代官の命令、職人の意地
鐘が一度鳴った。
地下水路の奥から響いた音は、壁を震わせ、リゼットの胸の奥まで入り込んだ。消えかけた記憶を無理に引き出されたように、頭蓋の内側が鋭く痛む。
彼女は咄嗟に壁へ手をついた。
「リゼット?」
「……平気です」
「平気な顔ではない」
ユアンの声が遠い。視界の端が白く霞み、地下の湿った空気が急に冷たくなった。
鐘の音の後に、別の音が重なっている。
水門を閉じる鎖。走る足音。誰かが叫んでいる。
――開けろ、まだ荷が残っている。
――代官が来る前に、東へ流せ。
――記録を焼け。
記憶の断片が次々に押し寄せ、音の一つ一つが頭の中でぶつかった。リゼットは唇を噛み、どうにか立っていた。
「もう一度、図面を確認します」
「必要ない」
「必要です。鐘が鳴った場所を特定しなければ」
「必要ないと言った」
ユアンは鉄箱から帳簿を取り出し、図面を巻き直した。
「水路を封鎖する」
リゼットは顔を上げた。
「待ってください。封鎖すれば、証拠を隠した者が気づきます。逃げ道を変えるか、図面を処分するかもしれません」
「すでに気づかれている可能性が高い。さっきの鐘は合図だ」
「なら、なおさら追うべきです」
「君は今、立っているのもやっとだ」
図星だった。膝が震え、耳の奥でまだ金属音が鳴っている。
だが、痛みを理由に手を止めれば、また誰かに真実を奪われる。
「私の体調と調査は別です」
「別ではない。君が倒れれば調査も止まる」
「私が止まれば、あなたは何を根拠に水路を封鎖するのですか。ただの推測です」
ユアンの目が細くなった。
「代官の命令だ」
短い言葉が地下室に落ちた。
リゼットの胸に、冷たいものが広がる。
「命令なら、理由は必要ないと?」
「理由はある。水路の中に誰がいるかわからない。住民を危険にさらすわけにはいかない」
「住民はもう危険にさらされています。水を奪われ、交易を壊され、何も知らないまま暮らしている」
「だからこそ、今すぐ流れを止める」
「止めれば街の水が完全に消えます」
「一時的だ」
「一時的で済む保証は?」
ユアンは答えなかった。
その沈黙が、リゼットには敗北に見えた。彼は効率を選び、目の前の危険を減らすために、もっと大きな危険を見ないことにしている。
「あなたは、この街を救うために私を雇ったのではないのですか」
「そのつもりだ」
「なら、私の聞いた音を信じてください」
「信じている」
「信じている人間の言葉を、どうして命令で押し潰すのです」
声が震えた。
ユアンの表情が硬くなる。
「君の言葉を信じているから、封鎖する」
「意味がわかりません」
「聞こえた音が本当なら、相手は水路を使っている。ならば水門を閉じ、逃げ道を断つ。それが最も早い」
「最も早い方法が、最も正しいとは限りません」
「正しさを待っている間に、誰かが死ぬ」
その言葉に、リゼットは息を止めた。
ユアンは灯りを掲げたまま、彼女を見ていた。怒っているのか、恐れているのか、顔からは読み取れない。ただ、命令を下す者の目ではなかった。何かを失うことを知っている者の目だった。
それでも、リゼットは引かなかった。
「水門を全部閉じれば、地下の圧力が上がります。古い設備なら、別の場所で破裂するかもしれない」
「図面にそう書いてあるのか」
「音が……」
言いかけて、頭痛が激しくなった。
地下の遠くで、また金属が鳴った。今度は鐘ではない。歯車が噛み合う音だ。水が壁の向こうで膨らみ、石の隙間を押している。
「東の水門です」
リゼットは壁を見た。
「誰かが今、開けようとしている」
ユアンは即座に剣を抜いた。
「トマ、入口まで戻れ。外に出たら、倉庫の前から動くな」
「でも……」
「走れ」
少年は怯えながら階段を駆け上がった。
ユアンは図面を脇に挟み、リゼットの腕をつかんだ。
「君も戻れ」
「嫌です」
「今度は命令だ」
「聞きません」
ユアンの指に力がこもる。
「君を連れていけば、足手まといになる」
その言葉は、これまでで一番深く刺さった。
リゼットは腕を振りほどいた。
「私は道具ではありません。危険だから置いていくのなら、私の技能を認めたという言葉も取り消してください」
「そういう意味ではない」
「同じです」
「違う」
「何が違うのです!」
声が地下に反響した。
リゼットの視界が揺れた。頭痛で立っているのも難しい。それでも、ユアンの前から退かなかった。
「あなたは私を守ろうとしている」
「……」
「けれど、私は守られるためにここへ来たのではありません。自分の罪を晴らすために、真実を見つけるために来たのです」
ユアンは黙って彼女を見た。
やがて、剣を鞘へ戻す。
「東の水門まで、どれくらいだ」
「図面どおりなら、ここから二つ目の分岐を左へ。階段があるはずです」
「確信は?」
「ありません」
「なら、私が先に行く。君は音を聞け」
「命令ですか」
「頼みだ」
その一言に、リゼットはわずかに目を見開いた。
ユアンは彼女の返事を待たず、地下道へ踏み込んだ。リゼットも灯りを手に続く。
湿った石壁の向こうで、水が唸っている。
進むほど頭痛は強くなった。記憶を読んでいないのに、過去の音が勝手に耳へ流れ込んでくる。鎖の音、荷車の軋み、帳簿を閉じる音。誰かが同じ道を何度も使い、何年も秘密を運んできたのだ。
分岐に差しかかったとき、ユアンが足を止めた。
「左か」
「ええ」
リゼットが壁へ手を触れる。
その瞬間、別の音が走った。
遠くで水門が開く。
大量の水が、細い水路へ流れ込む。
続いて、木材が折れる音。
「急いで!」
リゼットが叫ぶ。
「水門ではありません。誰かが流れをこちらへ向けています。このままでは、倉庫の下が崩れる!」
ユアンは彼女の手を取り、走り出した。
無愛想な代官の背中を追いながら、リゼットは思った。
命令に従うつもりはない。
けれど今だけは、同じ危険へ向かう相棒として、彼の隣に立つ。
その先で、地下水路の壁が大きく震えた。
水が、街の底で牙をむいた。




