第72話 約束
「デイ……ハイドー? お腹すいたわ、ご飯はなあに?」
疲れた、と大きく身体を伸ばしながらセシリアがとんとんと階段を降りてくる。
「ポトフだよ、セシリア。お疲れ様」
「本当に疲れたわ! でも貴方たちも忙しそうだったわね……何か来た? あ、ポトフならたくさんちょうだいな」
百年前にここで過ごしていた時のように生き生きとした、明るい様子で彼女は言う。少し前までの憂いを帯びた儚げな様子……それこそ雪と一緒に解けてしまいそうな魔女とは違う、楽しそうな顔にテオドールは心底良かったと思う。やはり姉には笑顔が一番似合うのだ。自分とほとんど同じ顔だが、やはり姉の方が綺麗で優しいのだ。
「あらテオ、なんだか雰囲気が…………ちょっと、その目」
テオドールのその金の瞳を認識するとセシリアの顔は一変した。慌ててテオドールに駆け寄ってきてその瞳をのぞき込む。やはり心配された。あまりにも予想通りの反応にテオドールは苦笑する。
「何をしたの? 無茶したんじゃないでしょうね?」
「あー……これは、うん、今から説明するから。まあ、お揃いってことだ。似合うだろ」
「当たり前よ! 似合うけど! 何でそうなったのか聞いてるのよ!」
座れ座れ、とテオドールはセシリアの背中を押して椅子に座らせた。セシリアはきょとんとした顔でテオドールの目と、ハイドが持ってきた大盛りのポトフを交互に見る。
「あんたが言ってたフラビオ捕獲の話、皆にも話したんだ」
「!」
「……やっぱさ、赤ん坊になっちまうのは……少なくとも俺らには耐えられねえなって。一緒に生きたいって、皆思ってる」
だから、この家と宝石眼の魔力を使って完全復活に近いことをしようって。
そう告げた時のセシリアの顔は、何を言っているのかわからないと言うような、あまりにも人間らしい、困惑の色に染まっていた。
「…………そんなこと、できるの?」
「ああ。この家は昔に俺が全部の魔力を注いだ場所で、今までその力で動いてた。で、アリリオ先生の指導のもとで俺はこの家の魔力を使えるようになった。それで今この目になってる。ニコラとキョースケの計算の結果、あんたはユートピア計画の残酷なところを知る前の『セシリア』に戻るような感じで復活できる……この百年とこの時代での俺らとの再会の記憶は、消えちまうけど」
セシリアは、嫌がるだろうか。
一気に説明して恐る恐る姉の顔を見たテオドールのアメトリンの瞳に映ったのは、ぽろぽろと雫を落とすツィトリンだった。
「げ、ちょっと、ごめんって姉さん! そこはどうしようもなかったんだよ、まだ時間はあるし、もうちょっと……」
「……っ、ちがうの、ちがうのよ…………う、うれしくて」
雪山でも泣いたのに、いやね。とセシリアは笑う。
「だって、私、ずっと一人で、苦しくて、怖くて……申し訳、なくて。でも、貴方たちは、私のために、こんな、考えてくれて……どうして? 私、貴方たちに、酷いことを」
「酷いことしたのはあんたじゃなくてフラビオだろ。理由なんて……そんなの、皆あんたが百年頑張ったのを知ってるからに決まってんだろ。あと俺は、あんたの弟だから。これ以上に、他に理由なんか必要か?」
セシリアも多分、同じ理由で今まで生きてきたのだろう。セオドアの、テオドールの姉だから。今度こそ弟に幸せな世界を与えるために。ならば理由は十分すぎるはずだ。
「オレも、君の親友だからという理由で納得してもらえるかな。それでも納得できなければ命を二度も助けてもらったことを出そう」
「右に同じ、だ。アイは注いだ分だけ返ってくるものだぞ、ツィトリン。おれたちがおまえのアイに報いたいと思ったということだ」
『俺の魂を守ってくれたお礼も兼ねてですよ! あとお友達になってくれたので!』
「僕がテオドールたちに出会えたのも、ハイドがあの時助かったのも、セシリアのおかげでしょ?」
「そなたも余の帝国の民なら当然だ。魔女でも少女でも、助けさせてくれ」
「テオの姉なら僕の義姉……あるいは義妹みたいなものだよ。君は嫌がるかもしれないけどね」
「…………俺が君のためなら何でもできるっていうのは、今更でしょ?」
ほらみろ、とテオドールは自慢げに微笑む。セシリアは震える唇を少しだけ開く。
「…………ありがとう……で、いいのかしら。こんな言葉で、返しきれないと思うのだけど」
「十分すぎる対価だぜ。ムハンマド商会の創設者もおつりを寄越すくらいだ、なあアドム?」
「まったくだな」
小さな笑い声が漏れる。テオドールが一番好きな、姉の笑い声。これが聞けただけで良かったというものだ。
「あんたが忘れても、俺らは覚えてるからさ。あんたは安心して苦しみを手放してくれよ」
「……ええ、本当に……ありがとう。この数日のことを忘れるのはさみしいけれど……皆がまたお友達になってくれるなら怖くはないわ。それに私も、まだ貴方の姉さんでいたい。まだ貴方たちと同じ時を生きたい」
「そうこないとな」
「! そうだわ、ねえテオ、耳を貸して」
セシリアが口元に手を添える。テオドールは少しかがんで耳を寄せた。少しだけ戸惑うような、照れたような言葉が紡がれる。
「ニコラにね、後で言っておいて。私の記憶が無くなっても構わず口説いてちょうだいって」
「…………直接言えよ」
「いやよ、恥ずかしいわ。ちゃんと後で言うのよ、後でっていうのは全部終わってからってことだからね?」
「ああ、はいはい。姉さんのお願いなら何でも聞きますよっと」
セシリアは頬を染めて、少しだけうつむいている。
ニコラウスが聞いたら泣いて喜ぶと思うのだが、乙女のような顔をして恥じらう姉の心をすぐに教えてしまうほどテオドールはデリカシーのない弟ではないのだ。とはいえ、早く成就してくれという気持ちもある。
まったく、新文明の「テオドール」も旧文明の「セオドア」も抱いたことがないような複雑な気分だ。最愛の姉と、最高の親友。どちらに嫉妬すれば良いのやら。二人とも幸せならばそれがテオドールにとっての幸せでもあるのだろうが。
どちらにせよ、姉が全部終わってからという未来を信じてくれたのが嬉しかった。テオドールたちが導き出した答えを選んでくれたのが嬉しかった。
「……なんか、セシリアが可愛いことを言ってる気がするのは俺だけ?」
「お前だけお前だけ。姉さんは俺の姉さんだから変な目で見んな。眼鏡を外すな」
「酷い!」
どうせ、全てが終わった幸せな世界できっとセシリアはニコラウスの手を取るのだ。ならば今だけはセシリアをテオドールの姉のままでいさせてくれと、ニコラウスをテオドールの親友のままでいさせてくれと願うくらいは許してほしい。もっとも、お節介な二人のことだ。どんな形であれテオドールのことを放っておいてはくれないだろうということはわかっていた。
「とにかく、この作戦でいこうと思う。姉さんも準備ができたら教えてくれ」
「ええ、私も頑張るわ。早く終わらせちゃいましょう、もう四日もいらないかもね……それで、フラビオにはどうやって近づこうかって話だけれど」
「ああ、それならもう考えてあるから安心されよセシリア嬢」
アーサーが立ち上がり、ふっと笑う。
「テオドール・リーフェンシュタール。そなたのその瞳の変化は丁度良い。わざわざ新文明の偉大なる発明……『こんたくと』を取り寄せずに済んだからな」
「殿下、それはどういう」
「…………そなた、セシリア嬢になりきれ」
帝国の太陽、第一皇子、ニコラウスの異母兄。
テオドールは少なくとも今すぐに彼の口から放たれたひと言を理解することはできなかった。
「……はい?」




