プロローグ【風の女精霊】
「それとも先に〈精霊〉が憑いている指輪をはめて契約しておいたほうがいいかな?」
そこで思い直したクリスが女性ものらしいゴールドの台座に金剛石が嵌められた指輪を手に取り、ためつすがめつ吟味する。
何しろここは“世界中の富の半分を所有する”と言われるルエーガー家である。当たり前のように、宝飾品といえば金銀、貴石(エメラルド、ルビー、サファイア)を目の当たりにしてきたので――金や銀、貴石を身につけることが許される身分なのは、聖職者(主に「誠実」や「清浄」を象徴するサファイアを身に着けるのを尊ぶ)、王族と貴族のみである――水晶やパール、ガーネット、ターコイズ、スピネル、トルマリンなどの半貴石ならばともかく、それ以下の工業的価値しかない金剛石(カット技術が確立されていないため、『硬いだけで不格好な安物』という認識である)を、目の当たりにするのは実のところ初めてであった。
なお、ルエーガー家の倉庫(宝物庫ではない)には、『これだけ大きいのも珍しい』という理由だけで献上された、ガチョウの卵大の単結晶としての金剛石も漬物石代わりに何個か転がっているが、その価値が見直されるようになるのは、ずいぶんと先の事である。
(ふ~ん、ガラス指輪に似てるけど手触りが違うね)
クリス個人にしても、ブルーサファイヤやピジョンブラッドルビーのような、王侯貴族や大神官であっても生涯にひとつ持てるかどうかという宝石を、ダース単位で持っているが(大抵が父であるクラヴィス公王からの「珍しい宝石が手に入ったからクリスちゃんにあげるよ~♪」というノリのプレゼントである)無色透明の金剛石の指輪を見て触ったのは、実はこれが初めてなのだが、『安物』という前評判の割に透き通った結晶は案外好みに合った。
(まあ、護符を兼ねているというなら指輪は一個だけ付けるのがマナーだろうからね。気に入らないものでなくて良かった)
試しに右手の中指、薬指にかけてみたが、薬指に一番しっくりくるので、いまのところこれで様子を見てみることにする。
(((((((女性が右手の薬指に指輪をつけるということは、「恋人募集中という意味」になるのですが……)))))))
天真爛漫に指輪をつけて愉しんでいるクリスの何気ない仕草に、使用人たちの間にもどかしいような、じれったいような……声にならないざわりとした雑音が室内に満ち溢れた。
「??? ――ねえ、なんか変じゃない?」
表には出さないが訓練されているはずの公王家に仕える使用人の常ならざる変化に、何やら不穏な気配を感じてクリスが家令に疑いの目を向ける。
「失礼をいたしました。なにしろこれを契機にクリス様の人生が変わる節目の瞬間ですから。ついつい緊張してしまいまして……無作法な醜態をお見せしたこと、誠に申し訳ございません」
卒なく一礼をして一同の不明を代表して詫びる家令。
まあこれから三年間も宮殿を飛び出して、市井で働きながら百万ゴールドを貯めなければならない。その苦難を想像すれば、過剰なほど過保護になるのも仕方ないか、と納得するクリスであった(なお、この見通し――特に百万ゴールドを稼ぐということの大変さに関しては、相当に見通しが甘いとしか言いようがないが、乳母日傘の超絶箱入りだった当人に、いくら口で説いても理解はできないだろう)。
「それで、この指輪に“精霊”が宿っているって話だけど、どうやって使えばいいの?」
指に嵌めれば勝手に契約される……といった類のものではないらしい。
まったく変化のない指輪をかざして小首を傾げるクリス。
「術者の話では、指に嵌めた状態で主人となる者の血を一滴たらすと、主人が契約を破棄するか、精霊の気を損ねるか、主人が不慮の事故などで――可能な限り精霊は主人の命を最優先して護りますからな――命を落とすまで契約は続くそうでございます」
家令の説明になるほどと納得して、改めて指輪をつけたクリスだが、ふと三つの条件のうちひとつだけ聞き逃せないものがあって、形の良い眉をひそめた。
「『精霊の気を損ねるか』? つまり最初っから気に喰わない相手とは契約しないってこと? というか失敗したらいきなり不機嫌になって暴れたりしないの、それ?」
クリスの懸念を払拭するため、家令は懐から魔術師用の短杖を取り出して、さらにクリスの背後に控えていた数人の侍女に合図を送る。
それに合わせて、魔術触媒であるメダリオンや魔術杯を取り出して、規則的にクリスを囲んで陣を形成する侍女たち。
「ご心配なく。指輪に封印されている精霊は、たかだか二十六の眷属しか持たない中級下位~中位程度の力量とのこと。仮にも宮廷魔術師団プライム=イデア、元第二位であった某と、その薫陶を受け上級魔術を行使できる侍女五人が待機してありますので、万一の際には即座に潰す所存でございます」
王族の傍仕えや侍女ということは護衛も兼ねているのは当然ながら、せいぜい護身術程度を齧った平凡な家令と侍女たちだと思っていたクリスとしては、いまになって知れた周囲の者たちの意外なバックボーンに呆然とするのだった。
ちなみに精霊(地域によって魔物、妖怪、幻獣などと呼び名は変わる)の力量の目安としては、何体の眷属を使役しているかが同族同士のステータスになる。
あくまで目安であるが、最下級のコボルトやゴブリンなどの使役される側は単に『魔物』と呼ばれ、使役する眷属の数が十匹以下の精霊を下級。四十匹以下のモノを中級。百匹以下の眷属を持つものを上級精霊と呼称し、それ以上のものを魔王級と一括するが、上級でも人間界には滅多に現れないので、存在自体がお伽噺のようなものである。
そんな貴重な中級精霊を、暴れたら「即座に潰す」という剣呑な宣言に、軽い気持ちで問いかけたクリスは、あわあわと狼狽するのだった。
「いやいや、相性が合わないとか好き嫌いとかは誰でもあるので、そこでいきなり消滅させるとかいうのはいくら何でも乱暴すぎるんじゃないかなー。普通に再封印すればいい話だし……あれ、そうなったら誰が僕の護衛兼お目付け役になるのかな?」
必死に平和的解決を説得するクリスだが、そこでいまさらながら自分の言葉に「はて?」と首をひねる。
そのあたりの疑問も織り込み済みなのだろう。家令は平然とした様子でそれに答えた。
「万一の際のリザーブとして、陛下は一角獣を入手されております。精霊ではなく、単純な戦闘能力であれば“ドラゴンを除いた地上最強の生物”と呼ばれるほど強靭で、さらにその角には癒しの力があるのでこれに勝る護衛はいないかと。ただまあ……御することが並大抵の苦労でないのと、そんな目立つものを使役しているとなると、ただでさえ目立つクリス様がなおさら人目を引いて、気が気ではないという陛下の強い意向で、現在は厩舎に隔離しておりますが」
何しろ一角獣となれば、誰もが知っている処女厨である。
処女と美女大好き。
――男は近づくな蹴り飛ばすぞ! あー、聖女? 王女だあ? はン。なに清純ぶって触ろうとしてんだ、このクソ清楚淫売が、ペッ! 野郎のセーシ臭えんだよ、相当使い込んでるだろう、ボケッ。泣きまねしたって無駄だ。つーか、体液が全部臭え! マジでぶっ殺すぞ、あばずれっ、ヤリマンっ、尻軽っ、雌豚あぁぁぁぁっっっ!!!
と言ってはばからない最強級の幻獣。
それに横座りに騎乗している絶世の美少女となれば、「私、まったく男を知らない未通女でーす♪」と、のぼりを立てて笛太鼓を鳴らしながら練り歩くようなもので、安全と目立たないように手配した旅のはずが、本末転倒になること請け合いであった。
ついつい「クリスちゃんが純白の一角獣に白いドレスを着て座る姿とか絵になる!」と、衝動買いしたクラヴィス公王であったが、数日たって急遽手配された女性厩務員(十七歳処女)相手に、
『ねーちゃん、処女なのはいいけど、ちょっと芋っぽいな。俺様の審美眼的には、もうちょっと垢抜けた美少女が世話してくれると嬉しーんだけどよー』
一角獣が延々と愚痴をこぼしているのを物陰から覗き見て、コレをクリスちゃんに合わせるのはヤバい。と、いまさらながら冷静さを取り戻し、コイツの事は最初からなかったことにしたのだった。
「いや、一角獣なんてそもそも慣れるわけないでしょう。見た目はともかく、僕は男なんだから」
呆れたように肩をすくめたクリスの言葉に、
「左様でございますな」
感情の籠らない口調で相槌を打つ家令。
「ともあれまずは精霊を召喚してみるよ。えーと、血を一滴垂らすんだよね? じゃあ、そこの裁縫箱から針を持ってきて」
「……裁縫箱ですか」
指示に従ってメイドのひとりがクリス(姫時代から)愛用の裁縫箱を持ってくるのを眺めて、家令が微妙に当惑した表情になったのを見て取って、クリスの表情が陰る。
「う、うん。好きなんだけど……やっぱり男がレース編みとか、刺繍を趣味にしてるって変……かな?」
「左様でございますな。忌憚のない意見を言わせていただければ、一般的な男性の趣味とは――」
途端、クリスの肩が沈んだ。
「やっぱりそうかー。じゃあ、来週の爺への誕生日用に、こっそり刺繍していたポケットチーフは捨て」
「――全く問題がございません! 趣味は千差万別っ。刺繍、レース編み、大いに結構。むしろ他人の意見で主義主張をコロコロ変えるなど、男子にあるまじき軟弱さでございますぞ!」
即座に前言撤回する――その発言自体がすでに矛盾をはらんでいるが――家令の意見に、パッと花の咲いた様な笑顔を浮かべるクリス。
シラーっと冷めた眼差しを浮かべる侍女やメイド、護衛たちの視線も何のその、ニコニコと上機嫌な笑みを浮かべる家令の見ている前で、クリスは慣れた手つきで針を一本取り出すと、生活魔法の『点火』で軽く針先をあぶって消毒をした。
それから意を決して針先を左人差し指に突き立てようとして、プルプルと震えて躊躇う。
「おいっ、すぐに治療をできるように準備してあるか!? 出し惜しみせずにポーションは“蘇生薬”を使え!」
その様子を眺めながら、気が気でない様子の家令が指示を飛ばす。
なお、通常“蘇生薬”は大国であっても国の宝として、万が一の時のために一個か二個厳重に保管してあるのが常であるが、そこはルエーガー家。出し惜しみしなくても問題ない程度に常備してある上、事は《秘宝姫》の白魚のような指に針で突いた傷を治す……という大義名分があれば、使わなければ逆にクラヴィス公王が烈火のごとく怒り狂うことであろう。
ちなみに第一公王子や第二公王子が怪我をした場合には、「男なんだから唾つけときゃ治る」というスタンスであった。
「だ、大丈夫。てゆーか、“蘇生薬”とか大げさだよ。ちょっと指先にかすり傷をつけるくらいなんだから、“下級治療薬”で十分だって」
そう強がりを言うクリスの成長に、感無量といった面持ちで目頭を押さえる家令。
「ご立派でございますぞ、クリス様。出立を前にかように成長されたお姿を目の当たりにすることができるとは……。陛下はもとより天上界におわします亡き王妃陛下も、どれほどお喜びになられることか」
家令の過保護すぎる感慨に対して、気のせいか天上界からため息が聞こえた気がした。
「ふふふっ。『男子、三日会わざれば刮目して見よ』って言うからね。次に爺に会ったら、もっとビックリさせてあげるよ」
「三日と言わずに明日にもビックリして、ショック死するかも知れませんなぁ(クリス様が)」
調子に乗って――と言うか痛いのが嫌なので――喋って気を紛らわせながら、そんな軽口を叩くクリスと、朗らかにそれに応じる家令。
「と言っても変身薬を飲んで別人になるので、僕だと気づいてもらえないだろうけど……どんな風に変わるのかなぁ。個人的には騎士団長みたいに男らしくて、渋い顔立ちに憧れるんだけど」
「はっはっはっはっはっ、想像もできませんなー」
ふたりの噛み合っているようで根本的な部分が嚙み合っていない会話の途中で、
「――あ痛っ」
チクリと指先を刺して、浮かんだ血玉をクリスは大急ぎで指輪の金剛石に擦り付けた。
それと同時に阿吽の呼吸で、侍女が準備しておいた“蘇生薬”を惜しげもなくクリスの指先へとぶちまけ、一瞬でかすり傷はもとよりその余波で体調を万全にして――と言っても、ちょっとした肌荒れ、日焼け。剣の稽古でできた肉刺などだが――生まれたての赤子のような、無垢な肉体を取り戻す結果となった。
今後の事を考えて、ドサクサ紛れにこの三年間でクリスの肉体に刻まれた、深窓の令嬢にあるまじき痕跡をまっさらに消去できたことに(当然、クラヴィス公王の指示である)、内心で深く満足する家令。
一方、そんな周囲の余計なお世話の思惑などいざ知らず、クリス当人は指輪の変化に目を奪われていた。
血をつけた途端に指輪から膨大な魔力が噴き出し。やがてそれは白い半透明な風になり、室内にありながらグルグルと渦を巻いて、微風から疾風、旋風、そうしてちょっとした竜巻へと変化を重ねる。
ただし室内の調度品や天井などにはさほどの被害はなく、体感としても見た目ほど派手な風ではなく、高原で思いがけなく吹いてきた風で麦わら帽子が飛んでいく……程度の勢いにしか感じられない。
噴き出した風は今度はどんどんと収束をして、ほどなく人型を形づいていったかと思うと、一転して椅子に座ったままのクリスの前方、手を伸ばせば届く距離で実体を持った姿となって、うやうやしく一礼をするのだった。
「はじめまして、ご主人様。二十六の眷属を支配する風の女精霊ラファと申します。以後お見知りおきのほどを」
見た目は十六~十七歳ほどのうら若い女性である。褐色の肌に栗色の髪。砂漠の国の踊子が着る肌の露出が大きな衣装をまとった、快活そうな印象の女性――いや、女精霊である。
思ったより理知的で従順そうなその態度に、緊張していたクリスはほっと安堵の吐息を放ち、護衛を兼ねた家令たちも、密かに警戒度を一段階下げた。
「あ……ええと、よろしく。僕はクリス。クリストファ・エイヴェリー・ルエーガー」
クリスも椅子から立ち上がって自己紹介をする。
その途端、面食らったような表情でラファと名乗った女精霊が顔を上げて、クリスの顔から全身をまじまじと凝視した。
「クリストファ? あれ? クリスティーナ様では……ああ、そうか、まだ薬」
合点がいった顔で、何やら言いかけたラファの言葉を遮って、
「封印開始! 連鎖稼働様式『黒の小瓶』詠唱開始! 最悪、消滅させても構わん!!」
「「「「――はっ!!!」」」」
家令の気合の入った声に応えて、魔術侍女たちの魔力がほとばしる。
「オー・イー・ペー テー・アー・アー ぺー・ドー・ケイ 来たれ南方を守りし天使たちよ」
「エム・ペー・ヘイ アル・エス・エル ガー・イー・オー・レー 来たれ西方を守りし天使たちよ」
「オー・ロー イー・バー・ヘイ アー・オー・ゾド・ペイ 来たれ東方を守りし天使たちよ」
「エム・オー・エル ディー・アー・レー へー・ケー・テー・ガー 来たれ北方を守りし天使たちよ」
完全に包囲されたラファに向けて、最後に家令が厳かに封印の魔術を放った。
「イクス・アール・ペイ ベイ・イー・トー・マー ヘイ・コー・マー エン・アー・エン・ター 生命の聖霊の神聖なる力よ、この邪悪なる悪霊を」
「きゃあああああああっ! なんでぇ!?! いや~っ、助けて~~っっっ!!!」
自らの舌禍が引き起こした自業自得と周りの過剰反応とも知らず、無理やり地獄の底まで再封印されようとしているラファの悲痛な――涙と鼻水混じりの――悲鳴が響き渡り、展開の唐突さに呆然と目の前の惨劇を傍観していたクリスだが、『女性の悲鳴=紳士として助けなければ』という義務感から我に返って、慌てて封印を止めに入るのだった。
本文に書かれている通り、本来ヨーロッパにおいて銀と金の宝飾品を持てるのは聖職者と王侯貴族だけに限られていました(プラチナは当時分離できなかった)。ナーロッパは知らんけど。
あと貴石と半貴石の区別は曖昧で、場所によっては半貴石を貴石扱いするところもありますが、ルビー、サファイア、エメラルドの御三家は別格であったのは変わりません。
宝石言葉によるゲン担ぎと護符の意味合いがあったので、ジャラジャラと何種類も指輪をするのは下品とされていました。
なのでプレゼントをする場合は、そこら辺を間違えるととんでもないことになります(なおダイアモンドはブリリアントカットが編み出されるまで、ほぼ無価値でまだしもガラス指輪の方が高価だったので、貴族が贈るとか本来はあり得ないのですけど……う~~む)。
それとファンタジー世界であるのでミスリルとかもありますが、それは銀に含まれるということで、庶民や冒険者が使うことはできません(騎士ならOK)。
アダマンタイトやオリハルコンは、宝飾品に細工できないので剣や盾、鎧として王侯貴族が管理するという形で、こちらも民間人である冒険者が所持するのは違法となっている設定です。
※なお、なろうのパターンでちょいちょい自称神が出てきますけど、仮に心霊現象の類に遭遇して「偉大なる聖霊エロヒムである」「我は○○○皇之大神であるぞ」と、やたら大仰な神を自称する存在がいたら、それは間違いなく狐狸妖怪悪霊の類なので、絶対に信用せずに聞く耳を持たないようにしてください(マジで触らぬ神に祟りなし)。
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