忘れることと救うこと
製粉所の地下は、濁流の音で満ちていた。
階段を下りるたび、壁の隙間から水が噴き出してくる。足元の石は滑り、古い粉挽き機の残骸が流れに押されて軋んでいた。
「中央扉はどこだ」
ユアンが叫ぶ。
リゼットは目を閉じた。水音の奥に、かすかな金属音がある。鐘の残響と同じ音だった。けれど、聞き取ろうとした瞬間、頭の奥が鋭く痛んだ。
「右です。壁の向こうに空洞がある」
二人は崩れかけた壁を迂回し、地下水路へ入った。天井は低く、黒い水が腰まで迫っている。水路の先で、巨大な鉄扉が激しく震えていた。
三つある分水扉の中央。
扉を閉じるための歯車は、すでに半分ほど水に呑まれている。鎖は切られ、操作用の輪も錆びついていた。
「手で回すしかないな」
ユアンが輪に手をかける。
「待ってください」
リゼットは水路の壁に触れた。
音が、記憶を運んできた。
暗い地下。灯りを掲げる男たち。水門を開く音。木箱を運ぶ荷車。そして、その場に立っていた一人の少年。
少年は怯えた顔で、誰かを見上げていた。
師匠だった。
まだ若く、何も知らなかった頃の師匠。隣に立つ男が帳簿を差し出し、彼の手を無理やり印に押しつけている。師匠は何度も首を振っていた。
その姿を見た瞬間、リゼットの胸に別の記憶が重なった。
雨の夜、師匠が自分に毛布を掛けてくれたこと。
初めて音の記憶を読んだ日、震える手を握ってくれたこと。
そして、記録に署名しろと命じたこと。
優しい声と、冷たい声が一つになり、頭の中で鐘のように鳴り響く。
「リゼット!」
ユアンの声が遠くなる。
記憶を深く読めば、扉の仕組みが分かる。けれど、その代わりに何かが失われる。
リゼットには分かっていた。
この力は、過去を覗くだけのものではない。音に残った記憶を自分の中へ取り込むことだ。強い記憶ほど、彼女自身の記憶を押しのける。
それでも、手を離せなかった。
「リゼット、やめろ!」
「閉じ方が分かります」
「君が壊れる」
「街が壊れるより、ましです」
「そんな言い方をするな!」
ユアンの手が肩に触れた。水の中でも、その温度だけははっきり伝わった。
「君一人の犠牲で救う街なら、俺は欲しくない」
「一人ではありません」
リゼットは苦しさに息を詰まらせながら、彼を見た。
「あなたがいる。住民がいる。みんなが、ここで生きようとしている。だから私は、私の意思で決めます」
ユアンは何かを言おうとした。しかし、濁流が大きくうねり、鉄扉がさらに開いた。
リゼットは壁へ両手を押しつけた。
音の奥へ沈んでいく。
師匠の姿が薄れた。顔がぼやけ、声が遠ざかる。毛布の重さも、雨の匂いも、もう掴めない。
忘れたくない。
そう思ったのに、記憶は指の間からこぼれる砂のように消えていった。
代わりに、水路の全体が頭の中へ流れ込んできた。
中央扉の歯車は逆回転している。左の補助輪を二度、右の鎖を一度引けば、圧力が逃げる。だが、最後に内側の留め金を外さなければならない。
「ユアン! 左の輪を二度、右の鎖を一度! そのあと、中央の留め金を外して!」
ユアンは迷わなかった。
「分かった!」
彼は水に身を沈め、輪へ取りついた。歯車が軋み、鉄の振動が骨まで響く。リゼットも鎖を引いた。手のひらが裂け、血が水に混じる。
一度。
二度。
右の鎖が跳ね上がった。
「今です!」
ユアンが留め金へ腕を伸ばす。水圧に身体をさらわれながらも、両手で鉄の棒をつかんだ。
「重い!」
「音を聞いて!」
リゼットは叫んだ。
「水が止まりたがっています!」
それは理屈ではなかった。水路の中に残る音が、彼女にはそう聞こえた。長く閉じ込められた水が、ようやく正しい場所へ戻ろうとしている。
ユアンが力を振り絞る。
留め金が外れた。
次の瞬間、中央扉が轟音を立てて閉じた。水は左右の分水路へ流れ込み、街へ向かっていた濁流の勢いが急速に弱まっていく。
静寂が訪れた。
リゼットは壁にもたれた。頭の中には、ぽっかりと穴が空いていた。
「終わった……?」
ユアンが水をかき分けて近づく。
「ああ。街は助かった」
「そうですか」
安心した途端、身体から力が抜けた。ユアンの腕が彼女を支える。
「師匠の顔が、思い出せません」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「名前も、声も……私に何を教えてくれたのかも、ところどころ分からない」
ユアンは何も言わず、彼女の額に手を当てた。
「忘れたものを、俺が覚えている」
「あなたは、師匠を知らないのに」
「君が話してくれたことなら、覚えている。これからも聞く」
リゼットは目を閉じた。
失った記憶は戻らない。けれど、すべてが消えたわけではなかった。師匠の手の温度は思い出せなくても、自分が誰かを救おうとしたことは残っている。
それは、誰かに与えられた力ではない。
自分で選んだ記憶だった。
地下水路の外から、住民たちの声が聞こえた。水が引いたのだ。遠くで、誰かが泣き、誰かが笑っている。
ユアンは彼女を抱き起こした。
「戻ろう。皆が待っている」
「はい」
リゼットは彼の肩を借りながら、階段へ向かった。
地上では、壊れた時計塔の鐘がもう鳴らなかった。
けれど、沈黙は敗北の音ではなかった。
奪われた水は戻り、街にはまだ明日が残っている。
リゼットは失ったものを胸の奥に感じながら、ユアンと共に濡れた石畳を歩いた。
忘れることは、消えることではない。
救うために差し出したものさえ、自分の選択として、これからの人生の中に残っていく。




