王都から来た監査官
昼過ぎ、街の門前に黒塗りの馬車が止まった。
車輪が乾いた土を噛み、二頭の馬が低く嘶く。水路の修復に集まっていた住民たちは、手を止めて一斉に振り返った。馬車の扉には王家の紋章、その下には記録院の銀印が刻まれている。
ユアンは倉庫裏から歩いてきた。隣にはリゼットがいる。
馬車から降りた男は、長い外套の襟を整えながら街を見渡した。年齢は四十前後。細い口元に笑みを浮かべているが、目だけは冷たかった。
「辺境都市エルデンの代官、ユアン・グレイか」
「そうだ」
「王都監査院より派遣された、ヴァルド・エゼル。復旧事業と交易記録の監査を行う」
ヴァルドは懐から封蝋の施された書状を取り出し、ユアンへ差し出した。
「それと、こちらにいる女性についても確認したい」
視線がリゼットへ移る。
「リゼット・アルネ。王都記録院の元記録官だな」
住民たちの間に、小さなざわめきが広がった。
リゼットは背筋を伸ばした。
「元、という言葉に異議はありません」
「記録院を追放された理由は、交易記録の偽造だったはずだ」
「偽造したと認定された理由なら、私の署名が残っていたからです」
「つまり、罪を否定していない」
「署名した事実は否定していません。偽造した事実は否定しています」
ヴァルドの笑みがわずかに深くなった。
「言葉遊びは結構。問題は、追放された者がなぜこの街の公的な調査に関わっているかだ」
ユアンが書状を開いた。目を走らせると、表情が硬くなる。
「監査院は、復旧事業の一時停止を命じている」
「不正な記録に基づく工事を続けるわけにはいかない」
「水路はようやく流れ始めた。止めれば住民の生活が――」
「生活を理由に証拠を隠すつもりか?」
ヴァルドの声が、門前に響いた。
「この都市の税収が消えた原因は、帳簿を改竄した者と、それを見抜けなかった者にある。王都はすでに損害を把握している。君が勝手に復旧事業を進めれば、責任はさらに重くなるぞ」
ユアンは書状を折りたたんだ。
「調査が終わるまで、俺の権限で必要な作業は続ける」
「君の権限?」
ヴァルドは冷笑した。
「王都の監査官が来た時点で、地方代官の判断は監査対象だ。逆らえば、職務停止もあり得る」
住民たちの間から息を呑む音が上がった。
リゼットはヴァルドの声に耳を澄ませた。音に残る記憶は、言葉そのものではなく、触れた場所や使われた道具に宿る。声から過去を読むことはできない。それでも、話し方の奥に何かを探ろうとした。
ヴァルドが書状を持つ指に力を込める。
紙が、かすかに軋んだ。
その音がリゼットの中で反響した。
封蝋。上質な羊皮紙。何度も折り直された跡。だが、そこに残るのは王都の書記官が筆を走らせた音だけだった。監査命令そのものの記憶は、薄い。意図的に音を消す処理が施されているのかもしれない。
リゼットは眉を寄せた。
「その書状を、私にも見せてください」
「なぜ?」
「確認したいことがあります」
「君に確認する権限はない」
「では、代官に」
ヴァルドは書状をユアンの手から取り上げた。
「この都市の問題は、君が音を聞けば解決するものではない。むしろ、君のような能力に頼った者たちが、存在しない鐘や夜間搬出の話をでっち上げ、王都へ誤った報告を送ったのではないか?」
住民たちがざわめいた。
「存在しない鐘って何だ」
「この人が偽造犯だという話か?」
リゼットの胸が締めつけられた。
追放された日の鐘。存在しない鐘を記録した罪。王都で何度も浴びせられた言葉が、乾いた風に乗って戻ってくる。
ユアンが一歩前へ出た。
「彼女の調査記録は、俺が確認している」
「君も共犯だと言われたいのか」
「脅しているつもりか」
「忠告だ。復旧工事を止め、リゼット・アルネを王都へ引き渡せ。そうすれば、君の過失については軽く扱える」
その瞬間、リゼットはユアンの腕を掴んだ。
「待ってください」
ユアンが振り返る。
「彼は私を連れて行きたいのではありません。工事を止めたいのです」
「根拠は?」
「水路が流れ始めたから」
リゼットはヴァルドを見た。
「これまで王都は、この街の水路が枯れていることを知っていた。それなのに修復費も調査官も寄こさなかった。私たちが水門図を見つけ、住民と工事を始めた途端、あなたが来た」
「偶然だ」
「偶然なら、なぜ復旧事業そのものを止めるのですか」
「不正の疑いがあるからだ」
「疑いを晴らすための監査なら、工事を監視すればいい。止める必要はありません」
ヴァルドの笑みが消えた。
「口が達者になったな。追放された記録官とは思えない」
「追放されたからこそ、記録の扱われ方を知っています」
リゼットの声は震えていた。だが、言葉は途切れなかった。
「証拠を調べる前に人を罪人にするなら、それは監査ではありません。結論に合わせて記録を使うだけです」
沈黙が落ちた。
水路の方から、細い水音が聞こえてくる。昨日までなら聞き逃していたほどの小さな流れだった。それでも今は、街全体がその音を聞いていた。
ヴァルドは住民たちを見渡した。
「明朝までに、工事を中止しろ。従わない場合、代官の職務権限を停止する」
そう言い残し、彼は馬車へ戻った。
馬車が門を出ていく。砂煙が薄れるまで、誰も動かなかった。
「ユアン……」
リゼットが呼ぶと、彼は書状を握ったまま答えた。
「工事は続ける」
「職を失うかもしれません」
「わかっている」
「私を王都へ引き渡せば、あなたは助かるかもしれない」
「それも、わかっている」
ユアンは彼女を見た。
「だからといって、君を渡す理由にはならない」
その言葉に、リゼットは息を詰めた。
「私は、守られるだけの人ではありません」
「知っている」
「なら、私を理由にしないでください」
「理由にしているのは君ではない」
ユアンは水路の方へ目を向けた。
「この街を、また書類の中だけで殺させないためだ」
リゼットはしばらく黙っていた。
やがて、ヴァルドの馬車が残した轍へ視線を落とす。車輪の軋みの中に、奇妙な違和感があった。馬車には、王都の印以外に、どこかで聞いたことのある金具の鳴る音が混じっている。
倉庫の床下で聞いた、夜の搬出の音と同じだった。
「ユアン」
「何だ」
「監査官の馬車を、もう一度調べたいです」
「理由を聞こう」
「彼は、私の過去を知りすぎています。そして、あの馬車には……水門図の倉庫で聞いた音が残っていました」
ユアンは一瞬だけ目を細めた。
「なら、調べよう」
二人は門の外へ続く轍を見つめた。
王都から来た男は、街を救うためではなく、何かを止めるために現れた。
そしてリゼットは初めて、自分の過去を突きつけられた恐怖の中で、逃げずにその音を追うことを選んだ。




