署名した過去
水路に戻った最初の一滴は、翌朝には細い流れになっていた。
倉庫裏の石溝を伝い、濁りを残しながらも、街の中央へ向かっている。住民たちは交代で泥をさらい、子どもたちは水の行方を見届けようと、溝の脇を走り回っていた。
リゼットはその様子を眺めながら、書きかけの調査記録に目を落とした。
水門図の発見。夜間搬出の痕跡。地下水路の詰まり。そして、昨日の流木。
どれも都市の衰退に関係している。だが、記録に残された数字と、実際に流れた水の量は一致しなかった。誰かが水路を意図的に塞いだのなら、なぜそこまでして水を奪ったのか。交易路を変えるためか。それとも、もっと大きな計画があるのか。
「また眉間に皺を寄せている」
背後からユアンの声がした。
「あなたが昨日、私を足手まといと言ったせいです」
「まだ覚えているのか」
「記録する価値がありましたから」
リゼットが振り向くと、ユアンは二つの木杯を手に立っていた。中身は薄い薬草茶だった。彼は一つを彼女へ差し出す。
「頭痛は」
「少しだけ」
「少しなら働けると思うな」
「命令ですか」
「忠告だ」
「ずいぶん進歩しましたね」
ユアンは返事をせず、隣の石段へ腰を下ろした。街の朝は、昨日までとは違う音を立てていた。水の流れ、鍬が石を削る音、住民たちの話し声。止まっていた時計塔だけが、その輪の外に取り残されている。
リゼットは木杯を両手で包んだ。
「……話しておきたいことがあります」
ユアンが視線だけを向ける。
「調査に関することか」
「私自身に関することです」
言葉にした途端、胸の奥が重くなった。何年も閉じていた扉を、内側から開けようとしているようだった。
「私は、王都の記録院にいました。あなたも知っている通り、音に残った記憶を読み取る力を使って、古い文書や証書の真偽を確かめていました」
「ああ」
「私の師匠は、セルジュという人です。厳しい人でしたが、記録を守ることにかけては誰よりも誠実だと、私は信じていました」
薬草茶の表面が微かに揺れた。
「ある年、北方交易に関する帳簿を整理していたとき、師匠から一通の確認書を渡されました。すでに内容の確認は済んでいる。問題はないから署名しろ、と」
「君は署名したのか」
「はい」
答えはあまりにも簡単に出た。だからこそ、今も痛かった。
「文書には、複数の都市を経由する荷の一覧と、支払われた税の額が記されていました。私は師匠を信じていたし、確認書に添えられた印も正規のものに見えた。だから、署名しました」
「音は読まなかったのか」
「読めませんでした」
リゼットは指を握りしめた。
「紙に残った音は、書かれた人の感情や、触れたときの動きを伝えることがあります。でも、あの確認書は新しく作られた写しでした。何度も転記され、原本から遠ざけられていた。音は薄く、私は読み取れないと思った」
「それで、何が起きた」
「数か月後、帳簿の一部が偽造だと発覚しました。存在しない荷が記録され、税が消えていた。その確認書に、私の署名があった」
水路の音が、ひどく遠く聞こえた。
「師匠は、私が勝手に署名したと言いました。上役たちも、若い記録官が功を焦って改竄したのだと決めつけた。私は違うと訴えましたが、署名がある以上、言葉には何の価値もありませんでした」
ユアンは黙って聞いている。
「追放された日、私は時計塔の鐘を読みました。何百年もの時を刻んだ鐘なら、きっと真実を知っていると思った。でも、聞こえてきたのは、私が署名したときの羽ペンの音だけでした」
リゼットは笑おうとした。しかし、口元はうまく動かなかった。
「紙を擦る音。インクが落ちる音。師匠が隣で息をする音。その三つだけ。私は自分の手で罪を残したのだと思いました」
「今もそう思っているのか」
低い問いだった。
リゼットはしばらく答えられなかった。
「……わかりません。署名したのは私です。誰かに手を持たれたわけでもない。命令されたとはいえ、確認しなかった責任はあります」
「責任と罪は同じではない」
ユアンの言葉は静かだった。
「君は、疑うべきものを疑わなかった。それは失敗だ。だが、他人が仕組んだ不正まで君一人の罪にする理由にはならない」
「ずいぶん簡単に言いますね」
「簡単ではない。俺も似たような判断をしたことがある」
リゼットが顔を上げる。
ユアンは街の向こう、止まった時計塔を見ていた。
「前任の代官が残した報告を信じ、ここはまだ立て直せると王都へ報告した。実際には、倉庫の在庫も税収も報告より少なかった。俺は街を見ず、書類だけを見た。その結果、必要な援助が届かなかった」
「それを、あなたの罪だと思っているのですか」
「少なくとも、俺の責任だ」
「では、私と同じではありません」
「違うな」
ユアンは木杯を石段に置いた。
「君は、誰かに押しつけられた署名を抱えてここまで来た。俺は、自分の判断の遅さを抱えてここに来た。だが、どちらも過去を変えるためではなく、同じことを繰り返さないために使える」
その言葉は、慰めとは違った。だからリゼットの胸に残った。
「あなたは、私が真実を探す理由を聞かないのですね」
「聞いている」
「理由を?」
「今、聞いた」
ユアンは彼女を見た。
「君は、自分が無実だと証明したいのか。それとも、同じ仕組みで誰かが傷つくのを止めたいのか」
リゼットは水路へ目を向けた。
濁った流れの中に、朝の光が細く揺れている。署名した過去は消えない。紙に残った傷も、追放された日の鐘の音も、なかったことにはできない。
それでも、あの記録が誰かの手で作り替えられたのなら、確かめたい。
「両方です」
彼女は答えた。
「私は、自分の署名から逃げたくありません。でも、あれを利用した人間を見逃したくもない。私の過去が、別の街を沈めるために使われるなら……今度は、見ないふりをしません」
ユアンはしばらく黙っていた。
やがて、石段から立ち上がる。
「なら、調べよう」
「簡単に言いますね」
「簡単ではないと言っただろう」
彼は水路の先へ歩き出した。
「ただ、君一人で背負う必要はない」
リゼットはその背中を見つめた。
誰かに守られることを望んでいるわけではない。けれど、隣を歩く人がいることは、思っていたよりも心強かった。
彼女は木杯を置き、ユアンの後を追った。
止まった時計塔の下で、過去から逃げるためではなく、過去に署名した自分自身を連れて、真実へ向かうために。




