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鐘の記憶を読む令嬢は、辺境都市で未来を鳴らす  作者: 銀細工ナギ


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7/20

王都から来た監査官

 昼過ぎ、街の門前に黒塗りの馬車が止まった。


 車輪が乾いた土を噛み、二頭の馬が低く嘶く。水路の修復に集まっていた住民たちは、手を止めて一斉に振り返った。馬車の扉には王家の紋章、その下には記録院の銀印が刻まれている。


 ユアンは倉庫裏から歩いてきた。隣にはリゼットがいる。


 馬車から降りた男は、長い外套の襟を整えながら街を見渡した。年齢は四十前後。細い口元に笑みを浮かべているが、目だけは冷たかった。


「辺境都市エルデンの代官、ユアン・グレイか」


「そうだ」


「王都監査院より派遣された、ヴァルド・エゼル。復旧事業と交易記録の監査を行う」


 ヴァルドは懐から封蝋の施された書状を取り出し、ユアンへ差し出した。


「それと、こちらにいる女性についても確認したい」


 視線がリゼットへ移る。


「リゼット・アルネ。王都記録院の元記録官だな」


 住民たちの間に、小さなざわめきが広がった。


 リゼットは背筋を伸ばした。


「元、という言葉に異議はありません」


「記録院を追放された理由は、交易記録の偽造だったはずだ」


「偽造したと認定された理由なら、私の署名が残っていたからです」


「つまり、罪を否定していない」


「署名した事実は否定していません。偽造した事実は否定しています」


 ヴァルドの笑みがわずかに深くなった。


「言葉遊びは結構。問題は、追放された者がなぜこの街の公的な調査に関わっているかだ」


 ユアンが書状を開いた。目を走らせると、表情が硬くなる。


「監査院は、復旧事業の一時停止を命じている」


「不正な記録に基づく工事を続けるわけにはいかない」


「水路はようやく流れ始めた。止めれば住民の生活が――」


「生活を理由に証拠を隠すつもりか?」


 ヴァルドの声が、門前に響いた。


「この都市の税収が消えた原因は、帳簿を改竄した者と、それを見抜けなかった者にある。王都はすでに損害を把握している。君が勝手に復旧事業を進めれば、責任はさらに重くなるぞ」


 ユアンは書状を折りたたんだ。


「調査が終わるまで、俺の権限で必要な作業は続ける」


「君の権限?」


 ヴァルドは冷笑した。


「王都の監査官が来た時点で、地方代官の判断は監査対象だ。逆らえば、職務停止もあり得る」


 住民たちの間から息を呑む音が上がった。


 リゼットはヴァルドの声に耳を澄ませた。音に残る記憶は、言葉そのものではなく、触れた場所や使われた道具に宿る。声から過去を読むことはできない。それでも、話し方の奥に何かを探ろうとした。


 ヴァルドが書状を持つ指に力を込める。


 紙が、かすかに軋んだ。


 その音がリゼットの中で反響した。


 封蝋。上質な羊皮紙。何度も折り直された跡。だが、そこに残るのは王都の書記官が筆を走らせた音だけだった。監査命令そのものの記憶は、薄い。意図的に音を消す処理が施されているのかもしれない。


 リゼットは眉を寄せた。


「その書状を、私にも見せてください」


「なぜ?」


「確認したいことがあります」


「君に確認する権限はない」


「では、代官に」


 ヴァルドは書状をユアンの手から取り上げた。


「この都市の問題は、君が音を聞けば解決するものではない。むしろ、君のような能力に頼った者たちが、存在しない鐘や夜間搬出の話をでっち上げ、王都へ誤った報告を送ったのではないか?」


 住民たちがざわめいた。


「存在しない鐘って何だ」


「この人が偽造犯だという話か?」


 リゼットの胸が締めつけられた。


 追放された日の鐘。存在しない鐘を記録した罪。王都で何度も浴びせられた言葉が、乾いた風に乗って戻ってくる。


 ユアンが一歩前へ出た。


「彼女の調査記録は、俺が確認している」


「君も共犯だと言われたいのか」


「脅しているつもりか」


「忠告だ。復旧工事を止め、リゼット・アルネを王都へ引き渡せ。そうすれば、君の過失については軽く扱える」


 その瞬間、リゼットはユアンの腕を掴んだ。


「待ってください」


 ユアンが振り返る。


「彼は私を連れて行きたいのではありません。工事を止めたいのです」


「根拠は?」


「水路が流れ始めたから」


 リゼットはヴァルドを見た。


「これまで王都は、この街の水路が枯れていることを知っていた。それなのに修復費も調査官も寄こさなかった。私たちが水門図を見つけ、住民と工事を始めた途端、あなたが来た」


「偶然だ」


「偶然なら、なぜ復旧事業そのものを止めるのですか」


「不正の疑いがあるからだ」


「疑いを晴らすための監査なら、工事を監視すればいい。止める必要はありません」


 ヴァルドの笑みが消えた。


「口が達者になったな。追放された記録官とは思えない」


「追放されたからこそ、記録の扱われ方を知っています」


 リゼットの声は震えていた。だが、言葉は途切れなかった。


「証拠を調べる前に人を罪人にするなら、それは監査ではありません。結論に合わせて記録を使うだけです」


 沈黙が落ちた。


 水路の方から、細い水音が聞こえてくる。昨日までなら聞き逃していたほどの小さな流れだった。それでも今は、街全体がその音を聞いていた。


 ヴァルドは住民たちを見渡した。


「明朝までに、工事を中止しろ。従わない場合、代官の職務権限を停止する」


 そう言い残し、彼は馬車へ戻った。


 馬車が門を出ていく。砂煙が薄れるまで、誰も動かなかった。


「ユアン……」


 リゼットが呼ぶと、彼は書状を握ったまま答えた。


「工事は続ける」


「職を失うかもしれません」


「わかっている」


「私を王都へ引き渡せば、あなたは助かるかもしれない」


「それも、わかっている」


 ユアンは彼女を見た。


「だからといって、君を渡す理由にはならない」


 その言葉に、リゼットは息を詰めた。


「私は、守られるだけの人ではありません」


「知っている」


「なら、私を理由にしないでください」


「理由にしているのは君ではない」


 ユアンは水路の方へ目を向けた。


「この街を、また書類の中だけで殺させないためだ」


 リゼットはしばらく黙っていた。


 やがて、ヴァルドの馬車が残した轍へ視線を落とす。車輪の軋みの中に、奇妙な違和感があった。馬車には、王都の印以外に、どこかで聞いたことのある金具の鳴る音が混じっている。


 倉庫の床下で聞いた、夜の搬出の音と同じだった。


「ユアン」


「何だ」


「監査官の馬車を、もう一度調べたいです」


「理由を聞こう」


「彼は、私の過去を知りすぎています。そして、あの馬車には……水門図の倉庫で聞いた音が残っていました」


 ユアンは一瞬だけ目を細めた。


「なら、調べよう」


 二人は門の外へ続く轍を見つめた。


 王都から来た男は、街を救うためではなく、何かを止めるために現れた。


 そしてリゼットは初めて、自分の過去を突きつけられた恐怖の中で、逃げずにその音を追うことを選んだ。

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