第32話 船上
帰りの船の中では、それぞれがそれぞれの時間を楽しんでいた。
ニコラウスとアリリオはイグリシアで知ったことについてまとめなおし、テオドールは自分の過去の記憶を呼び覚まそうと昔を思い出すなどする。アドムとキョースケが疲れて眠るのを、ハイドが隣で静かに見守っていた。
「いやあ、なんにも思い出せねえ! 義兄上に聞いてみるか……」
「昔のアルバムはないのかアメテュスト」
「あー……って、お前起きてたのかよ」
アドムがぷくくと笑って起き上がる。
「いやはや、楽しい旅だったな。おれは初めておまえらと『オトマリ』とやらをしたぞ」
「いつもヴァイスヴァルトの家で泊まりみたいなものでしょう」
「これだから爆食皇子は。おまえは食い物さえあれば何でも良いと見た。こういう特別なタイケンが面白いんだ」
「あはは、イグリシアもプレンシアとはまた違う面白さがあるよね。今度皆でネイプルも行きたいなあ……テオと二人だった頃が懐かしいや」
ニコラウスと二人で始まった旅が、いつのまにか六人に増えてジェンティアやエドゥアルトという協力者もできた。かつてのテオドールなら考えられないことだ。「幸せな思い出」というネリネの花言葉はテオドールにも当てはまるのだろう。
「う、ハイドぉ……」
キョースケがうめき声を上げる。ハイドはネリネに向けていた瞳をキョースケへと移した。
「どうした?」
「酔ったかも」
「えっ」
「外の風に当たったらどうですか?」
「一人、いや! ハイドも!」
「わかったわかった……君たちはどうする?」
「しゃーねーな、俺も行くぜ」
「じゃ、俺も」
「俺も行きます! 海の香りですね」
「おれも行ってやらんでもない」
結局六人でぞろぞろとデッキへと出ることになった。潮風が心地よい。テオドールは手すりに腕を置いて広い海を見つめた。まだ少し明るい空に出たばかりの月、静かに揺れる水面……穏やかな景色だ。
「良いなあ、なんか」
「ね、えもいってやつ?」
「何それ」
「帝国学校で流行ってた言葉。割と何にでも使うよ」
瞼を閉じれば、海の音が聞こえてくる。キョースケはまだ気分が悪いのかぐずる子どものようにハイドにしがみついていた。
「ふぇ、気持ち悪い……」
「災難だな、ちび」
「ええん」
昼間にテオドールが感じたあの気配が嘘のように、キョースケは弱々しく嘆いている。それにテオドールはほっとする。
安心、してしまったのだ。
「大丈夫かキョースケ、少し体重を預けても良いから……」
「ありがとうハイド……えへへ、僕ね、ハイドのこと」
キョースケの目が、いや、表情が変わる。
昼間のあの気配だ。だがテオドールは気づいてしまった。キョースケがもうどうしようもなくハイドを離さない距離にいることに。
「大嫌いだよ」
「ハイド!」
テオドールの叫びとキョースケの「告白」が重なる。
「っ、か、は」
ハイドの口から鮮明な赤が流れ出す。キョースケはそれを冷たい目で見ていた。ハイドの横腹に刺した小刀を持って。
「は……」
「あははっ! 馬鹿だなあ、皆馬鹿。小さい子どもだからって警戒しなさすぎじゃない? 僕は武士……言ったでしょ、テオドール」
ああ、キョースケは気づいていたのだ。テオドールがキョースケを恐れていることも、きっとハイドが憂いていたことも。
「きょ、すけ、何を」
「ハイド! しっかりしてください!」
アリリオがキョースケをハイドから引き剥がす。キョースケはもう満足したのだろう、おとなしくその場を離れた。
「キョースケ、どういうつもり?」
「どうもなにも、最初からこのつもりだよ。僕はこの青い死神を殺しに来た」
その声色はいつもよりもずっと低く、憎しみに満ちていた。
「僕は伊藤恭介。ハイド、お前がその呪いで全員殺した村の生き残りだ」
「…………ぁ」
「思い出した? 人殺しのザフィーア。お前は罪人だよ。『面倒見が良くて料理の得意なハイド』の演技は楽しかった? 僕は楽しかったけれど」
一歩、また一歩、キョースケはハイドに歩み寄る。テオドールは動けなかった。あまりの衝撃に、今起こっていることが夢か現実かすらもはやわからなかったのだ。
「テオドール」
キョースケの言葉にテオドールは我に返る。
現実だった。信じたくない、しかし間違いない現実。
「ねえ、僕、約束は守ったよ。お前には恩があるからね、ちゃんとこの死神から解放してあげる。だってそうでしょ? こいつは悪魔だ、お前たちにどう言っていたのか知らないけど、善人の皮をかぶった悪魔で、死神」
「……嘘だ、ハイドはそんなやつじゃない」
「まだ騙されてる」
キョースケは呆れているようだった。
テオドールは知っている。ハイドがジキル・ロルバッハに全てを奪われ、自らを傷つけてまで強制的に呪いを使わせられていたこと。非道な実験に使われていたこと。
彼の作る料理が美味しいこと、常に誰かのために動いていること……友達という言葉にひどく嬉しそうに笑うこと。
「違う、キョースケ、お前の村が被害にあったのは本当だろうが、ハイドは」
「しつこいな。お前も殺してやろうか?」
いつのまにかテオドールの目の前でキョースケが小刀を突き立てている。
「……キョースケ」
「あは、嘘だよテオドール! お前は殺さない。僕の敵はこいつだけだからね」
名前を呼ぶのも虫酸が走る、とキョースケが苦虫を噛み潰したような表情でハイドを見る。
ザフィーアの瞳は苦しげに閉じられていた。出血がひどい。アリリオとニコラウスが手当てをしているがその手は震えていた。
「キョースケ、聞いてくれ、お前はハイドの過去を聞いたことが無いだろ?」
「だから? こいつの過去が何だって言うの? ああ、ヒノモトの村を病で滅ぼして、ハーグリアもだっけ? 人の苦しむ姿はあいつの青い瞳にさぞ滑稽に映っただろうね!」
「キョースケ!」
「やめろ、アメテュスト。今のちびに何を言っても無駄だ」
これまで何も言わずにキョースケを見ていたアドムが、ついにテオドールを制止して一歩出た。
「ちび、おまえは確かに最初から異様にザフィーアに懐いていた。そして、『おれに懐かなかった』」
「だから?」
「おれに懐かなかったのはわかる。おれはわかってしまうからな。だがいくら標的とはいえ、わざわざあんなにべたべたする必要があったのか?」
アドムとキョースケが睨み合う。静かな空間に、並の音だけが響く。
「……標的を油断させることが、不自然かな?」
「ふん、ならばおまえのそれについては不問としよう。だがな、おれは怒っているんだ」
空気が、変わる。
先程のキョースケの変化と同じくらい、いや、それよりも圧倒的な緊張感が船全体を襲った。アドムが見たことのない顔をしている。いつも飄々として、何を考えているかわからない……しかし他者の考えていることには敏感な彼の顔は、悲しみと怒りを混ぜて赤い瞳でキョースケを映していた。
「…………何、何なの! アドムお前は!」
「黙れ」
ぴく、とキョースケの肩が震える。
「おまえが復讐したい気持ちは大いにわかる。だがな、ザフィーアが他者の苦しむ姿を楽しむ人間だなどと戯言を抜かしたのは許さない。あやつはそんな人間ではない。おまえならわかるだろう。おれが人の本質を見抜くと。だからおまえはおれに近づかなかった。おまえはわかっているはずだ。本当におまえが憎むものを。それを突きつけられたくなかったんだろう」
「……僕が憎むものなんてあいつだけだよ。それ以外に何があるの? あいつは非道なやつだ。自らを傷つけてまで人を苦しめる愉快犯。それは変わらない」
「戯言を抜かすなと言っただろう!」
アドムの声が船内に響く。
こんなに大きな声を出すアドムを見たのは初めてだった。
「…………ならばなぜ、ザフィーアはあんな花を選んだんだ」
続けて発したアドムの言葉は、震えていた。




