第35話 居場所
プレンシアの港で待っていたエドゥアルトの顔を見た瞬間、沈黙していた一行の顔は悲しく歪んだ。
ハイドが、海の底に沈んでいった。
それからのことはよく覚えていない。ひどい喪失感と、冷たい怒りと、それから……世界で一番綺麗な青だけで、胸がいっぱいだった。
船上に残されたネリネだけが、生き生きと咲き誇っていた。
「テオ? 皆? 何が……」
「っ、あに、うえ」
堪えていたものが全て溢れ出してしまうようだった。
キョースケがハイドを恨んでいた。ジキル・ロルバッハが船に現れた。ハイドが、死んだ。
話さなければならないことはわかっていたのに、言葉よりも先に涙が出てしまって駄目だった。何から話せば良いのかも、なんて伝えれば良いのかもわからない。
どうして、世界は彼のような人間を奪うのだろう。不器用ながらも人を愛して、それでいてどこまでも優しい人だった。考えれば考えるほど感情がぐちゃぐちゃに掻き乱されるようだ。悲しいのか、悔しいのか、辛いのか……苦しいのか、わからない。
エドゥアルトはひとまずテオドールたちを屋敷に入れ、温かいお茶を出してくれた。
「……何があったのか、聞いてもいいかな」
口を開く。声がうまく出ない。それでも、話さなければいけない。この現実を、テオドール自身が受け入れるためにも。
「ハイドが」
ハイド。その名を呼んだだけであの船の上の記憶が憎いほど鮮やかに蘇る。まだあまり時間は経っていないはずなのに遠い昔のことのような、しかし同時に今目の前で起こった出来事のような気もして、言葉がまた出なくなる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、僕が、ハイドのことを」
「黙っていろちび。旦那、おれが説明する……ちびがロルバッハと繋がっていて、船の上でザフィーアを刺した。その後ロルバッハが来て、おれたちを魔法で拘束して、あやつはおれたちを庇って海に身を投げた」
「!」
しゃくり上げるキョースケを制止して、アドムは淡々と説明しようとしていた。しかしその声色は隠しきれない悲しみと怒りを孕んでいる。グラナートの瞳から流れ出すものを必死に堪えているようだった。
ニコラウスとアリリオ、そしてキョースケのすすり泣く声が部屋に響く。
「…………状況はわかった。そうか、ハイド君が……」
あの時、拘束から抜け出せていたならば。あの時、ハイドの腕を掴めたならば。あの時、宝石眼の呪いが発動していたのならば。
どうしようもないほどの後悔がテオドールを襲う。
「今日はここに泊まっていきなさい。キョースケ君、君からも少し話を聞こう」
「……はい、公爵」
キョースケは大人しかった。ただ泣くばかりで、その表情は憎しみの色に染まったものでも、殺意に満ちたものでもない。悲しみと、後悔でいっぱいだった。そんなキョースケを見たテオドールにも、その気持ちが痛いほど伝わってくるようだった。
☆☆☆
リーフェンシュタール邸のベッドはいつものアドムなら大喜びするであろう高級品だった。泥のように眠りにつける……なんてこともなく、テオドールは空虚な気持ちの中で眠ることができずにいた。
ハイドと出会ったあの日と同じだ。一番最初、ハイドはテオドールに名乗ることもしなければ一緒に行くつもりはないと拒絶さえしてきた。それが彼の、彼なりの優しさだったのだと今ならわかる。いや、あの後すぐにわかっていた。
『気に食わない奴だ。俺は嫌いなタイプだな、仲良くできねえ』
テオドール自身が最初に言った言葉だった。
そんなこと、なかった。あの日のテオドール自身を殴ってやりたい気分だった。彼は最初から優しい人だった。誰よりも純粋に人を信じて、自分をこれでもかというほど傷つけた世界を愛そうとした。
そうして、一人で決めて、一人でいなくなった。
「なんでだよ、本当にさ……」
悔しかった。
キョースケを止められなかったことも、ジキルに太刀打ちできなかったことも、ハイドに何も打ち明けてもらえなかったことも、全部、全部。
明日の朝食べるのは、ハイドの作った朝食ではない。それがひどく悲しかった。
「…………っ」
涙を拭う。勢いをつけて上体を起こす。
後悔していても何も始まらないのはよくわかっていた。世界を憎んでも、人を憎んでも、何も生まれないことも知っていた。この理不尽な世界でテオドールが学んだことは、踏み出した先に必ず光があること。闇の中の停滞より、わずかな光に縋るほうがましだ。
テオドールは部屋を出た。まだ明かりの漏れている部屋の中の声に聞き耳を立てる。エドゥアルトとキョースケの声がした。
「………………そっか。君の村はロルバッハ卿の実験で……そういう事情があったんだね。それに、ロルバッハ卿が君のことを唆していたとは」
「っ、でも僕、僕は、ハイドを……ハイドを、刺して、僕が、殺したんだ。それは、変わらなくて、僕が…………これから僕、どうすれば、もう、もう……僕に、居場所なんて」
それは昨日までの、無邪気な笑みを浮かべ続けるキョースケよりもずっと人間らしく見えた。やっと、本当のキョースケが見えた気がした。
「居場所、作れば良いだろ」
「テオ」
「……テオドール」
気づけば扉を開けていた。
テオドールは確かに、この子どもを救いたいと思っていた。影があるなら、救ってやりたいと思っていた。きっとそれはハイドも同じだったはずだ。彼がやっと手に入れた笑顔で最後に願ったのは、テオドールたちの幸せ。その中に、キョースケも含まれていたに違いない。
ならば、その願いを叶えること。それがテオドールにできることだ。
「お前はどうしたいんだよ、キョースケ。かわいこぶるんじゃねえぞ、お前の本音を言え」
自分でも、声が震えているのがわかった。
テオドール自身だって、まだ現実を受け入れきれていない。キョースケのことを許せるかどうかもわからない。でも、本当のキョースケと向き合いたい。そして、それがハイドの望みだったのであろうことはわかるのだ。
「……っ、僕、まだ、ヴァイスヴァルトにいたい。許してもらえなくてもいい。自己満足だと思ってくれてもいい。だから、償いを……させて」
その覚悟は幼い子どもが背負うにはあまりにも重い。そしておそらくキョースケはこの重みを理解しているのだろう。それでもその選択をした。
強い子だ、彼は。
「なら、逃げんなよ」
「……いいの?」
「ハイドはお前の幸せを願ってた。お前だって本当はハイドのこと、大好きだったんだろ」
「っ、うん、うん……ありがとう、テオドール」
この言葉は、嘘ではない。この表情も、この声も、本当のキョースケだから。
「ごめん義兄上、割り込んじまって」
「いや、テオが来てくれてよかったよ。キョースケ君、ヒノモトのことは今リーフェンシュタールが全力で復興支援をしてるから……定期的に報告するよ。だから君はヴァイスヴァルトで、テオたちの旅に尽力しなさい」
「ありがとう、ございます……公爵」
「エドゥアルトでいいよ。これから本当の君が頑張ってくれることを、期待してる」
テオドールはキョースケを抱き上げた。ハイドがしていたように。
「……本当に良かったの、テオドール。僕……」
「これ以上ごちゃごちゃ言うなよな。ニコラとかアリリオとか……アドムがなんて言うかわかんねえけど、俺と、お前が決めたんだ。疑われるかもしんねえし、前みたいには絶対にいかねえだろうけど、少なくとも俺はお前のこと信じることにするから。だから、お前もちゃんと信じてもらえるように努力しろよ」
「…………うん」
ありがとう、とキョースケはもう一度言った。
他の皆がどう思うかはわからない。争うことにもなるかもしれない。だが、ハイドが……誰よりも優しいザフィーアの所持者が与えてくれた祝福を背負って、テオドールたちは生きていかなければならないのだ。宝石眼の呪いを解いて、彼が守ってくれた命を、仲間を、守り続けなければならない。
テオドールの瞳は、少しだけ、光を取り戻した。




