止まった大時計
グラディアまでの道は、三日かかるはずだった。
しかし二日目の朝、馬車は荒れた街道の途中で動きを止めた。車輪が深くぬかるみに沈み、御者が馬をなだめる声が聞こえる。リゼットは揺れの止まった客車の中で目を覚ました。
窓の外には、灰色の空が広がっていた。王都を出てから、景色は次第に寂しくなっていた。畑はまばらになり、家々の屋根は低く、道端には枯れた草が風に伏せている。
「グラディアは、まだ遠いのですか」
「半日ほどだ」
向かいに座っていたユアンが答えた。彼はほとんど眠っていないらしく、目の下に薄い影がある。手には都市の古い地図を広げていた。
「ここから先は道が悪い。雨が降れば、さらに遅れる」
「都市が衰退しているという話は聞きましたが、街道までこの有様とは思いませんでした」
「街道を直す税が、どこかへ消えている」
ユアンは地図から顔を上げなかった。
「記録上は、毎年かなりの額が使われていることになっている」
「けれど、実際には?」
「見ればわかる」
短い返事だった。
やがて車輪が泥から引き抜かれ、馬車は再び進み始めた。揺れは激しくなり、リゼットは窓枠に手を添えた。指先に、木材の古い音が触れる。
雨の音。
何年も前、同じ場所を荷車が通った音。
複数の車輪がぬかるみを踏み、誰かが苛立ったように舌打ちしている。その後に、金属の留め具が鳴った。荷台から重い箱を降ろす音が、ひとつ、ふたつ、三つ。
リゼットは手を離した。
「どうした」
ユアンが尋ねる。
「この道は、以前から荷物の運搬に使われていたようです」
「交易都市だからな」
「いえ。昼間の運搬ではありません」
彼女は窓の外を見た。道は細く、両側に枯れた林が続いている。遠くに、崩れかけた石柱が立っていた。
「音の記憶に、夜の静けさがありました。御者は声を潜め、荷物を降ろした後、車輪を布で覆っている。見つからないようにしていたようです」
ユアンの視線が地図から離れた。
「いつの記憶だ」
「わかりません。木に残った音が古すぎます」
「何を運んでいた?」
「箱の中身までは……」
そう答えたものの、リゼットの耳にはまだ金属音が残っていた。箱の中で何かが触れ合う音。硬く、薄いものが幾つも重なる音だった。
硬貨かもしれない。
だが、確信は持てなかった。
昼過ぎ、二人はようやくグラディアに入った。
都市の入口には門番が一人しかいなかった。門は開きっぱなしで、片側の蝶番が外れかけている。かつては人や荷車で賑わっていたらしい通りも、今は店先の板戸が閉まり、風に砂が舞っていた。
最初に見えたのは、大時計だった。
都市の中心に建つ石造りの塔。その上部には巨大な時計盤が四面に向けて取り付けられている。針は、十一時四十七分を指したまま止まっていた。
塔の下には、壊れた鐘楼の扉があった。扉の前に、朽ちた木箱が積まれている。
リゼットは馬車を降りると、自然に塔を見上げた。
時計は止まっている。
けれど、完全に沈黙しているわけではなかった。
風が石の隙間を抜けるたび、塔の内部から低い振動が伝わってくる。歯車が噛み合わずに空回りしている音。軸のどこかが擦れ、かすかに震えている音。そしてその奥に、別の鐘の残響があった。
リゼットは塔の石壁へ手を当てた。
たちまち、音が押し寄せてきた。
昼の市場。荷車の呼び声。子どもたちの笑い声。鐘が正午を告げる音。
それは、過去のグラディアだった。
次に、夜。
市場から人の気配が消えたあと、遠くで水が流れている。誰かが塔の扉を開け、重い鎖を外す音がした。階段を上る足音が二つ。三つ目の足音は、途中で止まった。
そして鐘が鳴る。
一度。
低く、腹の底を揺らす音。
だが、記録に残るような時刻の鐘ではなかった。合図のように短く鳴り、すぐに消えた。
その直後、街の南側から車輪の音が近づいてきた。荷車は塔のそばを通らず、裏手へ回っていく。金属の留め具が震え、箱の中で硬いものがぶつかる。
リゼットは手を離した。
「見えましたか」
ユアンの声がした。
「いいえ。聞こえました」
彼女は息を整えながら答えた。
「夜、ここで鐘が一度鳴っています。その後、荷車が南へ向かっている。記録にはない搬出です」
「どれくらい前のものだ」
「複数の音が重なっています。何年も続いていた可能性があります」
ユアンは塔を見上げた。灰色の瞳に、初めてはっきりとした怒りが浮かんだ。
「南には何がある」
「水路です」
答えたのは、近くで馬具を片づけていた御者だった。
「昔は水が流れていたんですがね。今は枯れています。倉庫街の裏を通って、都市の外へ抜ける水路です」
ユアンはすぐに歩き出した。
「行くぞ」
「どこへ?」
「南の水路だ」
都市の中心から離れるほど、道は荒れていった。建物の壁にはひびが走り、井戸には縄だけが垂れ下がっている。住民たちは二人を警戒するように見つめ、誰も声をかけなかった。
やがて、石造りの水路が姿を現した。
底には乾いた泥がひび割れている。水門は閉じたまま錆びつき、その脇には古い倉庫が並んでいた。倉庫の扉には、何度も開け閉めされた痕跡が残っている。
リゼットは水路の縁にしゃがみ、泥へ手を伸ばした。
冷たい風の音。
水が流れていた頃の、遠い記憶。
その中に、夜の車輪が混じる。
荷車が水路沿いを進み、倉庫の前で止まった。誰かが扉を開ける。中から別の男が出てきて、低い声で言った。
「鐘は鳴った。急げ」
続いて、箱が運ばれる音。
一つではない。いくつもの箱が、乾いた床を引きずられていく。
最後に、水門の鎖が動いた。
閉じているはずの水門が、夜ごとわずかに開かれていた。
リゼットは顔を上げた。
「この水路は、ただ枯れたのではありません」
ユアンが彼女を見る。
「何者かが、夜に水門を動かしていました。荷車もここへ来ていた。都市の外へ何かを運び出していたようです」
そのとき、倉庫の奥から、かすかな金属音が響いた。
今の音だった。
二人は同時に振り向いた。錆びた扉の向こうで、何かがゆっくりと動いた。
ユアンが剣の柄に手をかける。
リゼットは水路の乾いた底を見つめた。
ひび割れた泥の下から、かすかな水音がしていた。




