追放令と辺境からの依頼
鐘の音は、鳴らなかった。
それでも記録簿には、午前零時を告げる鐘が三度響いたと記されていた。
王都時計塔の記録室で、リゼットは羊皮紙を見つめていた。古びた紙には、昨夜の時刻と鐘の回数、担当者の署名が整然と並んでいる。けれど、彼女の耳には何も残っていなかった。
音に残った記憶を読む。それが、リゼットに与えられた力だった。
触れた物に染みついた音を、彼女は微かな残響として感じ取ることができる。誰かが落とした鍵の音、雨の夜に閉じられた扉の軋み、遠い日に刻まれた足音。記憶はいつも音の姿で眠り、リゼットが指を触れれば、かすかに目を覚ました。
だからこそ、存在しない鐘の記録が偽造されたものだと、彼女にはわかっていた。
「おまえが書いたのだな」
背後から声がした。
振り返ると、記録監督官と王都の役人が立っていた。監督官の手には、例の記録簿と、リゼットの署名がある報告書が握られている。
「違います。私はこの記録に署名していません」
「署名はおまえの筆跡だ」
「筆跡が似ているだけです。昨夜の鐘は――」
「鳴らなかった、と言いたいのか?」
監督官の口元に、薄い笑みが浮かんだ。
その瞬間、リゼットは報告書に指を触れた。紙から、羽根ペンが走る音が立ち上がる。インクを含んだ先端が、彼女の名をなぞっていた。
だが、その音は昨夜のものではなかった。
紙に染みた記憶は、別の場所のものだ。重い扉が閉じ、誰かが低い声で「これでよい」と言った。その後に、羽根ペンを削る音。書かれた署名は、夜ではなく、昼の記録室で作られている。
リゼットは顔を上げた。
「この署名は偽造です。誰かが別の記録から音を移し――」
「黙れ!」
監督官の怒声が響いた。だが、彼の声には怯えが混じっていた。
役人が机の上に封蝋付きの文書を置く。
「リゼット・アルネ。時計塔の記録を改竄し、存在しない鐘の音を王国の公式記録として流布した罪により、本日付で時計塔勤務を解く。身分章を返納し、三日以内に王都を出よ」
追放令。
その文字を見たとき、胸の奥で何かが静かに折れた。
父の代から続く下級貴族の名も、時計塔で積み上げた年月も、ひとつの署名で泥に落とされた。リゼットは首から下げていた身分章を外した。銀色の小さな歯車が、掌の中で冷たかった。
「証拠はあります」
彼女は最後の抵抗のように言った。
「鐘は鳴っていません。記録室の音が証明しています」
「物言わぬ紙に、都合のいい幻聴を重ねるな」
監督官はそう吐き捨てた。
彼らが去った後も、部屋には静けさが残った。リゼットは机に手を置いた。紙の奥から、誰かが笑ったような音がした。けれどそれが誰のものなのか、もう確かめる気力はなかった。
三日後、彼女は時計塔を追われた。
雨の降る夕暮れ、門前で小さな荷物を抱えて立っていると、一台の黒い馬車が止まった。扉に刻まれていたのは、王都から遠く離れた辺境都市グラディアの紋章だった。
御者が降り、扉を開く。
「リゼット・アルネ殿か」
中から現れた男は、濃紺の外套を着ていた。年は二十代後半ほど。整った顔立ちだが、灰色の瞳には疲労が深く沈んでいる。
「私はユアン。グラディアの代官を務めている」
追放されたばかりの女に、辺境の代官が何の用なのか。リゼットは警戒して一歩下がった。
「あなたも私を偽造犯だと思っているのですか」
「思っていない」
ユアンは即答した。
「なら、なぜここへ?」
「依頼がある。グラディアの記録を調べてほしい」
彼は一枚の書状を差し出した。そこには、都市の交易量が年々減少し、税収も水量も失われていることが記されていた。大時計は止まり、水路は枯れ、倉庫には空の箱ばかりが積まれているという。
「記録の改竄が疑われている。だが、誰も調べようとしない」
「そんな仕事を、追放された私に?」
「だから頼む」
ユアンの声は無愛想だったが、軽蔑はなかった。
「あなたには、音の記憶を読む力があると聞いた。噂が本当なら、紙に残らないものを見つけられる」
その言葉に、リゼットの指が強く縮こまった。
彼女の力を知る者は少ない。時計塔では役に立つ才能として扱われていたが、今では罪の根拠にされかけている。恐れるべき力だと、何度も思った。それでも、存在しない鐘の記録を作った者を、このまま逃がしたくはなかった。
「報酬は?」
ユアンがわずかに目を細める。
「グラディアでの住居と、調査期間中の給与。それから、調査であなたの無実が証明された場合、王都に身分回復を申請する」
「申請するだけですか」
「証拠がなければ、私にもそれ以上はできない」
正直な答えだった。
リゼットは雨に濡れた時計塔を見上げた。高い塔の窓は暗く、いつもなら時を告げる鐘が、今夜は沈黙している。
この場所に戻れる保証などない。そもそも、戻りたいのかもわからなかった。
けれど、自分の名を奪った偽りを放置することだけは、選べなかった。
「受けます」
彼女は荷物を持ち直した。
「ただし、調査の邪魔をしないでください。私が聞いた音を、幻聴だと決めつけないこと」
ユアンはしばらく彼女を見つめ、それから頷いた。
「約束する。あなたも、見つけたものを隠さないでくれ」
「隠す理由がありません」
「誰にでもある」
その言葉が妙に胸に残った。
リゼットが馬車へ乗り込むと、王都の門がゆっくり閉じ始めた。背後で、追放令を受けた時計塔が雨の向こうに遠ざかっていく。
やがて馬車が動き出した。
車輪の音に混じって、彼女の荷物の底から、知らない鐘の残響がひとつだけ響いた。
低く、遠く、地の底から届くような音だった。
リゼットは息を止め、荷物に手を置いた。
これは、王都の鐘ではない。
そしてグラディアへ向かう依頼は、ただの記録調査では終わらない。
失われた何かが、辺境の暗闇で、彼女を待っている。




