第10話 月夜の蒼玉
その日の夜中。テオドールの目は冴えたままだった。昼のことが頭から離れなくて、ああは言ったものの倒れたあの青年がやはり気がかりで、気づけば彼が寝ているはずの部屋の扉に手をかけていた。
ベッドの上にあったのは、一枚の紙だった。
「……あいつ」
いつの間に起きていたのだろう、彼はいなかった。紙には端的に「助けてくれてありがとう」とだけ書いてあった。
ありがとうなんて言う人に見えなかったから驚いたが、すぐに怒りがわいてきた。こんな手紙一枚で、何も言わずに出ていくなんて。いや、怒る立場ではない。恩を返してほしくて助けたわけでも何でもないわけだから。それに、彼が宝石眼の所持者であったのも偶然。テオドールには何も言う権利は無いのだ。
しかしふと思い出す。彼はロルバッハに追われてここに来た身だ。行くあてはもちろんのこと、帰る場所もないのではないだろうか。ならば彼は一体、こんな寒空の中どこへ向かったと言うのだろう?
ただでさえ危険な呪われた宝石眼の持ち主で、その上意識を取り戻したあともまた倒れていたくらいに弱っていたのに。もっといえばここはプレンシア、彼の知らない土地だろう。一人で出ていってこの先どうなってしまうのか。
「……心配する義理なんてない」
口ではそう言いながらも、テオドールの足は小走りで彼を外へと連れ出すのだった。
ドアを開ければ冷たい風が体と、それから頭を冷やす。よく考えれば、こうして飛び出してきたところでいつ出ていっていたのかわからない以上もう遠くへ行ってしまっている可能性もある。
それでも、森の中で迷子になって凍えて死んでいました、なんてことになったらそれこそ恐ろしい。
「どこいったんだ? おーい」
森の中を少し歩くと、葉を踏むような音がもう一つ聞こえてきた。
誰かいる。こんな時間にここに部外者がいるわけがないからあの青年だろう。足早にそっちへ向かうと、幽霊のように頼りない、けれど確かに人影があった。
「何やってんだよ! こんな寒い中!」
「……テオドール?」
テオドールは青年の腕をつかんだ。風が森の中を通り抜ける。振り向いた彼の、月明かりに照らされた宝石眼が大きく見開かれた。それはあまりにも美しくて、恐ろしいほどだった。美しいものには毒がある……森で暮らしていたテオドールはそれを知っている。
ザフィーアの瞳は暗闇の中で一層輝いていた。テオドールもまた同じなのかもしれない。ただ、その青は話をした昼間よりも悲しみの色を孕んでいた。
「おう、テオドールだよ。どこ行くんだお前紙切れ一枚ばっか残して」
怒って問い詰めたつもりだったが、青年は無表情のままだった。それに苛立ちがまたつのる。彼にとっては余計なお世話なのかもしれないと、わかってはいたのに。
彼はというとテオドールを見つめて、小さく口を開いた。
「昼間……すまなかった」
「あ?」
「名乗りもしないで、嫌な言い方をしてしまって」
なんで今ここで昼間の話なんだよ、と突っ込みたくなったが青年は淡々と、いたって真面目な顔で続けようとするのでテオドールは何も言わずにただ彼の話を聞くことにした。
静かな夜のヴァイスヴァルトでは、青年の小さな声もよく聞こえる。
「君がこの呪いを解こうとしていることも、善意でオレを誘ってくれたこともわかっている。けれど本当にオレは君たちのところにいるべきではないんだ」
「どうして」
「……オレは、呪いを使いすぎた」
その言葉をテオドールがすぐに理解することはできなかった。呪いを使いすぎたと彼は言ったが、そもそも自分で呪いを使う、なんてことができるのだろうか? テオドールの呪いは、意思と無関係に発動するのに。
「君のがどうかは知らないが、オレの呪いはおそらく恐怖や痛みのような強い感情に応じて発動する。そしてそれは人に『病』をまき散らす……この呪いでオレは、たくさん人を傷つけてきた」
「……」
「ハーグリアの疫病流行も、オレのせいだ。詳しく話すと長くなるが……この宝石眼を、わざと悪用した。罪人であるオレを置いておくのは、君たちにとって不利益だよ」
宝石眼を悪用。そんなことは考えたこともなかった。目の前の彼がそんな恐ろしいことをしていたなんて想像もつかない。
彼はテオドールにとって良い人だとは言えない。が、にわかには信じられなかった。そんな、この力を悪用するほど性根の腐った人間だとは。
わざと宝石眼を悪用した罪人。だと言うならば、どうして彼はこんなにも悲しそうな、苦しそうな顔をしているのだろうか。
「ばかばかしい。わざわざ嫌な思いしてまでそんなことを?」
「……」
「お前がぶっ倒れてたのもそれのせいなんじゃねえの? お前が、ああなるのわかってて愉快犯みたいなことやってたっつーならとんだ馬鹿だな」
なんとなく、そうではないとわかっていた。昼間の彼は嫌な感じではあったが、根っからの悪人にはどうしても見えなかったから。
「俺の予想じゃ、誰かにやらされてた……その、お前を追ってるロルバッハとか。違うか?」
「 !」
「あんま言いたくないこともあるだろうし根掘り葉掘り聞かねえけどさ、ロルバッハって俺らのことも狙ってきたし、お前かロルバッハかでいったらロルバッハのほうが悪人だと思うんだ、俺は」
テオドールの言葉に青年はとても驚いたようだった。これは当たりだな、とテオドールは確信する。
ロルバッハの当主はテオドールを捕まえようとした。ジェンティアから聞いた情報も考えると、ロルバッハはザフィーアの所持者……つまりこの青年を使って疫病を蔓延させ、そこに医院や孤児院を建てて「救済」することで利益を出そうとしているのではないだろうか。いや、あるいは、もっと恐ろしいことを。
そんなところから逃げてきた彼を、見捨てるわけにはいかなかった。もう一度、もう一度だけ、今度はこの事情を踏まえたうえでテオドールは尋ねた。
「これ以上は聞かねえよ。昼間のリベンジだ、俺らと一緒に行かないか」
青年はまだ戸惑っているようだった。テオドールを見て、それからまた下を向いて、困ったようにまた言葉を発した。
「……でも、オレは、罪人ということを抜きにしても……身体が弱いし、何よりオレを追っているのはあのロルバッハだ、四大公爵家の一つ……」
「んなことわかってるよ、身体に関してはぶっ倒れてた時点で想像つくし、ロルバッハは俺らのことだって追ってる。その上で言ってんだよ」
ん、とあの日のニコラウスの真似をして手を出してみる。こんなところ見られたらからかわれるに決まっている。この場にニコラウスがいなくてよかったとテオドールは思った。
青年もまたおずおずとその手を出す。ひどく冷たい指先が触れて、昼間の隔たりは完全に無くなった。
昼間のあの言葉に、テオドールが思っていたような意味がなかったことはもうわかっていた。ただ純粋に、自分が足手まといとなることを、人を傷つけてしまうことを恐れていたゆえの言葉だったと、気づいてしまったら怒りの気持ちも失望も消えるしかなかった。彼は不器用な人間なのかもしれない。あるいは、強い感情に呼応する宝石眼を止めるため、せめて己の感情を押し殺していたのかもしれない。それを思うと、テオドールの胸は締め付けられるようだった。
「なあ、それでお前、本当は名前何ていうんだよ」
「…………………………ハイド。オレは、ハイドだよ」
青年……ハイドは相変わらず硬い顔をしているけれど、少しだけ、本当に少しだけ彼の口角が上がったような気がした。
「じゃ、帰るぞハイド。また倒れられたらたまったもんじゃねえ」
「……うん」
月影が照らす青い海は、今度こそ素直にテオドールについてきた。




