第十三章 駅が消える日
十一日目の朝だった。
目が覚めたとき、何かが違うと思った。
いつもと同じ夕焼けが窓から差し込んでいた。時計は17時47分のままだった。ターミナルは足元にいた。何も変わっていない。
でも、何かが違った。
空気が、薄い気がした。
薄い、というのは温度が低いとか、湿度が違うとか、そういうことではなかった。もっと別の意味で。この部屋が、昨日よりわずかに遠くなっている気がした。壁が少し遠い。天井が少し高い。自分とこの駅の間に、見えない膜が一枚増えたような。
気のせいかもしれない、と思った。
でも、ターミナルが足元から離れなかった。いつもなら朝には消えているターミナルが、今朝は離れなかった。丸くなったまま、どこにも行かなかった。
台所に行くと、夕さんがいた。
お茶を入れていたけど、その動作が少し止まっていた。何かを考えながら、止まっていた。
「おはようございます」と挨拶すると、夕さんが振り返った。
顔が、いつもと違った。
いつもは穏やかな顔をしている。何かを抱えていても、表面は静かな人だった。でも今朝は、その静けさの下に何か別のものが透けて見えた。
「おはようございます」
夕さんの声はいつも通りだったけど、少し慎重だった。
「どうかしましたか」
夕さんはお茶を湯呑みに注いで、テーブルに来た。
「今朝、ターミナルが伝えてきたことがあります」
朝食を食べながら、夕さんが話してくれた。
「今朝、夢の中でターミナルの声が聞こえました」
「ターミナルの声が」
「はい。言葉ではないけど、伝わってくるものが、いつもより強かった」
「何が伝わってきましたか」
夕さんは湯呑みを持ったまま、少し間を置いた。
「この駅が、もうすぐなくなる、と」
その言葉が、朝の空気の中にゆっくり落ちた。
僕は少し息を吸った。
「もうすぐ、というのは、どのくらいですか」
「分かりません。ターミナルが伝えてくることは、細かい時間までは分からない。でも、近いと思います」
「なくなる、というのは、どういうことですか。建物が消えるとか」
「建物が消えるかもしれません。でも、それより――」
夕さんは少し言葉を選んだ。
「この駅が駅として機能しなくなる、ということだと思います。来た人を迎えられなくなる。切符が作れなくなる。電車が来なくなる」
「それって、来る人がいなくなるから、ということですか。以前、話してくれたように」
「それが大きいと思います。来る人が減って、駅が薄くなっていく。それが、もうすぐ限界になる、と」
ターミナルが台所から出てきて、テーブルの横に座った。
夕さんを見ていた。じっと、動かずに。
「ターミナル、本当に、もうすぐなくなるんですか」
ターミナルはこちらを向かなかった。
夕さんを見たままだった。
「もうすぐというのが、今日なのか、一週間後なのか、一ヶ月後なのか」
「分かりません。でも、今朝、空気が違うと感じませんでしたか」
「感じました。薄い、という感じが」
「私もです。今朝起きたとき、駅が昨日より薄くなっていると感じました。ターミナルに言われなくても、感じていました」
朝食が終わって、ホームに出た。
夕さんと並んで、線路を見た。
見た目は変わらなかった。線路はまっすぐ伸びていて、夕焼けの光が差し込んでいた。駅舎は古いままで、時計は17時47分のままだった。
でも、空気が薄かった。
来た最初の日、この駅に足を踏み入れたときのことを思い出した。あのときは、夕焼けの濃い光と、古い駅舎の重さと、時間の止まった感覚が、全部ひっくるめて「ここは特別な場所だ」と感じさせていた。
それが今日は、少しだけ薄れていた。
「夕さん、これが進んでいくと、どうなりますか」
「少しずつ、薄くなっていきます。来る人が来られなくなって、電車が来なくなって、切符が作れなくなって、最後は……」
「最後は?」
「駅が、ただの古い建物になります。機能を持たない、ただの場所に」
「それは、いつですか」
「分かりません。でも、早いと思います」
しばらく黙って、線路を見ていた。
ターミナルがホームの端に座って、電車の来る方向を見ていた。いつもの場所だったけど、今日はその背中が少し違って見えた。
「ターミナル、怖いですか」
ターミナルは振り返らなかった。
「ターミナルは怖くないと思います」
「なぜですか」
「ターミナルにとって、この駅がなくなることは、終わりではないと思うから」
「どういうことですか」
「ターミナルはこの駅がある前からいて、この駅ができて、たくさんの人が来て、みんなが出ていくのを見てきた。駅がなくなっても、ターミナルの中にある記憶は消えない。来た全員の名前を、ターミナルは覚えている。それは、駅がなくなっても残るものです」
「ターミナルの中に、この駅がある」
「そうだと思います」
「夕さんは、怖いですか」
夕さんは少し間を置いた。
「怖いです。でも、昨日と、怖さが少し違います」
「どう違いますか」
「昨日までの怖さは、ここを出ることへの怖さでした。外に出て、音楽をやって、うまくいかないことへの怖さ。でも今日は、それより別のことが怖い」
「何が怖いですか」
「この駅がなくなったとき、まだここに来るはずだった人が来られなくなること。私がまだここにいるのに、駅がなくなって、来るはずだった人が迷ったままになること」
「それは、夕さんがここを出ることとは、別の話ですよね」
「はい。別の話です。でも、繋がっています」
「繋がっている?」
「私がここを出れば、次の誰かがここの駅員になるかもしれない。でも私がいないまま駅がなくなれば、次の誰かもいない。来るはずだった人が、来られなくなる」
「夕さん、それって、駅がなくなりそうなのは、夕さんがここを出ない、つまり行き先が決まっていないことと関係があると思いますか」
夕さんは少し間を置いた。
「あると思っています。この駅は、来る人と出ていく人がいることで、機能します。来るだけで出ていかなければ、循環が止まります。私が出ていかないことで、循環が止まっている部分があると思います」
「だとしたら、夕さんが出ていくことが、この駅を続けることに繋がるかもしれない」
「そうかもしれません。でも、私が出ていっても、次の駅員が来るかどうかは分からない。保証はない」
「保証はないけど、出ていかなければ確実に止まる」
「はい」
ターミナルがホームの端から戻ってきた。
夕さんの足元に来て、座った。それからゆっくりと、夕さんを見上げた。
夕さんはターミナルを見下ろした。
「ターミナルが、何か伝えてきていますか」
「はい。さっきから、ずっと」
「何と?」
夕さんはしばらくターミナルを見ていた。
「行きなさい、と」
夕さんの声が、少し震えていた。
「ターミナルが、そう言っているんですか」
「はい。何度も。今日の朝から、ずっと」
ターミナルがまた、低い声で鳴いた。
夕さんの目が、ゆっくりと潤んでいった。
「夕さん」
「はい」
夕さんの声が細かった。
「ターミナルも、言っています。僕も言っています。夕さんが出ていく時期だと」
「分かっています……分かっています。でも……」
「でも?」
「ターミナルを、置いていくのが」
そこで声が止まった。
僕は何も言えなかった。
夕さんとターミナルが、どれくらい長い時間をここで一緒に過ごしてきたか、僕には分からない。でも、長かったことは分かった。ずっと一緒にいた。来る人が来ては去り、駅員が来ては去り、それでもターミナルだけはずっといた。夕さんもずっといた。二人だけが、ここに残り続けてきた。
その時間の重さが、夕さんの止まった声の中にあった。
ターミナルが立ち上がった。
夕さんの足元から、少し離れた。
それからこちらを向いて、夕さんを見た。
その目が、何か言っていた。言葉ではなく、でも確かに何かを言っていた。
「ターミナル」
夕さんが呼んでも、ターミナルは鳴かなかった。ただ見ていた。
「置いていくのが嫌なんじゃないんです」
夕さんは涙をこらえている声だった。
「ターミナルが心配なんです。私がいなくなったら、ターミナルが一人になる」
ターミナルがゆっくりと瞬きをした。
「大丈夫だ、と言っていますか」
「そう聞こえます。でも、信じたくない」
「ターミナルは、ずっとここにいた。夕さんが来る前も、来た後も。夕さんがいなくなっても、ここにいると思います」
「それが、寂しいんです。ターミナルが一人でここにいることが」
「ターミナルは寂しくないと思います」
「なぜですか」
「ターミナルの中には、ここに来た全員がいるから。来ては去っていった全員を、ターミナルは覚えている。夕さんのことも、覚えている。だから、一人じゃない」
夕さんはターミナルを見た。
ターミナルは動かなかった。ただ、夕さんを見ていた。
「それに、またここに来る人が来ます。次の誰かが来て、話して、また出ていく。その間、ターミナルはここにいる。一人の時間もあるかもしれないけど、ずっと一人じゃない」
「そうですね」
夕さんの声がまだ細かったけど、少し落ち着いてきていた。
「そうですね。ターミナルはここが好きで、ここにいる。それは、私がいなくても変わらない」
「変わらないと思います」
しばらく三人で、ホームに立っていた。
風が吹いた。いつもと同じ風だったけど、今日は少し名残惜しい風に感じた。
「夕さん、一つ、確認してもいいですか」
「はい」
「行き先は、決まっていますか」
夕さんは少し間を置いた。
「決まっています。ずっと前から、決まっていました」
「音楽ですか」
「はい。形は分からない。どんな音楽をどこでやるか、具体的なことは何も決まっていない。でも、音楽に向かう、ということは決まっています」
「それで十分だと思います。具体的なことは、出ていってから決めればいい」
「そうですね。中岡さんに言いました。茫然とする時間が終わったら動けばいい、と。私も、まず出ることが先だと思います」
「そうです」
「でも、まだ、すぐには出られないかもしれません」
「なぜですか」
「あと、来るはずの人がいる気がするんです。もう少しだけ、ここで待つ必要がある気がして」
「懐中時計が、そう言っていますか」
「はい。あと何人かは、来ると思います。駅がなくなる前に」
「それを迎えてから、出るということですか」
「そうしたいと思っています。最後まで、ちゃんと仕事をしたい」
それは夕さんらしかった。最後まで、ちゃんと仕事をする。来た人を迎えて、送り出す。それが終わってから、自分も出ていく。
「分かりました。でも、その後は、出て下さい」
「はい。出ます」
午後になって、夕さんが帳面を出してきた。
いつもの記録ではなく、別の帳面だった。古い、かなり古い帳面だった。
「何ですか、それは」
「一番古い帳面です。ここができてすぐのころから書かれているものです」
「見てもいいですか」
「はい」
夕さんから帳面を受け取って、開いた。
古い文字が並んでいた。読めないものもあったけど、読めるものもあった。
名前と、来た日と、行き先。
たくさんの名前があった。一ページに何人も書かれていた。来た日の欄には、読めないほど古い日付が書かれていた。
行き先の欄には、いろんな場所の名前が書かれていた。知らない駅名ばかりだったけど、どれも確かにどこかの場所だった。
「みんな、ちゃんと行ったんですね」
「はい。全員、行き先が決まって、電車に乗りました」
帳面を読みながら、思った。
この帳面に書かれた全員が、ここを通り過ぎた。迷って、来て、話して、行き先を見つけて、出ていった。
それが積み重なって、この駅があった。
来た人たちの数だけ、この駅は存在してきた。
「夕さん、この駅がなくなるとして――なくなることは、悪いことですか」
夕さんは少し考えた。
「悲しいことだと思います。でも、悪いことかどうかは、分かりません」
「なぜ分からないんですか」
「この駅があったことで、たくさんの人が行き先を見つけた。その事実は、駅がなくなっても消えない。帳面に残っているし、ターミナルの中に残っているし、出ていった人たちの中に残っている」
「だから、なくなっても意味がなくなるわけじゃない」
「そう思っています。でも、まだ来るはずだった人が来られなくなるかもしれない。それは、悲しいです」
「だから、できるだけ続けることが大事だ」
「はい。でも、無理に続けることはできない。自然に薄くなっていくものを、止める方法が私には分からない」
夕方、懐中時計を確認した夕さんが言った。
「明日、来ます。最後の乗客かもしれません」
「最後の乗客、ですか」
「はい。この駅に来る、最後の人かもしれません」
「どんな人ですか」
「はっきりとは分かりません。でも――」
夕さんは少し間を置いた。
「私に関係のある人だと思います」
「夕さんに関係のある人」
「はい。会ったことのある人か、あるいは……昔のことを知っている人か」
昔のことを知っている人。少し見えてきた気がした。
「それは、夕さんにとって、怖いことですか」
「怖いことと、会いたかったことが、両方あります。誰か分かってから、どちらが大きいか決まります」
夕食のとき、静かだった。
でも昨日の静けさとは違った。昨日は何かが動き始めた後の静けさだった。今夜は、何かが動く前の静けさだった。
「夕さん」
「はい」
「この駅がなくなるとしても、夕さんがここでしてきたことは、なくなりませんよね」
「そうだと思います」
「来た人たちに、行き先を渡してきた。その人たちは、それぞれの場所に行って、それぞれの日々を生きている。それは、駅がなくなっても消えない」
「はい」
「だから、夕さんがここでしてきたことは、本物だったと思います。駅がなくなっても、本物だったことは変わらない」
夕さんはしばらく何も言わなかった。
「……ありがとうございます。そう言ってもらえて、よかったです」
「夕さん」
「はい」
「一つだけ、聞いていいですか」
「はい」
「駅がなくなるとき、どんな気持ちだと思いますか。今の時点で、想像して」
夕さんは少し考えた。長い間、考えた。
「悲しいと思います。でも、それだけじゃないと思います」
「それだけじゃない?」
「誇らしい気持ちも、あると思います。ここで、たくさんの人の話を聞いた。たくさんの人を送り出した。それが終わることへの、悲しさと誇らしさが両方あると思います」
「誇らしいというのは、正しいと思います。夕さんがしてきたことは、誇っていいことです」
夕さんは何も言わなかった。
ターミナルが夕さんの足元で、低く鳴いた。
同意するような声だった。
眠る前に、今日のことを考えていた。
駅が消える。
その言葉は重かったけど、絶望的ではなかった。
物事には始まりと終わりがある。この駅も、始まりがあって、終わりが来る。でも、あった時間は本物で、来た人たちに渡してきたものは本物で、それは消えない。
終着駅は、終わりの駅じゃない。
夕さんがいつか言っていた言葉が、頭の中で鳴った。
ここは次に行く場所を決める駅。
だとしたら、この駅自体も、次に行く場所を決めているのかもしれない。建物としてなくなっても、ここに来た人たちの中で続いていく。ターミナルの中で続いていく。
そして夕さんが出ていくことで、何かが次に繋がっていく。
そういう気がした。
ターミナルが足元に来た。丸くなった。今夜はいつもより体を寄せてきた。
「今日は、ありがとう」
僕はターミナルに向けて言った。
「いろいろ、伝えてくれて」
ターミナルはごろごろと鳴いた。
夕焼けは続いていた。時計は17時47分のままだった。
でも今夜の光は、少し前より薄かった。確かに薄かった。
駅が、少しずつ消えていっていた。
明日、最後の乗客が来る。それまで、この駅は続く。




