床下の水門図
錆びた扉の向こうで、金属がもう一度鳴った。
ユアンは剣を抜かず、柄に手を置いたまま、倉庫の入口へ近づいた。扉には鍵がかかっていない。押せば開くはずなのに、内側から何かがつかえているようだった。
「下がっていろ」
「嫌です」
「危険かもしれない」
「だから、音を聞く必要があります」
リゼットが答えると、ユアンはわずかに眉を寄せた。だが、退けとは言わなかった。代わりに彼女の前へ半歩だけ出る。
その背中が、妙に近かった。
リゼットは意識して視線を扉へ戻した。木材に手を触れると、冷たい振動が指先から伝わってくる。
誰かが内側で息を殺している。
かつての音ではない。今、この瞬間のものだ。
「人がいます」
「何人だ」
「一人……いえ、二人」
そのとき、扉の隙間から小さな影が飛び出した。
ユアンが身をひねり、剣の柄で影の腕を受け止める。影は悲鳴をあげ、床に転がった。続いてもう一人が裏口から逃げようとしたが、リゼットが咄嗟に足元の木箱を蹴った。箱は崩れ、男の足に絡みつく。
ユアンは逃げた男を追わなかった。転がった影の腕をつかみ、立ち上がらせる。
相手は十歳ほどの少年だった。痩せた頬に煤がつき、胸元に古い麻袋を抱えている。袋の中から、硬いものが触れ合う音がした。
「何をしていた」
ユアンの声は低かった。
少年は怯えた目で彼を見たが、唇を閉ざした。
リゼットは麻袋に手を伸ばしかけ、止めた。少年の怯えは、捕まったことだけから生じたものではない。背後の暗がりに、まだ誰かがいる。その誰かを恐れている。
「この子は運ばされていたのです」
「誰に?」
「わかりません。ただ、命令されたのでしょう」
彼女が倉庫の奥へ目を向けると、床板の一枚だけが新しかった。周囲の木材は腐っているのに、そこだけ釘が光っている。
少年が突然、ユアンの手を振りほどいた。
「触るな!」
叫び声は倉庫の梁に反響した。
「それを開けたら、みんな殺される!」
ユアンの表情が変わった。
「誰に言われた」
少年は答えなかった。代わりに麻袋を抱えたまま、床板を見つめている。
リゼットはゆっくりとしゃがんだ。少年と目線を合わせる。
「名前を聞いてもいいですか」
「……トマ」
「トマ。あの床の下には何があるの?」
「知らない。知らないけど、夜になると大人たちが来る。水が出る音がすると、床を開けるんだ」
枯れているはずの水路の下から、水音がする。
リゼットは床板へ手を伸ばした。
ユアンが彼女の手首をつかむ。
「待て」
「記憶を読むだけです」
「さっきから顔色が悪い」
「問題ありません」
「問題があるかどうかを決めるのは君ではない」
鋭い言葉だった。だが、手の力は強くない。心配しているのだと、リゼットにはわかった。
それでも、彼女は首を振った。
「ここに何があるのか、確かめなければなりません。証拠が必要です」
「証拠なら、少年の証言がある」
「子どもの証言だけでは、王都の役人は信じません」
偽造犯という言葉が、胸の奥で鈍く痛んだ。
記録がなければ、真実はなかったことにされる。誰かがそう決める。かつて自分に罪を着せた人々も、紙の上に整えられた嘘を信じた。
ユアンの手が離れた。
「なら、私が許可する」
リゼットは顔を上げた。
「何を?」
「調査を。グラディア代官ユアンの名において、倉庫および水路設備の検分を許可する。君の技能による確認も含める」
それは、彼女が初めて聞く正式な言葉だった。
これまで音の記憶は、彼女自身の証言にすぎなかった。奇妙な力を持つ娘の妄言として扱われることも多い。だが今、ユアンは彼女の技能を公の調査に組み込んだ。
「私の聞いたことを、記録として扱うのですか」
「君が見つけたものを、私が記録する」
ユアンはまっすぐ彼女を見た。
「責任は私が負う」
リゼットの喉が詰まった。
彼は彼女を守ると言ったのではない。彼女の代わりに判断すると言ったのでもない。力を使うことを認め、その結果を同じ調査の一部として引き受けると言ったのだ。
「……わかりました」
リゼットは床板に手を置いた。
音が弾けた。
最初に聞こえたのは、水だった。
地下深くを流れる、太い流れ。石壁にぶつかり、分かれ、また一つになる。次に、床板を外す音。男たちの荒い息。鎖が引かれ、水門の歯車が回る。
誰かが言った。
「東の水路を空にしろ。今夜の荷は多い」
「鐘は?」
「一度だけ鳴らす。合図を聞いたら開けろ」
別の声が答える。
「帳簿には残すな。水不足の原因は、南門の崩落にしておけ」
リゼットは息をのんだ。
水を抜いていた。
水路が枯れたのではない。誰かが流れを別の場所へ振り分け、荷物を運ぶために使っていたのだ。
音の記憶はさらに深く沈んだ。床板の下で紙が広げられる音。筆が走る音。印章を押す音。そして、複数の男が低く笑う声。
その中に、聞き覚えのある響きが混じっていた。
王都で何度も聞いた、役人たちの靴音に似ている。
リゼットは手を離した。
頭の奥が鋭く痛んだ。膝から力が抜ける。倒れかけた彼女を、ユアンが肩で支えた。
「リゼット!」
「大丈夫です」
「それはもう聞いた」
ユアンは彼女を壁際へ座らせると、少年に向き直った。
「トマ。床下への入口はどこだ」
少年はしばらく黙っていたが、やがて倉庫の隅を指した。
積み重ねられた空箱をどけると、石造りの小さな階段が現れた。階段の先には、湿った風が流れている。
ユアンが灯りを掲げる。
地下の壁には古い図面が貼られていた。何度も水に濡れた跡があり、端は破れている。それでも、赤い線で描かれた水路の分岐と、いくつもの水門の位置は読み取れた。
図面の下には、床に埋め込まれた鉄箱があった。
蓋を開けると、帳簿の束と、折り畳まれた一枚の紙が見つかった。
リゼットは紙に手を触れた。
音はほとんど残っていなかった。だが、最後に一度だけ、鋭い金属音がした。
紙を畳む音。
誰かが囁く。
「水門図はここへ隠せ。鐘の記録が消えれば、誰も道を追えない」
リゼットは震える指で紙を開いた。
それはグラディア全域の地下水路を示す、古い水門図だった。
そして図の隅には、見覚えのない印が押されていた。三本の線を円が囲む、不気味な印。
ユアンがそれを見つめる。
「これは、都市の紋章ではない」
「ええ」
リゼットは答えた。
「誰かの組織の印です」
地下のさらに奥で、水が流れる音が大きくなった。
その音の向こうから、遠く、鐘が一度だけ鳴った。




