですか」

 夕さんは少し間を置いた。

「怖いです。でも、昨日と、怖さが少し違います」

「どう違いますか」

「昨日までの怖さは、ここを出ることへの怖さでした。外に出て、音楽をやって、うまくいかないことへの怖さ。でも今日は、それより別のことが怖い」

「何が怖いですか」

「この駅がなくなったとき、まだここに来るはずだった人が来られなくなること。私がまだここにいるのに、駅がなくなって、来るはずだった人が迷ったままになること」

「それは、夕さんがここを出ることとは、別の話ですよね」

「はい。別の話です。でも、繋がっています」

「繋がっている?」

「私がここを出れば、次の誰かがここの駅員になるかもしれない。でも私がいないまま駅がなくなれば、次の誰かもいない。来るはずだった人が、来られなくなる」


「夕さん、それって、駅がなくなりそうなのは、夕さんがここを出ない、つまり行き先が決まっていないことと関係があると思いますか」

 夕さんは少し間を置いた。

「あると思っています。この駅は、来る人と出ていく人がいることで、機能します。来るだけで出ていかなければ、循環が止まります。私が出ていかないことで、循環が止まっている部分があると思います」

「だとしたら、夕さんが出ていくことが、この駅を続けることに繋がるかもしれない」

「そうかもしれません。でも、私が出ていっても、次の駅員が来るかどうかは分からない。保証はない」

「保証はないけど、出ていかなければ確実に止まる」

「はい」


 ターミナルがホームの端から戻ってきた。

 夕さんの足元に来て、座った。それからゆっくりと、夕さんを見上げた。

 夕さんはターミナルを見下ろした。

「ターミナルが、何か伝えてきていますか」

「はい。さっきから、ずっと」

「何と?」

 夕さんはしばらくターミナルを見ていた。

「行きなさい、と」

夕さんの声が、少し震えていた。

「ターミナルが、そう言っているんですか」

「はい。何度も。今日の朝から、ずっと」

 ターミナルがまた、低い声で鳴いた。

 夕さんの目が、ゆっくりと潤んでいった。


「夕さん」

「はい」

夕さんの声が細かった。

「ターミナルも、言っています。僕も言っています。夕さんが出ていく時期だと」

「分かっています……分かっています。でも……」

「でも?」

「ターミナルを、置いていくのが」

 そこで声が止まった。

 僕は何も言えなかった。

 夕さんとターミナルが、どれくらい長い時間をここで一緒に過ごしてきたか、僕には分からない。でも、長かったことは分かった。ずっと一緒にいた。来る人が来ては去り、駅員が来ては去り、それでもターミナルだけはずっといた。夕さんもずっといた。二人だけが、ここに残り続けてきた。

 その時間の重さが、夕さんの止まった声の中にあった。


 ターミナルが立ち上がった。

 夕さんの足元から、少し離れた。

 それからこちらを向いて、夕さんを見た。

 その目が、何か言っていた。言葉ではなく、でも確かに何かを言っていた。

「ターミナル」

夕さんが呼んでも、ターミナルは鳴かなかった。ただ見ていた。

「置いていくのが嫌なんじゃないんです」

夕さんは涙をこらえている声だった。

「ターミナルが心配なんです。私がいなくなったら、ターミナルが一人になる」

 ターミナルがゆっくりと瞬きをした。

「大丈夫だ、と言っていますか」

「そう聞こえます。でも、信じたくない」

「ターミナルは、ずっとここにいた。夕さんが来る前も、来た後も。夕さんがいなくなっても、ここにいると思います」

「それが、寂しいんです。ターミナルが一人でここにいることが」

 

「ターミナルは寂しくないと思います」

「なぜですか」

「ターミナルの中には、ここに来た全員がいるから。来ては去っていった全員を、ターミナルは覚えている。夕さんのことも、覚えている。だから、一人じゃない」

 夕さんはターミナルを見た。

 ターミナルは動かなかった。ただ、夕さんを見ていた。

「それに、またここに来る人が来ます。次の誰かが来て、話して、また出ていく。その間、ターミナルはここにいる。一人の時間もあるかもしれないけど、ずっと一人じゃない」

「そうですね」

夕さんの声がまだ細かったけど、少し落ち着いてきていた。

「そうですね。ターミナルはここが好きで、ここにいる。それは、私がいなくても変わらない」

「変わらないと思います」


 しばらく三人で、ホームに立っていた。

 風が吹いた。いつもと同じ風だったけど、今日は少し名残惜しい風に感じた。

「夕さん、一つ、確認してもいいですか」

「はい」

「行き先は、決まっていますか」

 夕さんは少し間を置いた。

「決まっています。ずっと前から、決まっていました」

「音楽ですか」

「はい。形は分からない。どんな音楽をどこでやるか、具体的なことは何も決まっていない。でも、音楽に向かう、ということは決まっています」

「それで十分だと思います。具体的なことは、出ていってから決めればいい」

「そうですね。中岡さんに言いました。茫然とする時間が終わったら動けばいい、と。私も、まず出ることが先だと思います」

「そうです」

「でも、まだ、すぐには出られないかもしれません」

「なぜですか」

「あと、来るはずの人がいる気がするんです。もう少しだけ、ここで待つ必要がある気がして」

「懐中時計が、そう言っていますか」

「はい。あと何人かは、来ると思います。駅がなくなる前に」

「それを迎えてから、出るということですか」

「そうしたいと思っています。最後まで、ちゃんと仕事をしたい」

 それは夕さんらしかった。最後まで、ちゃんと仕事をする。来た人を迎えて、送り出す。それが終わってから、自分も出ていく。

「分かりました。でも、その後は、出て下さい」

「はい。出ます」


 午後になって、夕さんが帳面を出してきた。

 いつもの記録ではなく、別の帳面だった。古い、かなり古い帳面だった。

「何ですか、それは」

「一番古い帳面です。ここができてすぐのころから書かれているものです」

「見てもいいですか」

「はい」

夕さんから帳面を受け取って、開いた。

 古い文字が並んでいた。読めないものもあったけど、読めるものもあった。

 名前と、来た日と、行き先。

 たくさんの名前があった。一ページに何人も書かれていた。来た日の欄には、読めないほど古い日付が書かれていた。

 行き先の欄には、いろんな場所の名前が書かれていた。知らない駅名ばかりだったけど、どれも確かにどこかの場所だった。

「みんな、ちゃんと行ったんですね」

「はい。全員、行き先が決まって、電車に乗りました」


 帳面を読みながら、思った。

 この帳面に書かれた全員が、ここを通り過ぎた。迷って、来て、話して、行き先を見つけて、出ていった。

 それが積み重なって、この駅があった。

 来た人たちの数だけ、この駅は存在してきた。

「夕さん、この駅がなくなるとして――なくなることは、悪いことですか」

 夕さんは少し考えた。

「悲しいことだと思います。でも、悪いことかどうかは、分かりません」

「なぜ分からないんですか」

「この駅があったことで、たくさんの人が行き先を見つけた。その事実は、駅がなくなっても消えない。帳面に残っているし、ターミナルの中に残っているし、出ていった人たちの中に残っている」

「だから、なくなっても意味がなくなるわけじゃない」

「そう思っています。でも、まだ来るはずだった人が来られなくなるかもしれない。それは、悲しいです」

「だから、できるだけ続けることが大事だ」

「はい。でも、無理に続けることはできない。自然に薄くなっていくものを、止める方法が私には分からない」


 夕方、懐中時計を確認した夕さんが言った。

「明日、来ます。最後の乗客かもしれません」

「最後の乗客、ですか」

「はい。この駅に来る、最後の人かもしれません」

「どんな人ですか」

「はっきりとは分かりません。でも――」

夕さんは少し間を置いた。

「私に関係のある人だと思います」

「夕さんに関係のある人」

「はい。会ったことのある人か、あるいは……昔のことを知っている人か」

 昔のことを知っている人。少し見えてきた気がした。

「それは、夕さんにとって、怖いことですか」

「怖いことと、会いたかったことが、両方あります。誰か分かってから、どちらが大きいか決まります」


 夕食のとき、静かだった。

 でも昨日の静けさとは違った。昨日は何かが動き始めた後の静けさだった。今夜は、何かが動く前の静けさだった。

「夕さん」

「はい」

「この駅がなくなるとしても、夕さんがここでしてきたことは、なくなりませんよね」

「そうだと思います」

「来た人たちに、行き先を渡してきた。その人たちは、それぞれの場所に行って、それぞれの日々を生きている。それは、駅がなくなっても消えない」

「はい」

「だから、夕さんがここでしてきたことは、本物だったと思います。駅がなくなっても、本物だったことは変わらない」

 夕さんはしばらく何も言わなかった。


「……ありがとうございます。そう言ってもらえて、よかったです」

「夕さん」

「はい」

「一つだけ、聞いていいですか」

「はい」

「駅がなくなるとき、どんな気持ちだと思いますか。今の時点で、想像して」

 夕さんは少し考えた。長い間、考えた。

「悲しいと思います。でも、それだけじゃないと思います」

「それだけじゃない?」

「誇らしい気持ちも、あると思います。ここで、たくさんの人の話を聞いた。たくさんの人を送り出した。それが終わることへの、悲しさと誇らしさが両方あると思います」

「誇らしいというのは、正しいと思います。夕さんがしてきたことは、誇っていいことです」

 夕さんは何も言わなかった。

 ターミナルが夕さんの足元で、低く鳴いた。

 同意するような声だった。


 眠る前に、今日のことを考えていた。

 駅が消える。

 その言葉は重かったけど、絶望的ではなかった。

 物事には始まりと終わりがある。この駅も、始まりがあって、終わりが来る。でも、あった時間は本物で、来た人たちに渡してきたものは本物で、それは消えない。

 終着駅は、終わりの駅じゃない。

 夕さんがいつか言っていた言葉が、頭の中で鳴った。

 ここは次に行く場所を決める駅。

 だとしたら、この駅自体も、次に行く場所を決めているのかもしれない。建物としてなくなっても、ここに来た人たちの中で続いていく。ターミナルの中で続いていく。

 そして夕さんが出ていくことで、何かが次に繋がっていく。

 そういう気がした。

 ターミナルが足元に来た。丸くなった。今夜はいつもより体を寄せてきた。

「今日は、ありがとう」

僕はターミナルに向けて言った。

「いろいろ、伝えてくれて」

 ターミナルはごろごろと鳴いた。

 夕焼けは続いていた。時計は17時47分のままだった。

 でも今夜の光は、少し前より薄かった。確かに薄かった。

 駅が、少しずつ消えていっていた。

 明日、最後の乗客が来る。それまで、この駅は続く。

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