第78話 祝福を抱いて
夜明けのような夕焼けの空の中、イルミネーションの明かりがあちこちで灯りだす。それは偉大なる魔女の新生を祝う、優しい光。
「……よし、やるぜ」
ヴァイスヴァルトの家を目の前にして、テオドールは深く息を吸った。ハイドとアドムの手を取って、あの時練習したイメージ通りに自身を家と一体化させる。ニコラウスが、アリリオが、キョースケが、ここで見守っている。首都ではエドゥアルトが、ジキルが、ジェンティアが、ムハンマドが、アーサーが、彼女を待っている。
家が、森が、帝国が、民が、世界が、姉に祝福を与える。
「『おはよう、姉さん』」
それは百年の時を超えて再会して、共に戦った姉を起こすテオドールの、あの日姉に教えてもらった幸せの続きを描けなかったセオドアの、帝国で……世界で一番優しい目覚まし。黎明を告げる声。
やっと彼女が目を覚ますのだ。孤独な戦いという百年の夢を見ていた彼女が、その夢の中で罪悪感に苛まれていた彼女が、魔女ではないあの時の無垢な少女のまま。孤独なだけの生の苦しみなんて捨てて、これから愛する人たちと苦しみながらも充実した生を歩むために。
ツィトリンが光に包まれる。温かなゆりかご、温かなまなざし。苦しみを閉じ込めた小さな欠片だけを残して、それは人の形となる。長いブロンドの髪、ツィトリンのひび割れもない陶器のような肌、長く影を落とすまつ毛、すらりと伸びる手足。どれをとっても人形のような美しい少女。その覚醒を見守るハイドの目は海のザフィーアから艷やかな黒へ、アドムの目は炎のグラナートから柔らかな赤茶色へ。
そしてテオドールの目は黎明のアメトリンから、彼女と同じターコイズブルーへ。
「……あ」
薄く色づいた唇が震え、無垢なターコイズブルーの瞳がテオドールを捕らえる。鈴を転がすような声が漏れる。
帝国祭、賑やかな首都の声がヴァイスヴァルトまで微かに聞こえる中で彼女は目を覚ましたのだった。彼女の本来の姿で、器として押し付けられた孤独と生の苦しみを排した、テオドールと同じ年のただの少女として。テオドールの双子の姉として。
「セオ? それにデイヴィッド、ナジフ? ここはどこなの? 明るくてにぎやかね、なんだかとても楽しそう」
でも、どうして泣いているの?
「姉さん」
テオドールは彼女を抱きしめた。柔らかなブロンドの髪が涙で濡れてゆく。
「どうしたのセオ、泣かないで? この人たちはだあれ?」
フラビオを閉じ込めたツィトリンの欠片。そこには彼女の百年分の孤独と苦痛が共に閉じ込められていた。
ユートピア計画が完全に終わりを告げ、フラビオの魂の影響が消えたおかげでこの欠片はもうセシリアの一部ではない。だからこそ、彼女の百年の記憶が消えるのはわかっていたことだった。テオドールたちも、彼女自身も。
『もう疲れたの。生の苦しみを背負ったまま生きるのは』
かつての黄金の瞳がそう言ったのを覚えている。テオドールだって、姉にこれ以上苦しんでほしくなかった。
「……あのな、姉さん。俺たちはあの皇帝の計画から逃げることができたんだ。百年かかったけど、勝ったんだよ」
「皇帝……計画? 百年?」
「いいんだ、いいんだよ、もうあんたは苦しまなくて」
セシリアは混乱しているようだったが、その目からは大粒の涙があふれ出した。それはまるで、宝石のような。
「なんだか、よくわからないけど……頑張ったのね、テオ」
セシリアが微笑む。それだけで、セオドアの苦痛もテオドールの悲しみも、全部報われた気がした。
「あら、私どうして『テオ』なんて……セオはセオなのにね。変だわ、なんだか」
「テオでいい。ここはプレンシアだ。あんたを傷つける貴族はいない。ここにいるのは俺の、俺たちの友達だけだよ」
ほら、とテオドールは抱きしめていたセシリアを解放する。
「お友達?」
「うむ。セシリア、おれたちは……そうだ、名前を新しくしたんだ。おれのことはアドムと呼んでくれ。ナジフよりかっこいいだろ」
「オレも、ハイドと。そうだな、デイヴィッドよりも短くて良い」
「俺ははじめましてになりますかね、アリリオって言います」
「僕はキョースケ。セシリア、よろしくね」
四人に続いてニコラウスがセシリアの手を取る。
「……俺はニコラウス。ニコラって呼んでよ、セシリア」
「まあ……」
セシリアの頬が花が咲くように色づいた。泣き出しそうな琥珀の瞳とターコイズブルーの瞳が交わる。眠りについた姫君を待っていた王子が、やっとその声を聞けた……そんな、恋愛小説の一幕のような。
「不思議。ナジフとデイヴィッドは知ってるけど、貴方たちも……初めて会った気がしないわ。ええ、よろしくねアドム、ハイド、アリリオ、キョースケ……ニコラ」
微笑んだその顔には、黄金のひび割れもなければ孤独の苦しみも無い。ただ目覚めた自分を待つ存在がいたことへの安心と、これからの生への期待で微笑んでいる。
「おい、いつまで姉さんの手にぎってんだニコラ。殿下……お前の兄様に言いつけるぞ」
「そ、それだけは! でも離さない!」
「でんかってだあれ?」
「あー、アーサー殿下って言ってな。あと義兄上とかジキルさんとかムハンマド公爵とか、ジェンティも紹介してやんねえとな。皆あんたを待ってるからさ」
「義兄…………? 私以外に貴方を弟にする人がいるの?」
「やべ、余計なこと言った」
「ねえテオ、だあれ義兄って。だれの? 貴方の?」
「色々あるんだよ! とりあえず行くぞ、帝国祭は夜が本番だぜ!」
魔女だろうがただの少女だろうが、彼女はやはりテオドールの姉なのだ。
そして周りにいるのもやはり、宝石眼の呪いを解くという目的がなくともテオドールの仲間であり、友達だった。
「姉さん、何食べたい? 今は砂糖をたくさん生産する技術もあるんだ、甘い物もたくさん食べられるぜ」
「パラチンタ、おすすめだよ。甘くて美味しいんだ」
「アラブリアのルゲマートもうまいぞ。ムハンマドのやつに百個ほど買わせようか」
「ダンゴもあるよ! もちもちなの!」
「イグリシアの出身でしたよね、スコーンも売ってますよ!」
「ふふ、素敵なものがたくさんあるのね。今夜は何かのお祝いなの?」
セシリアが隣でエスコートをするニコラウスに尋ねる。
「……君の夜明けをお祝いしてるんだよ。ほら、寒いからこれを羽織って」
厚手のコートがセシリアを包む。ほどよい重みと温かさに彼女は目を細めて、それを抱きしめるように手で軽く押さえる。
「口が上手なのね。ふふ……温かいわ」
「姉さん、俺のマフラーも貸すから」
「邪魔しないであげてくださいよテオ」
アリリオに腕を引かれて、テオドールは泣く泣くセシリアから離れる。
幸せな、温かな笑い声がこの森から首都へと向かう。
人の苦しみは四つある。病、老い、死……そして、生。そう、生きている限りつきまとうこの苦しみはもはや呪いの一種である。
では、それがなければ? あるいはそれを苦しみとして感じなければ? それこそまさに、人類の求める理想郷なのかもしれない。
はるか昔。とある帝国にも、民のため理想郷を求める皇帝がいた。
しかしその理想郷は残酷な犠牲のもとで生まれる、支配のための偽りのユートピアだった。立ち上がったのは一人の少女だった。しかし孤独と苦しみは、彼女を魔女へと変えてしまう。
少女の双子の弟は、そんな記憶もないままに無意識に彼女から与えられた愛をもって彼女を救ったのだ。それは百年の時を超えた、愛に始まり愛で続く物語。
彼らは強く美しい光を宿した……そう、まるで宝石のような瞳で笑い合った。




