暴走する水門
夜半、街の水音が変わった。
リゼットは眠りの浅いまま目を覚ました。北水路を流れる水は、昼間の穏やかなせせらぎではない。地の底から何かが這い上がってくるような、低く唸る音だった。
窓を開けると、遠くで金属の砕ける音が響いた。
続いて、大時計の鐘が鳴った。
ひとつ。
間を置かず、ふたつ、みっつ。
時を告げる鐘ではなかった。歯車を無理やり回したような、濁った音だった。
「ユアン!」
隣の建物から足音が駆けてくる。扉を開けると、ユアンが外套を羽織る暇もなく立っていた。
「聞こえたか」
「大時計です。誰かが動かしています」
「時計塔へ行く」
「水路もおかしい。音が、北からではなく地下から響いている」
その瞬間、街の南側から悲鳴が上がった。
二人が広場へ駆け出すと、水路の蓋が跳ね上がり、濁流が石畳へ噴き出していた。昼間に補修したばかりの分岐が、まるで内側から押し開けられたように裂けている。水は道を覆い、低い家の戸口へ流れ込んでいた。
「水門が開いた!」
誰かが叫んだ。
遠くの時計塔から、また鐘が鳴る。三つ目の音が響いた直後、塔の上部で火花が散った。大時計の文字盤が傾き、巨大な針が壁を削りながら落下する。
「時計塔が崩れるぞ!」
ユアンはすぐに広場の中央へ走った。
「東通りの住民を丘へ避難させる! 子どもと老人を先に。石工は水路の南壁を見てくれ。鍛冶屋は鎖と木材を持ってこい!」
誰も、彼の腰に印がないことを問題にしなかった。
命令ではない。けれど、皆がその声を聞いた。
リゼットは時計塔を見上げた。崩れかけた塔の中から、鐘とは違う音が聞こえる。歯車の軋み、切れた鎖の揺れ、そして何者かが急いで階段を駆け下りる足音。
「中に誰かいます」
「分かるのか」
「音が残っています。大時計を壊した人間が、まだ塔の中にいる」
ユアンは彼女の腕をつかんだ。
「危険だ。俺が行く」
「あなたは避難を続けてください」
「リゼット」
「水門を止めるには、塔の鐘が必要です。あの音の中に、地下の流れを示す残響がある」
ユアンの手に力がこもった。
「君を守るために、行かせないと言っているんじゃない」
「分かっています」
リゼットは彼をまっすぐ見た。
「だから、私を行かせてください。私にしかできないことがある」
短い沈黙のあと、ユアンは手を放した。
「戻れ。必ず」
「あなたも」
「俺はここを動かす」
「では、戻る場所を残しておいてください」
リゼットは濁流を避けながら時計塔へ走った。
塔の扉は半ば開いていた。中へ入った途端、冷たい風が吹き抜ける。階段には黒い油が点々と落ちていた。秘密組合の印を押した布切れが、折れた手すりに引っかかっている。
上から、誰かの足音がした。
リゼットは追わなかった。今は犯人よりも鐘だった。
歯車室へ駆け上がると、巨大な機構の一部が破壊され、鎖が床へ垂れ下がっていた。大時計の鐘はひび割れ、内部に細い金属片が挟まっている。それでも、まだ音を残していた。
リゼットは手を伸ばした。
触れた瞬間、頭の中に冷たい衝撃が走る。
鐘が鳴る。
ひび割れた音が、何度も何度も重なっていく。
見えたのは、かつての街だった。水門を開く男たち。夜の荷車。倉庫へ運ばれる木箱。そして、誰も知らない地下の水路。
地下水路は北でも南でもなかった。時計塔の真下から東へ伸び、古い製粉所の地下を通り、街の外れにある廃坑へつながっている。
その途中に、三つの分水扉がある。
水門を同時に開けば、水は街の水路へ逆流する。止めるには、製粉所の地下で中央扉を閉じるしかない。
リゼットは手を離した。
膝から力が抜ける。
「製粉所……中央扉……」
口にした途端、塔が大きく揺れた。上階から石が落ち、床板が割れる。誰かが逃げるために支柱を切ったのだ。
鐘楼の窓から街を見ると、濁流が広場へ広がっていた。ユアンが人々を丘へ誘導している。鍛冶屋の娘たちは子どもを抱え、石工たちは水路の縁に木材を組んでいた。
だが、水は止まらない。
リゼットは階段を駆け下りた。途中、黒い外套の男が立ちはだかった。顔は布で隠されている。男の手には、鐘の鎖を切った短剣があった。
「記録を読む娘か」
「あなたたちが街の水を奪ったのね」
「水は力だ。力を持つ者が、使う場所を選ぶ」
「なら、あなたたちは選び間違えた」
男が短剣を振る。リゼットは身をひねり、崩れた階段の柱を蹴った。男の足元が崩れ、彼は下階へ転げ落ちる。短剣が石段に突き刺さった。
リゼットは振り返らず、塔の外へ飛び出した。
ユアンが駆け寄る。
「無事か!」
「製粉所の地下です。中央の分水扉を閉じれば止まる」
「道は?」
「東の路地を抜けて。けれど、そこも水に沈み始めています」
ユアンは周囲を見渡した。避難を終えていない家がまだある。製粉所へ向かうには、街の中心を通らなければならない。
「俺が行く」
「二人で行きます」
「住民の誘導は?」
「鍛冶屋の娘に任せられます」
ユアンは彼女の顔を見た。恐怖に震えているのに、視線だけは揺らいでいない。
「分かった。行こう」
二人は肩を並べ、濁流の中へ踏み込んだ。
水は膝まで迫り、石畳の下で何かが破裂した。街じゅうが、巨大な水車の内部になったようだった。背後では時計塔が軋み、ひび割れた鐘が最後の音を吐き出している。
その音を聞きながら、リゼットは走った。
まだ終わっていない。
けれど、ここにいる人々も、ユアンも、自分も、もう奪われるだけの存在ではない。
暴走する水門の先に、街の命運が待っている。
リゼットは濁流の向こうに沈みかけた製粉所を見据え、ユアンと共に地下への階段へ飛び込んだ。




