第61話 最期の抵抗
暗い森の中を一人歩いていると、後ろから追いかけてくる誰かの足音が聞こえた。
「セオ! 待って、セオ……」
「……! 姉さん」
セシリアは呼吸を整えて、それから必死な顔でセオドアを見つめる。
「ねえ、セオ。貴方が貴族やお金持ちを嫌っているのはわかってるわ。それは私たちがリーフェンシュタールに見捨てられたからで……私が、何度も貴族に襲われそうになったからでしょう? 貴方は優しいから……」
確かにそうだった。セオドアは貴族や金持ちが嫌いだ。両親を見捨て、実姉を手籠めにしようとし、その権力と財力で己の醜い行動を隠そうとする。
「でも、デイヴィッドもナジフも良い人よ。デイヴィッドは貴族だけど、庶子で……不遇な扱いを受けたって言っていた。それにナジフから聞いたの。デイヴィッドの領地の人はいつも野菜や果物を配給されてたって。彼が育てていたのよ。ナジフだってただの成金趣味じゃないわ。アラブリアにたくさん仲間がいて、その人たちと生き残るために大変だったって……」
「…………でも」
「ええ、無理に仲良くしなくてもいいの。でも……やっぱり、私は貴方がいないと寂しいわ」
わがままでごめんなさい、とセシリアが笑う。
一人で意地を張っているのが、馬鹿らしくなった。そうだ、そうだった。セシリアがこうして笑っていれば、それで良かったのだ。最初から、セオドアの望みはそれだった。
憎しみとは恐ろしい。本当の目的を、忘れてしまっていた。皮肉なことに、それを思い出させてくれたのが憎むべき側の者に与えられた、憎むべき者たちとの共同生活だったとは。
「……姉さんが言うなら」
「! ええ。帰りましょうセオ」
それから、一年ほど。
奇妙でありながらも幸せな生活を送っていた。森の奥の家。計画のために集められたことさえ忘れてしまうほど楽しい時間。デイヴィッドもナジフもセオドアを拒絶しなかった。セオドアの心の棘は徐々に消えていく気がした。こんな世界でも悪くはないかな、と。そう思えるようになった。
悲劇は、突然にやってきた。
「……っ」
「デイヴィッド?」
もう何度目かの魔宝石への魔力注入を行った日の夜。突然デイヴィッドが倒れたのだ。
「おい、大丈夫か!」
「…………っ、は、だい、じょうぶ、少し……目眩が」
「すごい熱よ、流行り病でももらってきちゃったのかもしれないわ」
「休んでいろデイヴィッド。あとはおれがやる」
デイヴィッドが片付けていた途中の皿をナジフがひょいと取り上げる。
それを見上げるデイヴィッドの瞳の色は、深い海の色に輝いていた。
「お前、それ、目……」
「え?」
その時まで、誰も気づかなかったのだ。
それぞれの瞳が、宝石のような色に変わっていることに。
依然として単なる石の見た目をした「覚醒前の魔宝石」とは対照的に、自分たちの瞳がまさに皇帝から言われた魔宝石の色へと変わっていることに。
デイヴィッドが死んだのは、それから数日後のことだった。この数日で彼の身体は青の宝石に侵食され、最後には完全なる蒼玉と成り果てた。
そして、セオドアも気づいていた。自分の身体もまた徐々に紫の宝石に蝕まれていると。
この計画は、やはり間違っていたのだ。今更になって気づいた。皇帝は自分たちを騙していた。魔宝石の覚醒なんて嘘……いや、嘘ではないのかもしれない。少なくともあの石は魔宝石ではない。魔宝石は……。
セオドアたち、自身だ。
「くそ、なんで気づかなかったんだ!」
セオドアはあの日と同じように、黙って家を出た。今度はセシリアに見つからないように。
魔宝石は、自分たち自身だ。皇帝のユートピア計画は、セオドアたち四人を生贄に完成されようとしていたのだ。デイヴィッドの覚醒させるはずだったザフィーアに「病」の苦しみを全て蓄積するという最初の説明通り、デイヴィッドは病に苦しんで死んだ。ならばセオドアやナジフ……セシリアも、同じように宝石と成り果てるのかもしれない。
せめて皇帝に、この計画を止めてもらおう。セシリアとナジフだけでも逃がすのだ。デイヴィッドの犠牲を無駄にはしない……そして、己の犠牲も。
「陛下!」
「おや、セオドア・ケインズ……どうしましたか? ああ、もう始まったのですね」
「あんた…………!」
フラビオは優雅に脚を組み、不気味なほどにさわやかに笑った。
「無駄ですよ。もうこれ以上は形式的な儀式にすぎない……この一年で、魔宝石の覚醒という目的は達成したのですよ。おめでとうございます!」
「……自分が何言ってるのか、わかってんのか」
「? 帝国のために死ねるなら本望でしょう? だからわざわざ『お金と交換できる人間』の中で魔力の強い四人を選んだんですから」
「! ……悪魔が!」
殺さなければ。この銀の悪魔を。
しかしセオドアはフラビオの魔法にあっけなく捕らえられた。指先一本、まるでゴミクズを捨てるような動きで。
「さようならセオドア・ケインズ。あなたがたの働きは、期待以上でしたよ」
良かったですね、最後に幸せな時間を手に入れられて。
「っ……」
もう、何もできないのだと悟った。
手遅れだったのだ。何もかも。
せめて、最初の時点で全てを拒絶することができていたら……いや、きっとできなかった。拒絶などすれば、皇帝自らに殺されていたかもしれない。
最初から、捨て駒だったのだから。
皇宮を追い出されたセオドアはふらふらと家に戻ろうとした。
歩いた道の草が、触れた花が、黒く染まり死んでゆく。ああ、自分も「死」の器になってしまったのだ。実感すれば、ますます黒く淀んだ負の感情が膨れ上がってゆく。
悔しかった。
殺してしまいたかった。
荒れ狂う心に、正気を失ってしまいそうだった。
しかし家に着いたとき、彼の心はふっと穏やかになったのだ。
蘇るのは苦痛の記憶ではなく、この家で過ごした一年間。皮肉なことに、このユートピア計画のお陰でセオドアは幸せな時間を手に入れていたのだ。
フラビオの、言う通り。
「…………ああ、そうだ」
一筋の希望が見えた。「生」の器となる姉ならば、どんな形でも命だけは助かるかもしれない。だとしたら。
器になってしまうくらいならば。
帝国のために死ぬくらいならば。
この力を、魔力を、苦しみを。残った姉と親友のために使えばセオドアは満足だ。
それは、きっとあの悪魔への復讐になる。
最後に遺書を書こうと思った。魔法で書くのではなく、きちんとした紙で。何年経っても残るように。何年経っても姉に届くように。
でも、「我が姉へ」と、そこまで書いてセオドアは手を止めた。
遺書なんて残せば、あの姉は追ってくるに違いない。幼い頃からいつだってセオドアを追ってきた、寂しがりやで弟思いの姉なのだ。誰よりも純粋で、自分なんかよりもずっと優しい姉が、弟の恨み言や後悔を知ればどんなに苦しむだろう。
セオドアは、こんなときでも姉の幸せを願っていた。
「デイヴィッド、俺もそっちに行くよ。ナジフ……もう遅いかもしれねえけど、お前もなんとか生き残ってくれ。姉さん…………セシリア。大好きだったよ、俺の家族。俺の半身」
残る全ての力を、この家のために。
もしもセシリアが、ナジフが、生き残れるのならば、この場所が守ってくれるように。
彼女が何年生きることになっても、ここで過ごせるように。
皇帝や貴族に、この家が見つからないように。
花が、木が、草が、枯れていく。
セオドア自身の命も、吸い取られていくようだった。
「じゃあな、くそみてえな世界。せいぜい姉さんとナジフを守ってくれよ」




