第55話 ただいま
「…………」
「……っ、あ」
悲惨な、あまりにも恐ろしいその真実を知り、全員が文字通り言葉を失った。
その沈黙を破ったのは……デイヴィッドだった。
「『ユートピア計画』…………セオドア、ナジフ、セシリア………………銀、銀の……悪魔…………フラビオ、フラビオ皇帝…………っ!」
「! おい、デイヴィッド!」
デイヴィッドが椅子から崩れ落ちる。禍々しい青の光がその瞳から漏れる。テオドールは身体が重くなるのを感じた。全身が痛い。
呪いだ。
「ああ、あ、痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い……っ、苦しい、苦しいよ、息が、できない……っ、セオドア、ナジフ、セシリア、なんで、なんで…………オレたちは、ただ……」
「しっかりしろ! ……っ、くそ、呪いが……」
まさかここにきて自分が呪いの被害を受けることになるとは。テオドールはどこか不思議な気分で、しかしなんとかデイヴィッドに近づいた。
逃げるわけにはいかない。また失うわけにはいかない。
「来ないで! 来ないでくれ、君はセオドアじゃない、君はナジフじゃない、君は、オレは、いやだ、誰も、傷つけたくない、離れて……っ」
それは、かつてのテオドールの叫びのようでもあった。
この森で自分を魔女として襲ってきた人間を、無意識に殺しかけてしまったあの時。ニコラウスと出会ったあの時。
誰も傷つけたくない。傷つきたくない。
その苦しみがまた、呪いへと変わるのだ。この呪いは、加護でもある、厄介なものだから。
「デイ、ヴィッド…………」
「あぁ、あ…………なんで、なんで来るんだ……!」
重い手を伸ばす。デイヴィッドに、あと少しで届く。
その時だった。
部屋の中に強い風が吹いた。心地の良い冷たさと、そして。
風に舞う、ネリネの花。
「……ハイド」
テオドールはその言葉を、名前を、絞り出した。
ネリネの花弁が、デイヴィッドの……ハイドの頭に、ひらりと舞い降りる。
☆☆☆
冷たい。暗い。身体が重い。でも、ひどく温かく穏やかな気持ちだった。思い出すのはネリネの花と、いとおしいあの森での日々。
満足だった。あの幸せな思い出を守って、人として命を終えることができたのなら。少しだけ惜しいのは、彼らの行く末を見届けることができないこと。彼らの旅路の終点に、自分がいないこと。
ハイドはもう気づいていた。彼らが自分を愛してくれていたことに。自分が彼らにとって大切な存在になれたことに。「いらない子」でも「九十六番」でもない、「ハイド」として、かけがえのない宝石となれていたことに。
『大事な人が死んじゃったら、どんな形であれまた会いたいって思うんじゃない?』
生まれ変わり、というものについて話していた時のニコラウスの言葉を思い出す。彼らはきっと、会いたいと思ってくれる。そう思えるほどには、ハイドは彼らの友達であった。
(……ああ、思い出した。オレは、『デイヴィッド』で……でも、『デイヴィッド』じゃない)
それは、ハイドという一人の人間の記憶。デイヴィッドとしての生を終え、新たに生きた男の記憶。
海に漂うような気分の中、誰かが彼の足を引っ張った。そして、囁く。
『でも君は罪人だ。だったら、忘れたままのほうが良いんじゃないか?』
『君はいらない子。デイヴィッドだって、この時代ではいらない存在』
『忘れたのか? キョースケの故郷を滅ぼしたのは君で、かつて自らの家の領地だったハーグリアを傷つけたのも君だ』
海の底から響いてくるような、引きずり込んでくるような声。
ジキルのものでも、かつての院長のものでも、ましてやキョースケのものでもない。
「……九十、六番」
その瞬間、黄金の光に包まれる。
気がつけばそこは海ではなかった。どこまでも白い部屋の中、目の前に立っていたのは小さな子ども。
みすぼらしくて、痩せていて、生きる力なんてまるでないような子ども。
『……君は『ハイド』? 『デイヴィッド』? どっちつかずの中途半端な存在なら、いっそいなくなったほうが楽だろう』
「…………それは、無理だな。『ハイド』にも『デイヴィッド』にも待っててくれる人がいる」
『……聞いただろう、残酷な過去を。百年前も現在も、君は使われるだけの存在に過ぎない。縛られて、利用されて、そうして死んでいく』
「……怖かったな。取り乱してしまった……でも、君の言っていることは一つ間違っているよ」
デイヴィッド、でもハイド、でもない……あるいは、どちらでもある彼は子どもを見つめた。そして、その目線に合わせてしゃがむ。
「少なくとも、『ハイド』は自分の最期を自分で決めた。だから、帰る場所も自分で決める。オレの帰る場所は、ヴァイスヴァルトのあのダイニングだから」
『…………勝手にすれば良い』
子どもが背中を向ける。彼はそれを引き留めて、自らの腕で抱きしめた。どちらのものかわからない温もりが、じんわりと胸に溶ける。
「帰ろう。皆待っているだろうから」
『……』
「『ハイド』も『デイヴィッド』も……『九十六番』も、『いらない子』も。全部オレだから。どれか一つでも欠けていたら、オレはここにいないよ……一緒に行こう。テオドールも、そう言ってくれただろう?」
腕の中の子どもが、頷いたような気がした。
景色が変わる。どこまでも続く青い海と、赤く燃える松明の炎。
そして、紫の……黎明の色をした空で、黄金に輝く太陽。
「……遅くなってすまなかったって、伝えないと」
誰に見せるわけでもなく、ただ自身のために。彼は笑った。
☆☆☆
「な、言っただろ。窓を全部開ける……カンキこそが『病』への対抗手段だと」
「だからってお前なあ、一か八かすぎだろ! これでどうにもなってなかったらどうするんだよ!」
「まあまあ。止められて良かったじゃん。テオがデイヴィッドの正気を保とうと頑張ってくれたおかげで俺たちが全部の窓を開けられたんだよ」
「そうですよ! でもまさか皆が部屋に飾ってたネリネの花びらが全部飛んでいっちゃうなんて……俺の保護魔法、甘かったみたいです」
「びっくりしたよぉ! ごめんね皆僕が全部一気に読み上げちゃったから!」
「泣くなよキョースケ、やっぱイグリシアまでのお前の演技って本心だったんじゃ」
賑やかな声が聞こえる。
そう、ここだ。ここに戻ってきたいとずっと願っていた。ハイドも、デイヴィッドも、いらない子と呼ばれた九十六番も。
「お、デイヴィッド! よかった、大丈夫か?」
「気分はどうだ? おまえは全く危なっかしい」
「………………テオドール、アドム」
ベッドから起き上がって、涙で震える声でその名を呼ぶ。
「ニコラウス、アリリオ……キョースケ」
「……デイヴィッド?」
「どうしたんですか、もしかして」
ザフィーアの所持者は、涙に濡れた顔で笑った。あの船上での笑顔よりも、記憶を失っていた時の笑顔よりも、ずっとずっと深い心からの喜びと、幸せを抱いて。
「ただいま」
「……っ! ハイド!」
キョースケが飛びついてくる。その小さな体をそっと受け止めると、わんわん泣いて強く抱きしめてきた。
「ハイド、ハイド、ごめんなさい。僕、大嫌いなんて言って、本当は違くて、大好きで、だって、ハイド……ハイドぉ」
「本当に、ハイドなの? まさか、さっきので……」
「ハイド……貴方って人は、本当に…………!」
「うん……心配かけて、遅くなって、ごめんな」
ハイド。その名前が、やっぱり一番好きだった。ヴァイスヴァルトの皆が呼んでくれる、親友としての名前。デイヴィッドとして生きたことを否定するわけではないが、名乗るなら一番好きな名前が良い。
号泣するキョースケを撫でていると、不意に肩に重いものが乗ってきた。
「……馬鹿野郎、一人で勝手にいなくなってさ……忘れないでって言ったくせにお前が忘れてさ」
「全くだ、馬鹿者阿呆あんぽんたん……キョーハンシャを見捨てた代償はそれなりに払ってもらうぞ」
「…………ごめん、ごめんな、皆」
「ごめんじゃねえよ、他に言うことあるだろ! ほら」
テオドールに背中を叩かれて、ハイドは前を向く。
温かな空気。大好きな、そして大好きと言ってくれる友人。
「待っててくれて、ありがとう」
「おう、おかえり」
「うむ」
「おかえり。無事で本当に良かった」
「おかえりなさい! ハイド!」
「おかえりハイド……生きててくれて、僕を許してくれて、ありがとう」
旧文明の残酷な真実は依然として彼らの前に待っている。
しかし、今はまだこの再会の時間を大切にしていたい。それでこそ、立ち向かう勇気が出てくるはずだから。




