第44話 青い希望
「ジキル・ロルバッハが爵位を返還……?」
わけがわからない。生きていたこと自体も驚きだが、爵位を返還とは。一体何を考えているのだろう。本当にテオドールたちと船上で対峙したジキル・ロルバッハなのか?
混乱したまま、見出しに続く文章を読み上げる。
「『ロルバッハ公爵家は七の月二十八日に突然爵位を返還、皇帝陛下はこれを承認したことが判明した。当主のジキル元公爵は現在ヒノモト地区で医薬品の開発を……』って、ヒノモト⁉ あいつヒノモトにいるのか⁉」
「そうなんだよ、僕もさっきトクガワ伯爵にこの新聞を渡されて初めて知ったんだ。まさかジキル・ロルバッハ卿が生きていたなんて……しかも、ヒノモトに。医薬品開発なんて嫌な予感しかしないけど、トクガワ伯爵は中央町の厄災復興が一気に進んだって感謝していた」
七の月二十八日。今日が八の月三日だから、数日はヒノモトに居座っているわけだ。
また善人のふりをして裏で非道な実験を行っているのだろうか。だとしたらまたヒノモトが被害に遭う。
テオドールはヒノモトの独特の文化や景色が好きだ。豊かな自然も、それを表す言葉のしみじみとした感じも。
ヒノモトを……キョースケの故郷を、またジキルに奪わせるわけにはいかない。
「ジキルの野郎のところに行ってやろうぜ」
「賛成。あの時の落とし前つけさせてもらわないとね」
「……そう言うと思ったよ」
エドゥアルトが上着を羽織り直す。
「行こう、善は急げだ」
☆☆☆
トクガワ伯爵邸から町に降りていく。ジキル・ロルバッハは少し外れたところの、随分粗末な小屋に住んでいるとのことだった。
「……ここにあいつが」
「入ろうか」
エドゥアルトが最初に扉を開ける。
薄暗い部屋の中に微かな明かり。机に座り何かを熱心に書いている後ろ姿は、まさしくあの船上でハイドと共に海へと落ちた男……ジキル・ロルバッハだった。
彼はものを書く手を止め、ゆっくりと後ろを向く。
「………………やあ、来ると思っていたよ」
「てめえ……っ!」
「待ちなさいテオ。ジキル・ロルバッハ卿、まさか忘れたわけではないよね」
「……」
ジキルは力無く微笑んだ。
そして、立ち上がる。あろうことか彼は、深々と腰を折り、真摯にこう言ったのだった。
「何と詫びれば良いのかわからない。キミたちのことも、あの子……ハイドのことも」
「……何言ってるんだ、お前」
「信じられないのもよくわかる。ただ、どうかボクの話を聞いてほしい。きっとキミたちにとって大きな手がかりとなるはずだから」
目の前のジキルは、悪魔のような微笑みを浮かべてハイドを罵ったあの男には見えなかった。憑き物が取れたような様子で、ただ真剣にテオドールたちを見ている。
一行はどんな顔をすればいいのか、どんな言葉をかければいいのかわからなかった。
今更何なんだ。また善人面か。あの船での出来事を俺たちは忘れていない。
軽々しく、ハイドの名を呼ぶんじゃない。
「…………テオ、どうする?」
「…………」
エドゥアルトが腰の剣を抜こうと手をかける。
手がかり。それが、魔女に関わるもの、あるいは旧文明の真実に関わるものだとしたら。ここで殺してしまってはその手がかりは永遠に闇に葬られることになるだろう。
何よりも、今のジキルには死よりも苦しい生の方がお似合いかもしれない。
「言ってみろよ、その手がかり。嘘だったりくだらねえ話だったりしたら殺す」
「ああ、ありがとう。不愉快ならすぐに首をはねてくれてかまわない」
「てめえの存在が不愉快極まりねえけどな」
テオドールがそう言って睨むと、ジキルは困ったような、悲しそうな顔で微笑した。
ハイドの笑い方とよく似ているのが腹立たしかった。ハイドがやっと笑うようになった、あの時の笑い方。困ったように、けれど確かに笑顔を見せてくれたのに。それを奪った本人が、こんな顔をするなんて。
本当は今すぐ殺してやりたい。胸ぐらをつかんで、殴って、切り裂いてやりたい。でもテオドールは何とか自分の感情を抑えた。宝石眼の呪いが発動してしまったら、周りの皆も巻き込むことになる。アドムも同じように、拳を強く握っていた。
「…………ボクは、貴族学校にいたときは医療の研究をしていて……卒業後に、魔法の研究に手を出した。エドゥアルト、科が違ったからキミは知らないかもしれないけれどボクらは同級生だったんだ。まあ、キミたちはそんなことはどうでもいいよね。禁忌たる魔法の研究に手を出したボクは、もともとロルバッハ家が経営していた孤児院で九十六番……ハイドに出会った。その時までの記憶は、はっきりしているんだ」
まるで夢を見ているようだったとジキルは語る。
自分の身体が自分のものではないような感覚と、現実が現実でないような感覚。貧しい地区では違法薬物が流行ることもある。それを使ったかのような、地に足のつかない、ふわふわと、ふらふらとした時間を過ごした。
「ボクがボクじゃなかったような期間に、ボクはあの非道な実験を行い続けた。信じてもらえないかもしれないけれど、証拠ならある。この実験記録……ところどころで九十六番を、『ハイド』でも『ザフィーア』でもない名前で書いているんだ」
本当に信じられなかった。都合が良すぎる。だが、嫌々ながらもその記録を見た瞬間、テオドールたちの背筋は凍った。
『デイヴィッド』
「デイヴィッド……ボクは時々、彼の名前をそう書いた。でもボクはそんな名前を知らない。明らかにあの子を指している記録に、知らない人の名前。ボクが無意識に違法薬物を使っていた可能性も無くはないけど、単なる幻では終わらせることができないかと思う」
デイヴィッド。ナジフの手記に記され、ケインズ家の壁に刻まれていた三つの名前の一つ。今最も情報の少ない人物だ。
「待て、まさかお前、何かに操られてたとでも言うのかよ! 魔女なのか? それとも、ツィトリンの……」
「……わからない。ごめんね、ボクも全てを覚えているわけじゃない。でもこれだけは信じてほしい。ツィトリンの所持者は違う」
「は? ツィトリンの所持者に会ったのか!?」
ジキルはテオドールに肩を揺さぶられながら、こくりと頷いた。
「あの時。あの子がボクを道連れに海へと身を投げた時……一瞬、黄金の光が見えて、気がついたらそこは海辺だった。その後のことはよく覚えていないけれど……それからだったんだ、ボクがボクを取り戻したのは」
テオドールは息を呑んだ。「生」の呪いを持つツィトリンの所持者はジキルを助けたと言うのか? いや、それよりも、もし今の話が本当なら。
「ハイドは…………生きてるのか?」
「どこにいるんだ、言え」
アドムがジキルに詰め寄る。
「ごめん、ごめんね、ボクはハイドがツィトリンの所持者に黄金の光を注がれているところしか見ていないから……どこにいるかは、わからない」
「…………ちっ、役立たずめ」
ふいと背中を向けるアドム。
しかしハイドが生きているかもしれないという希望は、一行にとっては黄金よりも明るい光だった。
当然だ。あんなに優しい人間が、死んでなるものか。死んではいけない。まだ伝えていないことがたくさんある。テオドールは「ありがとう」に応えてもいないのだ。
「……ハイドが」
「生きてるかもしれない……?」
「…………っ、やるじゃねえか、ニコラの初恋」
ツィトリンの所持者が、ハイドを生かしてくれているのならば。
それがどんな形であれ、ひとまずは喜ばしいことだ。もしもまた道具のように扱われていたならば、テオドールたちが連れ戻すまで。
『テオドール、あの時誘ってくれてありがとう』
もしかしたらテオドールは、ハイドに三回目の「一緒に行こう」を言えるかもしれない。いや、言わなければならない。
ニコラウスも、アリリオも、アドムも……キョースケも同じ気持ちだった。




