蒼の王
マレヌ湖までは、通常なら、徒歩で30分もかからない。
しかし、それは昼間、日常生活で移動する範囲内の時間で、である。
夜、しかもこれだけぬかるんだ道を行く事は、水妖といえど容易ではない。何度も足を取られ、転びかける。
昼夜問わず、何度もこの道を通った事のあるキールでさえ、慎重にならざるをえない。それでも、足は止めない。夜道をひた走る。
だが、とうとう水妖の一人が転んだ。キールは振り返る。
「大丈夫か?」
「構わないで頂戴」
女はつっけんどんに言い返す。
色々事情が重なって、先ほどまで全く気付かなかったが。どうやら妹の方は、相当な人間嫌いらしい。
姉は眉を顰める。
「エークリューデ。そんな言い方はないでしょう?」
「お姉さま。私達がこんな目に遭っているのは、誰のせいだと思っていらっしゃるの?全部人間のせいじゃない」
「この方のせいではないでしょう?」
「人間なんて、皆同じですわ」
彼女の言い分に、キールは皮肉めいた笑みを浮かべる。
エークリューデは、それに気付いた。不快そうな表情を浮かべる。
「何ですの?私を馬鹿にするように…半人のクセに」
「エークリューデ!」
アーティスウェラが怒鳴った。しかし、妹はツンと顔を背けるばかりだ。
なおも何かを言おうとする彼女を、キールは止めた。
「構わん。気にするな」
「ですが」
「ルイスと同じ事を言っていたから、可笑しくなっただけだ」
キールの答えもまた、冷ややかである。
エークリューデの顔が引き攣った。アーティスウェラが「ほら、御覧なさい」と言わんばかりの、盛大な溜息を吐く。
キールは、若干歩調を緩めた。まだ、湖までは大分距離がある。
急がなくてはいけないのは重々承知だが、さすがに疲れてきた。
「あの人は元気?」
気まずい沈黙の中、突然キールが訊ねた。
アーティスウェラは、ほんの少し、目を丸くする。それはすぐに、優美な微笑みに変わった。
「ええ。あの父に対抗できるのは、グウィンディスお姉様だけではないでしょうか」
「そう」
キールは短く応え、それきり、再び黙り込もうとした。
しかし、今度はアーティスウェラが訊ねる。
「キール…と呼ばれていましたね。それが今のお名前ですか?」
「今も昔も。人はそう呼ぶ」
「では、ガーティアーラというのは、どなたのお名前ですか?」
キールは一つ、呼吸を吐いた。やや間を置いて答える。
「それも僕の名だ。キール・ガーティアーラ・レナンド=ファルナ・バウムガートナーが正式名だ」
やたら長くて、大抵の人は辟易する。
公式の場でない限り、本当に「氏名」しか名乗らない。本人も面倒なのだ。
長い名前が当然の水妖と、出来れば簡潔に述べたい人間との温度差を縮めるには、こうするより他ない。
アーティスウェラは微笑んだ。
「大事になさっているのですね」
キールは眉を顰める。僅かに振り返り、それから息を吐き出した。
まさか、そんな事を言われるとは思っても見なかったのだろう。微かだが、苦々しい表情を浮かべている。
それきり、キールも水妖たちも、本当に黙ってしまった。
沈黙を保ったまま、やがて、森の道を抜ける。
道が開ければ、湖も見えた。雨は止み、雲の切れ間から、月が顔を覗かせている。
キールはほっと、息を吐く。月を背に、彼は振り返った。
「ここまで来れば、後は自分たちで帰れるだろう」
「はい」
アーティスウェラは、丁寧に頭を下げた。妹の方は、相変わらずの態度だ。
月が翳る。その瞬間、辺りに水の気配が充満した。
三人の表情が急変する。
まるで、水の中にいるような……
蒼い世界が、一面に広がった。
キールの全身が粟立つ。
この光景を、彼は知っている。小さな頃の、忌まわしい記憶。
彼の世界が崩壊した時の、全てを奪われた時の、あの光景。
「探したぞ。アーティスウェラ、エークリューデ……」
低い声が、キールのすぐ後から聞こえた。飛びずさる。
声の主は、不気味な笑みを浮かべている。
「…久しいな、ガーティアーラ」
キールは何も言わなかった。ただ、突き刺すような目で、現れた人物を睨んでいる。
背後には、多くの水魔達を従えている。
エークリューデが、真っ先にその人物に駆け寄った。
「お父様!」
「あぁ、よしよし。無事だったか、可愛い娘よ」
長い衣が、彼女を包み込む。
キールから、唸るような声が漏れた。
「水妖の王……」
優しい笑みは、そのままキールにも向けられる。
しかし、どこか空虚で曖昧な笑みに、キールは身を竦ませた。恐怖だけが募る。表面だけでも普通の装うのは、並大抵な事ではなかった。
「…つれないな、ガーティアーラ。お前は私の、唯一の孫だというのに」
「ふざけるな。お前は父の仇だ」
「まだあんな人間を想うか。愚かな事を……」
エークリューデを後ろに下がらせ、水妖の王はキールに近付く。
彼は銃に手を掛けた。銃口を王に向ける。
王は僅かに目を見張った。それから嘲るような笑みを浮かべる。
「撃てるか?私を」
「撃つだけならな」
子供の頃とは違う。確実に当てるだけの腕は、磨いてきたつもりだ。
しかし、当たればいいというものではない事も、今は解っている。
妖魔族に、人の武器は効き難い。当たっても、すぐに回復されてしまう。
一撃で殺せねば、意味がない。弾の無駄遣いである。
キールに緊張が走る。一方水妖の王は、余裕たっぷりに、そこに佇んでいた。
そんな二人の間に、アーティスウェラが割り込んだ。キールを背に、父に向う。
「アーティスウェラ?どうしたのだ?」
「お、お父様…この子には、て、手を出さないと…お姉さまと約束なさって……」
声は震えていた。表情も強張っている。
王が、更に一歩踏み出す。
彼女はびくりと、身を竦ませた。
「そなたは姉思いだな、アーティスウェラ」
白々しく聞こえる台詞を吐きながら、王は彼女を捕らえた。
小さな水檻がアーティスウェラを囲む。それは水の中を漂うように、空中へ浮き上がった。
檻の中で、彼女は悲しげにキールを見る。目が合うと、小さく首を振った。
キールには、彼女を助け出す力はない。もともと、この王の許に返すつもりだったのだ。助ける意味もない。
しかし、その姿は痛々しく、最後に見た母を思い起こさせる。
「ガーティアーラ」
王は呼んだ。手を差し伸べる。
「私の許へ戻っておいで。こんな地上に、まだ、何の未練があるというのだ?」
「僕は人間だ。たとえ半妖でも」
死んでも、お前なんかのところに行きたくない。
その言葉だけは飲み込んだ。この男を刺激しても、彼のためにならない。
殺してやりたい衝動は消えないが、それ以上に、護らねばならぬ者の存在が大きい。
水妖の王は小さく息を吐き出した。
「困ったものだ…お前といい、お前の母といい……私をいつも、困らせる」
そして、彼に背を向ける。
キールは銃を下ろした。しかし、引き金からは手を外さない。
「一つ、聞きたい」
感情を押し殺した声で、彼は言った。
水妖の王が足を止める。不気味な静寂が、辺りを包んでいた。
鼓動が早鐘を打つのを感じる。銃を握る手にも、汗をかいていた。
「ある人間が、妹を水妖に殺されたと言っていた…知っているか?」
ルイスを弁護するつもりはない。
かといって、水妖を擁護するつもりもない。
だが、事実を曖昧にしておくのも、あの昔馴染に忍びなかった。
聞くだけ聞いて、知らないと言われれば、それまでにするつもりだった。そんな醜聞を、口に出すような相手ではないと、高を括っていたのだろう。
または、こんな人物だがそこまではしないだろうという、僅かな良心を信じていたのかもしれない。
しかし、それはあっという間に崩された。
「人間の娘か…あれは近年稀に見る、良い余興であったな」
キールは、目の前が暗くなるのを感じた。
何と言って説明すればよいのだろう。聞かなければ良かったと、激しく後悔しても、もう遅い。
銃声が鳴り響く。鋭い弾道は、氷の幕に弾かれた。
それは、キールが撃ったものではない。肝の冷える思いで森に目を向ける。
居て欲しくなかった者が、そこにいる。彼は泥まみれで、酷い格好だった。
「貴様が…妹を……」
掠れた声が漏れる。
どうやって奪い返したのか、手には蛇の装飾が施された銃があった。
水妖の王が、怪訝そうな目を向ける。
エークリューデが甲高い声を上げた。
「あの人間!お父様、私達を攫ったのは、あの者ですわ!!」
緊迫した空気が弾ける。
辺りの水気が、一気に収縮を始めた。キールは大地を蹴った。
ただの水が集まり、凝縮され、恐ろしい武器に変わる。砲弾より巨大で、勢いのある塊がルイスに襲い掛かった。
巨大な水塊が、ルイスの目前に迫った。
しかし、それは彼に届く事はなかった。目前で散じ、水滴が辺りに散る。
ルイスはただ、眼を見張る。彼の前には、キールが居る。
「…阿呆が……」
キールは弱々しく呟くと、そのまま地面に膝をついた。
慌てて駆け寄り、助け起こす。彼は酷く呼吸を乱している。
「言っただろう?奴は優しくないと……」
「キール、お前…!」
ルイスは、音もなく近付く気配を感じた。再び銃を構える。
水妖の王が、すぐそこまで迫っていた。その顔には、何の表情も見出せない。
だが、気配でわかる。
隠し様のない、殺気。静の中に秘められた、憤怒を。
「狂王め…」
キールは嘲笑と共に、低く呟いた。
水妖の王が、冷ややかに彼を見下ろした。
「何故庇う?」
「…元凶は、お前だからだ」
水妖の王が、手を払った。キールの頬に、赤い筋が走る。
王の表情が、僅かに揺れた。
「我の物は、我の物だ。人間如きが触れていいものではない!」
一喝と共に、辺りの大気が震える。蒼い世界が、更に暗さを増す。
キールは囁いた。
「逃げろ…ここは僕が抑える」
「そんな事出来るかっ」
「お前まで無駄死にする事はない」
「お前が死んでも、俺の後味が悪いだけだろうが」
ルイスは、頭は悪いが、根っからの悪人と言うわけではなかった。
親の権力を、さも自分の物というように振り回し、大口を叩いてはお家自慢を繰り返す。
そんな奴でも、本当に嫌う者がいなかったのは、意外と人情に厚いからだ。
取り巻きは大事にするし、慕ってくる者を無碍にする事もない。そんなところはキールでさえ一目置いている。
が、今はこんな事をいっている場合ではない。
一応…仮にもキールは、水妖の血縁だ。半人ではあるが、それなりに気にかけられている。怒らせはしたが、助かる可能性もある。
「いいから行け。オルグが、何の為にお前を庇ったと思ってるんだ?」
「お前まで死なせたら、それこそアイツに合わせる顔がない」
頑なな態度に、キールは息を吐いた。こうなっては、説得するだけ無駄である。
キールは、よろめきながらも立ち上がった。
「昔から…お前に関わると、ロクな事がない」
「はっ!その台詞、そっくりそのまま返してやる!」
双方が、銃口を水妖の王へ向ける。
ルイスは口元に笑みを浮かべた。皮肉でも、嘲りでもない。挑発的な笑みだ。
「勝ち目は?」
「ないこともない」
キールの心もとない返事に、ルイスは苦笑した。
水妖の王の手が動く。控えていた水魔たちが、一斉に襲い掛かってきた。
「おいおい…」
「すまん、ルイス。やはり無いかもしれん」
「マジかよ!」
あっさり覆った言葉に、ルイスは怒鳴った。
キールの想定の中に、この水魔たちは入っていなかったのだ。あくまで、王個人に対しての対策である。
全身の力が抜けそうになる中、キールは水の防壁を張った。半人であっても、水妖の血を引く以上、これくらいは出来る。
出来るが、王の一撃を防ぎ、既に体は悲鳴を上げている。長くは持たない。
ルイスが銃を撃つ。防壁は、外からの攻撃は通さない。半面、中からは容易に攻撃できる。
何人かが倒れたが、それでもまだ、数は多い。弾も有限である。
そんな時である。
森の中から、高い声が響いた。
「先生!」
キールの表情が強張る。そんな心の動揺が、水の防壁にも伝わった。
水が揺らぐ。
「キール!」
水弾がキールに直撃した。鎖骨を砕き、貫通する。赤い雫が飛び散った。
そのまま倒れこむ。
だが、再び防壁を張りなおす。ここで死ぬわけにはいかない。その一心からだ。
「先生!!」
悲鳴に近い叫びが聞こえる。
金色の姿が見えた。大きな目に、涙をいっぱい浮かべている。
「待っていろと…言ったはず、だぞ……」
プライムが駆け寄ってくる。倒れた彼の傍に膝をついた。小さな手が、キールに触れる。
「先生?先生!?」
もう、呼びかけには反応しなかった。
彼女は顔の前に手をかざした。息はある。脈もちゃんとしている。まだ、生きている。
「アホか、チビ!さっさと戻れ!!」
ルイスの怒鳴り声も、今のプライムには届いていない。
彼女はギュッと唇を噛む。
蒼い世界が揺らいだ。風がそよぐ。
ルイスは彼女の方に視線を移した。ギョッとして、息を呑む。
蒼い世界が崩れ始めていた。彼女の周りだけ。金色の光が、彼女を取り巻いている。
水魔たちも、その光に気付き始めた。怖気づいたのか、若干逃げ腰になっている。
プライムが立ち上がった。水魔の群れに目を向ける。
彼らはぎくりとした。
ルイスでさえ例外ではない。自分に向いているのではないと解っていても、その敵意に圧倒されそうになる。
少女の足が、軽く地を蹴る。
彼女が水壁を出たのと、半分以上の水魔が倒れたのは、ほぼ同時であった。
少なくとも、ルイスの目には、そう映っていた。