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鐘の記憶を読む令嬢は、辺境都市で未来を鳴らす  作者: 銀細工ナギ


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14/20

印を失った代官

 ヴァルドの部屋から蝋板が運び出された翌朝、ユアンの机には何も残っていなかった。


 代官の印も、執務権限を示す文書も、王都から与えられた短剣さえも没収されていた。机の上にあるのは、ひびの入った水差しと、昨夜リゼットが書き留めた水路の見取り図だけだった。


「これで、あなたはただの市民ですね」


 リゼットが言うと、ユアンは水差しの底を見たまま答えた。


「最初からそうだった。印は、役目を思い出させる道具に過ぎない」


「でも、役人たちはあなたの命令を聞かない」


「なら、聞く理由を別に作る」


 窓の外では、住民たちが広場に集まり始めていた。ヴァルドの不正が明らかになったとはいえ、都市の水路は壊れたままだ。秘密組合の帳簿が押収されても、乾いた井戸に水が戻るわけではない。


 ユアンは立ち上がった。


「行こう」


「どこへ?」


「広場だ。命令ではなく、頼みに行く」


 かつて代官が演説した石段に、二人は並んで立った。ユアンの腰に印章入れはない。代わりに、袖をまくった腕と、眠れていない顔があった。


 集まった住民の間には、不安と疑いが渦巻いている。誰かが声を上げた。


「代官じゃないお前に、何の権利がある!」


 ユアンは反論しなかった。


「権利はない。だから頼む。北水路の分岐を開けるには、あと三日かかる。石工が四人、木工が二人、運搬を手伝う者が必要だ。王都からの指示を待てば、街はその前に干上がる」


「また命令か?」


「違う。手を貸してほしい」


 静かな声だった。


 リゼットは隣で、彼の横顔を見ていた。以前のユアンなら、必要な人員を割り当て、従わない者には罰則を示しただろう。けれど今、彼は印を失ったことで、失ってはいけないものを得ていた。


 住民の後ろから、鍛冶屋の娘が手を挙げた。


「私は鉄の留め具を作れる。お父さんの工房も使っていい」


「俺は石を運ぶ」


「うちは昼の食事を出すよ」


 声が一つ、また一つと重なった。


 リゼットは水路図を広げた。


「北水路は、倉庫裏の分岐で詰まっています。そこを開けるだけでは、南側へ水が流れません。古い堰板を外し、二本目の溝を補修する必要があります」


 職人たちが図をのぞき込んだ。


「この線は誰が引いた?」


「私です。音の記憶と、残っていた水門図を重ねました」


「音が道を教えるのかい」


 年老いた石工が尋ねた。


「音だけではありません。図と証言と、今ある石の形を確かめました。私の力が間違うこともあります」


 リゼットははっきりと言った。


「だから、皆さんの目と手で確かめてください」


 その言葉に、石工は頷いた。


「それなら、使える図だ」


 作業はすぐに始まった。


 リゼットは子どもたちに、水路沿いの小石を拾わせた。水の流れを塞ぐ石には白い印をつけ、動かしてよい石には青い布を結ぶ。職人たちは崩れた壁を調べ、ユアンは誰がどこで何をするかを紙に書き込んだ。


 けれど彼は、命令書の形では書かなかった。


 手伝える時間、運べる重さ、家に残る者の都合。ひとりずつ聞き、それを作業の順番に変えていった。


 昼過ぎ、古い堰板を持ち上げる作業で意見が割れた。


「先に南側を閉じるべきです」


 リゼットが言った。


「北を開ければ、詰まりが一気に流れる。堰板が壊れるかもしれない」


「壊れた場合は?」


「水路の外へ逃がす溝を掘る」


「その溝は、今の人数では間に合いません」


 ユアンは図を見た。以前なら、即座に自分の判断を押し通していただろう。だが、彼は顔を上げ、周囲の職人たちに尋ねた。


「どちらが安全だ?」


 石工たちは話し合い、やがて鍛冶屋の娘が答えた。


「南側を先に閉じる。留め具を補強すれば、北を少しずつ開けられる」


「その案でいこう」


 ユアンが言うと、リゼットは彼を見た。


「私の案を退けましたね」


「君の案は危険が大きい」


「以前なら、私の意見を聞いたまま実行していました」


「以前の私は、聞くことと従うことを混同していた」


 ユアンは淡々と続けた。


「君は水の記憶を読む。私は人の動きを見る。どちらか一方では、また失敗する」


 胸の奥で、何かが小さく震えた。


 それは鐘の残響ではなかった。自分の中に生まれた、確かな音だった。


 夕暮れ、補強された堰板がゆっくり持ち上がった。


 最初は濁った水が細く流れ、次第に溝いっぱいへ広がっていく。子どもたちが歓声を上げ、職人たちは泥だらけの手を空へ掲げた。


 リゼットは水路の縁にしゃがみ、水面へ指を浸した。


 冷たい。


 けれど、その冷たさは過去の誰かが残した記憶ではない。今ここにいる人々が、自分の手で取り戻した水だった。


「聞こえるか」


 ユアンが隣に立った。


「ええ」


「何が?」


「皆の足音です」


 水の音に混じって、石を運ぶ音、笑い声、鉄を打つ音が響いている。かつてこの街から奪われたものを、住民たちは一つずつ取り戻していた。


 ユアンは空になった自分の手を見た。


「印がなくても、代官と呼ばれるだろうか」


「呼ばせたいのですか?」


「いや」


 彼は水路の流れを見つめた。


「呼ばれなくても、ここにいる理由があればいい」


 リゼットは頷いた。


「なら、私もここにいます。雇われた調査員としてではなく」


「分かっている」


 ユアンは彼女へ視線を向けた。


「君はもう、私の依頼を受けているだけの人ではない」


 その言葉は、命令よりも強く、印章よりも重かった。


 夜になると、街のあちこちで小さな灯りがともった。壊れた大時計はまだ沈黙している。秘密組合も、ヴァルドも、完全に裁かれたわけではない。


 それでも水は流れた。


 印を失った代官と、罪を着せられた娘は、住民たちの間に並んで歩いた。


 明日も修復は続く。


 二人はもう、誰かに与えられた役目を待ってはいなかった。自分たちで選んだ場所を、自分たちの手で守り始めていた。

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