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鐘の記憶を読む令嬢は、辺境都市で未来を鳴らす  作者: 銀細工ナギ


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15/20

暴走する水門

 夜半、街の水音が変わった。


 リゼットは眠りの浅いまま目を覚ました。北水路を流れる水は、昼間の穏やかなせせらぎではない。地の底から何かが這い上がってくるような、低く唸る音だった。


 窓を開けると、遠くで金属の砕ける音が響いた。


 続いて、大時計の鐘が鳴った。


 ひとつ。


 間を置かず、ふたつ、みっつ。


 時を告げる鐘ではなかった。歯車を無理やり回したような、濁った音だった。


「ユアン!」


 隣の建物から足音が駆けてくる。扉を開けると、ユアンが外套を羽織る暇もなく立っていた。


「聞こえたか」


「大時計です。誰かが動かしています」


「時計塔へ行く」


「水路もおかしい。音が、北からではなく地下から響いている」


 その瞬間、街の南側から悲鳴が上がった。


 二人が広場へ駆け出すと、水路の蓋が跳ね上がり、濁流が石畳へ噴き出していた。昼間に補修したばかりの分岐が、まるで内側から押し開けられたように裂けている。水は道を覆い、低い家の戸口へ流れ込んでいた。


「水門が開いた!」


 誰かが叫んだ。


 遠くの時計塔から、また鐘が鳴る。三つ目の音が響いた直後、塔の上部で火花が散った。大時計の文字盤が傾き、巨大な針が壁を削りながら落下する。


「時計塔が崩れるぞ!」


 ユアンはすぐに広場の中央へ走った。


「東通りの住民を丘へ避難させる! 子どもと老人を先に。石工は水路の南壁を見てくれ。鍛冶屋は鎖と木材を持ってこい!」


 誰も、彼の腰に印がないことを問題にしなかった。


 命令ではない。けれど、皆がその声を聞いた。


 リゼットは時計塔を見上げた。崩れかけた塔の中から、鐘とは違う音が聞こえる。歯車の軋み、切れた鎖の揺れ、そして何者かが急いで階段を駆け下りる足音。


「中に誰かいます」


「分かるのか」


「音が残っています。大時計を壊した人間が、まだ塔の中にいる」


 ユアンは彼女の腕をつかんだ。


「危険だ。俺が行く」


「あなたは避難を続けてください」


「リゼット」


「水門を止めるには、塔の鐘が必要です。あの音の中に、地下の流れを示す残響がある」


 ユアンの手に力がこもった。


「君を守るために、行かせないと言っているんじゃない」


「分かっています」


 リゼットは彼をまっすぐ見た。


「だから、私を行かせてください。私にしかできないことがある」


 短い沈黙のあと、ユアンは手を放した。


「戻れ。必ず」


「あなたも」


「俺はここを動かす」


「では、戻る場所を残しておいてください」


 リゼットは濁流を避けながら時計塔へ走った。


 塔の扉は半ば開いていた。中へ入った途端、冷たい風が吹き抜ける。階段には黒い油が点々と落ちていた。秘密組合の印を押した布切れが、折れた手すりに引っかかっている。


 上から、誰かの足音がした。


 リゼットは追わなかった。今は犯人よりも鐘だった。


 歯車室へ駆け上がると、巨大な機構の一部が破壊され、鎖が床へ垂れ下がっていた。大時計の鐘はひび割れ、内部に細い金属片が挟まっている。それでも、まだ音を残していた。


 リゼットは手を伸ばした。


 触れた瞬間、頭の中に冷たい衝撃が走る。


 鐘が鳴る。


 ひび割れた音が、何度も何度も重なっていく。


 見えたのは、かつての街だった。水門を開く男たち。夜の荷車。倉庫へ運ばれる木箱。そして、誰も知らない地下の水路。


 地下水路は北でも南でもなかった。時計塔の真下から東へ伸び、古い製粉所の地下を通り、街の外れにある廃坑へつながっている。


 その途中に、三つの分水扉がある。


 水門を同時に開けば、水は街の水路へ逆流する。止めるには、製粉所の地下で中央扉を閉じるしかない。


 リゼットは手を離した。


 膝から力が抜ける。


「製粉所……中央扉……」


 口にした途端、塔が大きく揺れた。上階から石が落ち、床板が割れる。誰かが逃げるために支柱を切ったのだ。


 鐘楼の窓から街を見ると、濁流が広場へ広がっていた。ユアンが人々を丘へ誘導している。鍛冶屋の娘たちは子どもを抱え、石工たちは水路の縁に木材を組んでいた。


 だが、水は止まらない。


 リゼットは階段を駆け下りた。途中、黒い外套の男が立ちはだかった。顔は布で隠されている。男の手には、鐘の鎖を切った短剣があった。


「記録を読む娘か」


「あなたたちが街の水を奪ったのね」


「水は力だ。力を持つ者が、使う場所を選ぶ」


「なら、あなたたちは選び間違えた」


 男が短剣を振る。リゼットは身をひねり、崩れた階段の柱を蹴った。男の足元が崩れ、彼は下階へ転げ落ちる。短剣が石段に突き刺さった。


 リゼットは振り返らず、塔の外へ飛び出した。


 ユアンが駆け寄る。


「無事か!」


「製粉所の地下です。中央の分水扉を閉じれば止まる」


「道は?」


「東の路地を抜けて。けれど、そこも水に沈み始めています」


 ユアンは周囲を見渡した。避難を終えていない家がまだある。製粉所へ向かうには、街の中心を通らなければならない。


「俺が行く」


「二人で行きます」


「住民の誘導は?」


「鍛冶屋の娘に任せられます」


 ユアンは彼女の顔を見た。恐怖に震えているのに、視線だけは揺らいでいない。


「分かった。行こう」


 二人は肩を並べ、濁流の中へ踏み込んだ。


 水は膝まで迫り、石畳の下で何かが破裂した。街じゅうが、巨大な水車の内部になったようだった。背後では時計塔が軋み、ひび割れた鐘が最後の音を吐き出している。


 その音を聞きながら、リゼットは走った。


 まだ終わっていない。


 けれど、ここにいる人々も、ユアンも、自分も、もう奪われるだけの存在ではない。


 暴走する水門の先に、街の命運が待っている。


 リゼットは濁流の向こうに沈みかけた製粉所を見据え、ユアンと共に地下への階段へ飛び込んだ。

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