第37話 後悔と前進
テオドールの落ち葉を踏んで走る音が森にこだまする。朝の湿った空気の中、アドムは静かに歩いていた。
「アドム」
その寂しげな後ろ姿にテオドールが声をかけると、アドムは背を向けたまま立ち止まった。
「……すまんなアメテュスト、おれはまだ、ちびを許せそうにない」
淡々とした、しかしそこには決して怒りだけがあるわけではなかった。アドムは人間の本質を見抜く、洞察力に優れた男だ。己の感情だってよくわかっているだろう。だからこそテオドールたちと再び笑い合う気にはなれないのかもしれない。
アドムにとって、ハイドを死に至らせた原因であるキョースケを許すことは簡単ではないはずだ。そしておそらく、あのまま死なせてしまった、何もできなかった自分自身のことも。
ハイドはアドムにだけ、自身の身体のことを打ち明けていた。その身が呪いの侵食でだんだんと朽ち、そして果てるまで、アドムは見届けるつもりだったのだ。それが、こうも早く、あっけなく、文字通り消えてしまうとは。
思えばアドムが船に高級ベッドを置いてくれと、わざわざいつもは行かないリーフェンシュタール邸まで行ってエドゥアルトに要求したのも、ハイドのためだったのかもしれない。彼は彼なりに、ハイドの「わがまま」を尊重しながらも解決策を探していたのだ。少しでも長く、一緒に旅ができるように。
それがあんな形で終わったのだ。その虚しさ、やりきれない気持ちは計り知れない。テオドールは胸が締めつけられるようだった。
「おじじが死んだときも、こんな気持ちにはならなかった。死とはもっと穏やかなものだと思っていた」
「アドム……」
「おれは悔しいんだ。ちびも、ちびを止められなかったおれも、ゴクアクヒドウのロルバッハも……あんなことをして満足そうにいなくなったザフィーアも、許せんのだ」
少しだが、肩が震えている。
アドムは今まで、呪いを発動させることもなく、「ラハブ様」として崇められて生きていた。そこに多少の不自由さはあれど、そういう生き方をしていた彼はこの苦しみを乗り越えるには少し弱いのだろうか。
いや、そんなことはない。アドムだけではない。全員、ハイドという大切な存在を失い、平気でいられているわけがないのだ。テオドールだって、簡単に乗り越えられられるとは思っていない。それでも乗り越えようと思うことができるのは、ほかでもないハイドがテオドールたちの悲しみを望んでいなかったからだ。彼の望みはテオドールたちの幸せと、自分を「ハイド」という人間として覚えていてほしいというもの。実に彼らしいものだった。
アドムの言ったとおり、テオドールだってハイドのあんな終わり方に納得できているわけではなかった。しかし文句を言いたかったうちの一人は満足した顔で海の底へと溶けてゆき、もう一人は今可哀想なほどに強くあらねばならない状況にいるのだ。
「俺だって悔しいよ。俺が、キョースケに感じた違和感をほっとかなければ、こんなことにはならなかったかもしんねえ。それに、あいつの葛藤に気づいてやれなかった。何より……ハイドのやつ、俺に何にも教えてくれなかった。俺も、気づけなかった」
「は、どこまでも甘いなアメテュスト。ならばこの先おまえはまた『あのとき冷たくともキョースケを追い出せばよかった』などと言うことになるだろう」
その言葉はテオドールにとって一番痛い部分を突いてくるものだった。間違いない。この選択だって、また後悔を招くかもしれない。
再び誰かの命が失われるようなことがあったら? あるいは、死よりも苦しい生を余儀なくされたら? 今この時のテオドールの選択が、後の運命を左右するものだったとしたら? もちろん、テオドールだってそんなふうに考えなかったわけがない。そしてそれを恐ろしいと思うのもまた本音だった。
しばらくの間言葉が出なかった。それでも、テオドール自身が迷っているからではない。アドムにどう伝えれば良いのかわからなかったからだ。
少し考えて、テオドールは声を絞り出す。
「……そう、かもしれねえな」
「なら、どうして」
アドムがやっとこちらを見た。その表情は純粋な疑問と、苦痛と、それから少しの怒りが混ざっている。
「ハイドの願いだからだ」
沈黙。穏やかな風が、テオドールとアドムの頬を撫でるように吹いた。
紫の光と赤の光が交錯する。
「アドムお前、共犯者なんだろ。俺が見抜けなかったあいつの苦痛だって見抜いてたんだろ。なら、ならあいつが何を望んでたのかわかるだろ。あいつは心から、俺らの幸せを願ってた。お前にそんな顔させたかったわけじゃない」
「……」
「いつものお前っぽいこと言ってやろうか? 『カコだけで個人を決めるのは愚かだ。大事なのはゲンザイと、ミライだからな』……お前の気持ちもわかるよ。でも、時間は一方通行だ。俺らは過去には行けない。過去……キョースケも、ジキルも、俺も、お前も、ハイドも……許さなくても良いけどよ、その上で未来にちょっとでも希望を見いだしたほうがましだと思わねえか」
なあ、とテオドールはアドムの肩を揺さぶった。
自分でも、それが綺麗事であることくらいわかっていた。その言葉に力がこもっていたのはアドムを説得するためだけではないこともわかっていた。だからかもしれない。どちらもその宝石から一粒の雫が流れ出ていたのは。
アドムがテオドールから目をそらす。その視線は地面へ、空へ、そして再びテオドールに注がれる。
「…………なるほど、おれとあやつの共犯関係はまだ続いているというわけか」
ふ、とアドムが笑う。張り詰めた空気が、柔らかくなった気がした。
「あやつは最初からわかっていたのかもしれんな。ずるいやつだ、ザフィーア……そうだな、頭が冷えた。まだおれにはやらないといけないことがあるな。キョーハンシャとして、あやつの残した願いを叶えてやらんといかん。まったく、いなくなっても手のかかる」
「!」
アドムはテオドールを追い越して、あの家へと向かって歩き出した。それがテオドールにはたまらなく嬉しかった。
しかしアドムはふと立ち止まり、振り返る。その目はいたずらっぽく輝いていた。
「ところでアメテュスト、おまえはおれの真似がへたくそだな」
「は、う、うるせえな!」
「ぷくく、おれはあんな事言わんぞ。でもまあ、悪くはなかった」
「だろ」
いつものアドムの物言いに安心して、テオドールの肩の力はふっと抜けた。アドムも背負っていた重いものをやっと下ろすことができたようだった。ため息を一つつく。
「大事なのはゲンザイとミライ、か。それもそうだ……だが、もう少しだけ、カコの温もりの中にいても良いか。あやつの残したネリネの花の中に」
「……」
「なに、心配するな。朝飯は食べる。ちびのことだって無視するわけでもない。ただ、あやつについてツイオクする時間が欲しいだけだ。おまえだってそうだろう」
「…………ああ、そうだな」
風が心地良い。
海の匂いはしない。あるのは赤と紫の光で、あの青の光はもうそこに輝いてはいない。
それでも、やっと本当の意味で前を向ける気がした。現実を受け入れることができる気がした。五人で、今度こそ、本当の仲間として。ハイドが好きだった言葉であろう「友達」として。
アドムの言ったように、追憶の時間はきっと大切だ。
『忘れないでいてくれたらうれしいな』
「忘れねえよ、絶対」
「本当に、厄介な呪い……いや、祝福を残していったものだ。あやつは」
阿呆だな、とアドムは呟いた。




