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鐘の記憶を読む令嬢は、辺境都市で未来を鳴らす  作者: 銀細工ナギ


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2/20

止まった大時計

 グラディアまでの道は、三日かかるはずだった。


 しかし二日目の朝、馬車は荒れた街道の途中で動きを止めた。車輪が深くぬかるみに沈み、御者が馬をなだめる声が聞こえる。リゼットは揺れの止まった客車の中で目を覚ました。


 窓の外には、灰色の空が広がっていた。王都を出てから、景色は次第に寂しくなっていた。畑はまばらになり、家々の屋根は低く、道端には枯れた草が風に伏せている。


「グラディアは、まだ遠いのですか」


「半日ほどだ」


 向かいに座っていたユアンが答えた。彼はほとんど眠っていないらしく、目の下に薄い影がある。手には都市の古い地図を広げていた。


「ここから先は道が悪い。雨が降れば、さらに遅れる」


「都市が衰退しているという話は聞きましたが、街道までこの有様とは思いませんでした」


「街道を直す税が、どこかへ消えている」


 ユアンは地図から顔を上げなかった。


「記録上は、毎年かなりの額が使われていることになっている」


「けれど、実際には?」


「見ればわかる」


 短い返事だった。


 やがて車輪が泥から引き抜かれ、馬車は再び進み始めた。揺れは激しくなり、リゼットは窓枠に手を添えた。指先に、木材の古い音が触れる。


 雨の音。


 何年も前、同じ場所を荷車が通った音。


 複数の車輪がぬかるみを踏み、誰かが苛立ったように舌打ちしている。その後に、金属の留め具が鳴った。荷台から重い箱を降ろす音が、ひとつ、ふたつ、三つ。


 リゼットは手を離した。


「どうした」


 ユアンが尋ねる。


「この道は、以前から荷物の運搬に使われていたようです」


「交易都市だからな」


「いえ。昼間の運搬ではありません」


 彼女は窓の外を見た。道は細く、両側に枯れた林が続いている。遠くに、崩れかけた石柱が立っていた。


「音の記憶に、夜の静けさがありました。御者は声を潜め、荷物を降ろした後、車輪を布で覆っている。見つからないようにしていたようです」


 ユアンの視線が地図から離れた。


「いつの記憶だ」


「わかりません。木に残った音が古すぎます」


「何を運んでいた?」


「箱の中身までは……」


 そう答えたものの、リゼットの耳にはまだ金属音が残っていた。箱の中で何かが触れ合う音。硬く、薄いものが幾つも重なる音だった。


 硬貨かもしれない。


 だが、確信は持てなかった。


 昼過ぎ、二人はようやくグラディアに入った。


 都市の入口には門番が一人しかいなかった。門は開きっぱなしで、片側の蝶番が外れかけている。かつては人や荷車で賑わっていたらしい通りも、今は店先の板戸が閉まり、風に砂が舞っていた。


 最初に見えたのは、大時計だった。


 都市の中心に建つ石造りの塔。その上部には巨大な時計盤が四面に向けて取り付けられている。針は、十一時四十七分を指したまま止まっていた。


 塔の下には、壊れた鐘楼の扉があった。扉の前に、朽ちた木箱が積まれている。


 リゼットは馬車を降りると、自然に塔を見上げた。


 時計は止まっている。


 けれど、完全に沈黙しているわけではなかった。


 風が石の隙間を抜けるたび、塔の内部から低い振動が伝わってくる。歯車が噛み合わずに空回りしている音。軸のどこかが擦れ、かすかに震えている音。そしてその奥に、別の鐘の残響があった。


 リゼットは塔の石壁へ手を当てた。


 たちまち、音が押し寄せてきた。


 昼の市場。荷車の呼び声。子どもたちの笑い声。鐘が正午を告げる音。


 それは、過去のグラディアだった。


 次に、夜。


 市場から人の気配が消えたあと、遠くで水が流れている。誰かが塔の扉を開け、重い鎖を外す音がした。階段を上る足音が二つ。三つ目の足音は、途中で止まった。


 そして鐘が鳴る。


 一度。


 低く、腹の底を揺らす音。


 だが、記録に残るような時刻の鐘ではなかった。合図のように短く鳴り、すぐに消えた。


 その直後、街の南側から車輪の音が近づいてきた。荷車は塔のそばを通らず、裏手へ回っていく。金属の留め具が震え、箱の中で硬いものがぶつかる。


 リゼットは手を離した。


「見えましたか」


 ユアンの声がした。


「いいえ。聞こえました」


 彼女は息を整えながら答えた。


「夜、ここで鐘が一度鳴っています。その後、荷車が南へ向かっている。記録にはない搬出です」


「どれくらい前のものだ」


「複数の音が重なっています。何年も続いていた可能性があります」


 ユアンは塔を見上げた。灰色の瞳に、初めてはっきりとした怒りが浮かんだ。


「南には何がある」


「水路です」


 答えたのは、近くで馬具を片づけていた御者だった。


「昔は水が流れていたんですがね。今は枯れています。倉庫街の裏を通って、都市の外へ抜ける水路です」


 ユアンはすぐに歩き出した。


「行くぞ」


「どこへ?」


「南の水路だ」


 都市の中心から離れるほど、道は荒れていった。建物の壁にはひびが走り、井戸には縄だけが垂れ下がっている。住民たちは二人を警戒するように見つめ、誰も声をかけなかった。


 やがて、石造りの水路が姿を現した。


 底には乾いた泥がひび割れている。水門は閉じたまま錆びつき、その脇には古い倉庫が並んでいた。倉庫の扉には、何度も開け閉めされた痕跡が残っている。


 リゼットは水路の縁にしゃがみ、泥へ手を伸ばした。


 冷たい風の音。


 水が流れていた頃の、遠い記憶。


 その中に、夜の車輪が混じる。


 荷車が水路沿いを進み、倉庫の前で止まった。誰かが扉を開ける。中から別の男が出てきて、低い声で言った。


「鐘は鳴った。急げ」


 続いて、箱が運ばれる音。


 一つではない。いくつもの箱が、乾いた床を引きずられていく。


 最後に、水門の鎖が動いた。


 閉じているはずの水門が、夜ごとわずかに開かれていた。


 リゼットは顔を上げた。


「この水路は、ただ枯れたのではありません」


 ユアンが彼女を見る。


「何者かが、夜に水門を動かしていました。荷車もここへ来ていた。都市の外へ何かを運び出していたようです」


 そのとき、倉庫の奥から、かすかな金属音が響いた。


 今の音だった。


 二人は同時に振り向いた。錆びた扉の向こうで、何かがゆっくりと動いた。


 ユアンが剣の柄に手をかける。


 リゼットは水路の乾いた底を見つめた。


 ひび割れた泥の下から、かすかな水音がしていた。

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