街に戻る最初の一滴
地下水路の壁が、二度目に震えた。
天井から細かな砂が落ち、灯りの火が細く揺れる。リゼットは咄嗟に身をかがめた。ユアンが彼女の肩を引き寄せた直後、頭上で何かが砕け、石片が足元に散らばった。
「止まって!」
リゼットは壁へ手をついた。
押し寄せる水の音。その流れに、別の音が絡んでいる。木の枝が石に引っかかり、泥が水路を塞いでいる音だ。誰かが水門を操作したのではない。上流から流れ込んだ瓦礫が、古い分岐を塞いでいる。
「水門を閉める必要はありません。詰まりを抜けば、圧力が逃げます」
「どこだ」
「この先です。階段を上がったところに、横穴があるはず」
ユアンは迷わず進んだ。水はすでに靴底を覆い、歩くたびに冷たさが足首を刺した。やがて道が二つに分かれる。片方は水の音が強く、もう片方はほとんど何も聞こえない。
「右です」
「音がない方か」
「塞がっているからです」
ユアンが剣の柄で壁を叩く。返ってきた音は鈍かった。中に空間がある。彼は周囲を見回し、積み上げられた石の一つに手をかけた。
「下がっていろ」
「一人では無理です」
「君は頭痛がある」
「あなたも腕が一本しかありません」
ユアンは一瞬、呆れたように目を細めた。けれど反論はせず、二人で石を押した。
石が動くと、濁った水が隙間から噴き出した。勢いに押され、リゼットは足を取られる。ユアンが腕をつかんだが、彼自身も壁へ背を打ちつけた。
「大丈夫ですか」
「君に聞くことだ」
「質問を質問で返さないでください」
「なら、大丈夫だ」
そのとき、上の方から声が聞こえた。
「ユアン様!」
少年の声だった。
「リゼットさん、そこにいるの?」
「トマ?」
暗い階段の上から、トマと数人の子どもたちが顔を出した。手には縄や木の棒、古い鍋まで抱えている。
「来るな!」
ユアンが怒鳴る。
子どもたちはびくりとしたが、トマだけは階段を下りてきた。
「水が止まったままだから、みんなで詰まりを探してたんだ。裏の排水溝に、木と泥がいっぱい詰まってる。これを抜けばいいんでしょう?」
リゼットは耳を澄ました。
上流から流れてくる水が、途中で何度も跳ね返っている。排水溝の出口が塞がれ、地下へ逆流しているのだ。
「そうです。けれど、ここからでは届きません」
「なら、上から引っ張ればいい」
トマは縄を持ち上げた。
ユアンが眉をひそめる。
「危険だ」
「大人の人たちは、怖がって誰も来なかった」
「だから子どもが来ていい理由にはならない」
「でも、街の水がなくなったら、ぼくらも困る」
言葉に詰まったユアンの横で、リゼットは水路の奥を見た。瓦礫の向こうに、細い隙間がある。詰まりの中心には大きな流木が挟まっていた。
「トマ、縄をその流木に結べますか」
「やってみる」
「私が指示します。音を聞けば、どこに引っかかっているかわかる」
「君までやるのか」
ユアンの声に、先ほどとは違う心配が混じった。
「私がここにいる方が、抜く場所を間違えません」
「……わかった。ただし、無理だと思ったらすぐ離れろ」
「あなたもです」
子どもたちは階段の上へ戻り、縄の端を持った。リゼットは濁流の中へ膝をつき、流木の位置を探る。冷たい水が服の中まで染み込んだ。
「少し左!」
トマたちが縄を引く。
流木は動かなかった。
「もっと右へ。ユアン、下の石をどけてください」
ユアンが水に手を入れ、石を一つずつ取り除く。指先から血がにじんでも、彼は顔を上げなかった。
「今です!」
全員が力を込めた。
ぎしり、と木が鳴った。
次の瞬間、堰き止められていた水が一気に流れ出した。子どもたちの足元を濁流が走り、ユアンがリゼットの腰を抱えて引き寄せる。流木が水路の奥へ滑り、暗闇の向こうで何度も壁にぶつかった。
やがて、水の音が変わった。
重く淀んだ唸りから、細く澄んだ流れへ。
街の底に、道が戻った音だった。
地上へ出ると、倉庫裏の排水溝から水があふれ出していた。茶色く濁ってはいたが、乾ききった石の上を確かに流れている。
誰かが歓声を上げた。
集まってきた住民たちは、最初は信じられない様子で水を見つめ、やがて手を伸ばした。子どもたちは泥だらけの顔で笑い、トマは誇らしげに胸を張った。
「飲める水ではありません」
リゼットが言うと、近くの女がうなずいた。
「それでも、流れる水を見るのは久しぶりだよ」
別の男が、ユアンへ頭を下げる。
「代官様、ありがとうございます」
ユアンは首を横に振った。
「礼なら、あの子どもたちに言ってくれ」
住民たちの視線が子どもたちへ集まる。トマは照れたように鼻をこすった。
その騒ぎが少し落ち着いた頃、ユアンはリゼットの前に立った。
「謝る」
あまりに唐突で、リゼットは瞬きをした。
「何についてですか」
「地下で、君を足手まといと言ったこと。君の判断を聞く前に、命令で押し切ろうとしたこと」
ユアンはまっすぐ彼女を見る。
「君は道具ではない。調査のために雇った協力者であり、俺が判断を誤ったときに止める権利がある」
胸の奥に残っていた冷たさが、ゆっくりほどけていく。
「私も、言い方がきつかったと思います」
「それはいつものことだ」
「謝罪を受ける気がないなら、最初から言わないでください」
ユアンの口元が、ごくわずかに緩んだ。
「受け取った」
リゼットは流れ始めた水を見た。
まだ少量で、泥も混じっている。街を救ったとは言えない。それでも、枯れた水路に戻った最初の一滴は、住民たちの目に確かな未来を映していた。
水は止まらない。
そして今度は、誰か一人の命令ではなく、街の人々の手で流れ始めていた。




