↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鐘の記憶を読む令嬢は、辺境都市で未来を鳴らす  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/20

床下の水門図

 錆びた扉の向こうで、金属がもう一度鳴った。


 ユアンは剣を抜かず、柄に手を置いたまま、倉庫の入口へ近づいた。扉には鍵がかかっていない。押せば開くはずなのに、内側から何かがつかえているようだった。


「下がっていろ」


「嫌です」


「危険かもしれない」


「だから、音を聞く必要があります」


 リゼットが答えると、ユアンはわずかに眉を寄せた。だが、退けとは言わなかった。代わりに彼女の前へ半歩だけ出る。


 その背中が、妙に近かった。


 リゼットは意識して視線を扉へ戻した。木材に手を触れると、冷たい振動が指先から伝わってくる。


 誰かが内側で息を殺している。


 かつての音ではない。今、この瞬間のものだ。


「人がいます」


「何人だ」


「一人……いえ、二人」


 そのとき、扉の隙間から小さな影が飛び出した。


 ユアンが身をひねり、剣の柄で影の腕を受け止める。影は悲鳴をあげ、床に転がった。続いてもう一人が裏口から逃げようとしたが、リゼットが咄嗟に足元の木箱を蹴った。箱は崩れ、男の足に絡みつく。


 ユアンは逃げた男を追わなかった。転がった影の腕をつかみ、立ち上がらせる。


 相手は十歳ほどの少年だった。痩せた頬に煤がつき、胸元に古い麻袋を抱えている。袋の中から、硬いものが触れ合う音がした。


「何をしていた」


 ユアンの声は低かった。


 少年は怯えた目で彼を見たが、唇を閉ざした。


 リゼットは麻袋に手を伸ばしかけ、止めた。少年の怯えは、捕まったことだけから生じたものではない。背後の暗がりに、まだ誰かがいる。その誰かを恐れている。


「この子は運ばされていたのです」


「誰に?」


「わかりません。ただ、命令されたのでしょう」


 彼女が倉庫の奥へ目を向けると、床板の一枚だけが新しかった。周囲の木材は腐っているのに、そこだけ釘が光っている。


 少年が突然、ユアンの手を振りほどいた。


「触るな!」


 叫び声は倉庫の梁に反響した。


「それを開けたら、みんな殺される!」


 ユアンの表情が変わった。


「誰に言われた」


 少年は答えなかった。代わりに麻袋を抱えたまま、床板を見つめている。


 リゼットはゆっくりとしゃがんだ。少年と目線を合わせる。


「名前を聞いてもいいですか」


「……トマ」


「トマ。あの床の下には何があるの?」


「知らない。知らないけど、夜になると大人たちが来る。水が出る音がすると、床を開けるんだ」


 枯れているはずの水路の下から、水音がする。


 リゼットは床板へ手を伸ばした。


 ユアンが彼女の手首をつかむ。


「待て」


「記憶を読むだけです」


「さっきから顔色が悪い」


「問題ありません」


「問題があるかどうかを決めるのは君ではない」


 鋭い言葉だった。だが、手の力は強くない。心配しているのだと、リゼットにはわかった。


 それでも、彼女は首を振った。


「ここに何があるのか、確かめなければなりません。証拠が必要です」


「証拠なら、少年の証言がある」


「子どもの証言だけでは、王都の役人は信じません」


 偽造犯という言葉が、胸の奥で鈍く痛んだ。


 記録がなければ、真実はなかったことにされる。誰かがそう決める。かつて自分に罪を着せた人々も、紙の上に整えられた嘘を信じた。


 ユアンの手が離れた。


「なら、私が許可する」


 リゼットは顔を上げた。


「何を?」


「調査を。グラディア代官ユアンの名において、倉庫および水路設備の検分を許可する。君の技能による確認も含める」


 それは、彼女が初めて聞く正式な言葉だった。


 これまで音の記憶は、彼女自身の証言にすぎなかった。奇妙な力を持つ娘の妄言として扱われることも多い。だが今、ユアンは彼女の技能を公の調査に組み込んだ。


「私の聞いたことを、記録として扱うのですか」


「君が見つけたものを、私が記録する」


 ユアンはまっすぐ彼女を見た。


「責任は私が負う」


 リゼットの喉が詰まった。


 彼は彼女を守ると言ったのではない。彼女の代わりに判断すると言ったのでもない。力を使うことを認め、その結果を同じ調査の一部として引き受けると言ったのだ。


「……わかりました」


 リゼットは床板に手を置いた。


 音が弾けた。


 最初に聞こえたのは、水だった。


 地下深くを流れる、太い流れ。石壁にぶつかり、分かれ、また一つになる。次に、床板を外す音。男たちの荒い息。鎖が引かれ、水門の歯車が回る。


 誰かが言った。


「東の水路を空にしろ。今夜の荷は多い」


「鐘は?」


「一度だけ鳴らす。合図を聞いたら開けろ」


 別の声が答える。


「帳簿には残すな。水不足の原因は、南門の崩落にしておけ」


 リゼットは息をのんだ。


 水を抜いていた。


 水路が枯れたのではない。誰かが流れを別の場所へ振り分け、荷物を運ぶために使っていたのだ。


 音の記憶はさらに深く沈んだ。床板の下で紙が広げられる音。筆が走る音。印章を押す音。そして、複数の男が低く笑う声。


 その中に、聞き覚えのある響きが混じっていた。


 王都で何度も聞いた、役人たちの靴音に似ている。


 リゼットは手を離した。


 頭の奥が鋭く痛んだ。膝から力が抜ける。倒れかけた彼女を、ユアンが肩で支えた。


「リゼット!」


「大丈夫です」


「それはもう聞いた」


 ユアンは彼女を壁際へ座らせると、少年に向き直った。


「トマ。床下への入口はどこだ」


 少年はしばらく黙っていたが、やがて倉庫の隅を指した。


 積み重ねられた空箱をどけると、石造りの小さな階段が現れた。階段の先には、湿った風が流れている。


 ユアンが灯りを掲げる。


 地下の壁には古い図面が貼られていた。何度も水に濡れた跡があり、端は破れている。それでも、赤い線で描かれた水路の分岐と、いくつもの水門の位置は読み取れた。


 図面の下には、床に埋め込まれた鉄箱があった。


 蓋を開けると、帳簿の束と、折り畳まれた一枚の紙が見つかった。


 リゼットは紙に手を触れた。


 音はほとんど残っていなかった。だが、最後に一度だけ、鋭い金属音がした。


 紙を畳む音。


 誰かが囁く。


「水門図はここへ隠せ。鐘の記録が消えれば、誰も道を追えない」


 リゼットは震える指で紙を開いた。


 それはグラディア全域の地下水路を示す、古い水門図だった。


 そして図の隅には、見覚えのない印が押されていた。三本の線を円が囲む、不気味な印。


 ユアンがそれを見つめる。


「これは、都市の紋章ではない」


「ええ」


 リゼットは答えた。


「誰かの組織の印です」


 地下のさらに奥で、水が流れる音が大きくなった。


 その音の向こうから、遠く、鐘が一度だけ鳴った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。