第2話
二 山内和希
絶対も、ずっとも、一生も。そんなのは存在しないと思う。絶対的な味方も、一生添い遂げるパートナーも、ずっと続く友情も。そんな不確かな言葉を信じていたのは、いつまでだろう。信じられなくなったのは、いつからだろう。馬鹿みたいになんでも信じていた頃に戻りたい。何も疑わずに、まっさらな感情でいられた頃に戻りたい。そうしてその頃の自分に言うんだ。自分の深い部分のことなんか、誰にも話すもんじゃないぞと。家族にも恋人にも友達にも。期待なんかするな、解ってもらえるかもなんて思うなって。どうせ他人なんだから。家族なんて他人同士の二人がなったもので、例え血がつながっていたとしても他人同士なんだから。
朝食のパンを少し硬めに焼いて、コーヒーにミルクをいれる。子どもの頃からブラックはどうしても飲めない。軽めの朝食を終えて、仕事の準備をする。今日は営業先を六件終えれば直帰だ。金曜日に直帰できるのは少しうれしい。営業先へ行く前には会議があるから少し早めに会社へ行かなければならない。今の職場に入社して五年。営業として配属されてから三年。それなりに仕事にはやりがいを感じている。営業成績もそれなりにいい。友人関係も順調だ。この間友人の一人に女の子を紹介されたときに断ってしまったから、恋人や好きな相手はいないけれど。というよりも、俺は恋愛感情がどんなものなのか分からない。他者に対してそういうものを抱いたことがない。世間では俺みたいな人間のことを『アロマンティック』と呼ぶらしい。
『アロマンティック』。他者に対して恋愛感情を抱かない人のこと。友情や家族愛などの他の形の愛情を持つことはある。
世間では、こういう定義になっているみたいだ。まさにその通りで、俺は恋愛感情こそ抱かないが友情も家族愛もわかる。しっかりと調べたのは最近になってからだけれど、アロマンティックのことを知って、腑に落ちた。名前もつかないようなものだと思っていた。俺はどこかおかしいのだとさえ思っていた。そう思っていたものに名前があると知った時、俺みたいな人間が他にもいるんだと知った時、俺は初めて神様がいるんじゃないかと思った。いつか、俺のこの感情を解ってくれる人と出会えるかもしれない。そう思った時、ほんの少しだけ生きてきてよかったと思った。
「和希~、飯行こうぜ」
午後の営業先へのまわり方を確認していたら同期の悠馬が俺の肩に腕をまわしながら、声をかけてきた。時計を見ると、正午過ぎ。少し急いで食べないと営業先へ間に合わない。悠馬といつも行く食堂へ行っていたら間に合わないかもしれない。今日は仕方ない。職場の中の食堂で食べることにしよう。
「悪い、今日は中でいいか?急いで食べないと間に合わないかもしれなくてさ」
顔の前で手を合わせる。悠馬は、頬をかきながら笑った。こいつが笑うとできるえくぼが俺は好きだったりする。
「じゃ、早く行こうぜ。何食おうかなあ、腹減った~」
俺がこの職場で働き続けているのは、悠馬がいるからって理由でもある。同期とは言ったが悠馬の方が少し早く入社している。俺は三か月遅れての入社だ。理由は骨折。入社式の前日に歩道橋の階段から落ちて全治三か月のけがを負った。そのせいで俺の入社は三か月遅れた。だから悠馬は同期と言うよりも先輩になるのだが、悠馬は同期として接してくれている。だから俺も、同じように接することにした。悠馬は気さくで、底抜けに明るい。営業部でもそれは発揮されて、成績は一位だ。
食堂に着いて俺は何にしようかとメニューを見る。カレー、生姜焼き、うどん…。どれも美味しそうだけれど、これから営業先をまわらなければいけないので、とんかつ定職にした。カレーやうどんよりはシャツに飛んだりしないだろう。悠馬はカレーの大盛りを頼んだ。食堂のおばちゃんとも仲がいいみたいだ。ご飯を待っている間に悠馬が思い出したかのように口を開いた。
「そういえばさ~、おれが紹介した子、好みじゃなかった?」
その話か…と一瞬ドキッとした。悠馬が今まで俺が恋人がいたことがないと知ってから、知り合いの子をちょくちょく紹介してくれるようになった。これで四回目だ。俺はこれまで全て断ってきている。今回もだ。好みじゃないとかそういう問題じゃないけれど、それを口にすることはこれからもないと思う。期待はしないと、俺は決めたからだ。悠馬がいい奴なのは分かっていてもそれでも話す気にはならない。
「うん、いや、今はいいかなって」
「今はって、もう二十六だろ~。まあ、和希が恋愛しようって気になったら言ってくれればまた紹介するからさ~」
悠馬がそう言い終えたところで俺たちの番号が呼ばれた。俺はとんかつ定職を。悠馬はカレーの大盛りを。それぞれテーブルに運ぶ。それから手を合わせてから食べ始める。壁にある時計を見ると、後二十分で出なければ間に合わない。俺は大口でとんかつにかぶりついた。肉厚なとんかつはジューシーで食べ応えがあってとても美味しい。急いでなければご飯を大盛りにしているはずだけれど、今日は普通盛で我慢だ。
十五分程度で食べ終えて、歯磨きを済ませて五分前に会社を出た。最初の営業先までは歩いて十分くらいだ。俺が初めて契約を結んでもらった会社だ。何度も歩いた道だ。特に気にするところもなく景色は流れていく。ところどころ設置してあるベンチにOLだろうか。どこかの会社の女性社員が並んでお弁当を広げている。見慣れた景色を流しながら歩いていると、目の前にひときわ大きな会社が現れた。ここが今から行く会社だ。腕時計を見るとピッタリ五分前。ふうと、一息吐いてから背筋を伸ばす。ネクタイが曲がっていないかも確認をして、受付で声をかけて待つ。ここからはいつも通りにプレゼンをする。それを六件終えて、あとは直帰するだけだ。今日の営業先はすべて引きつづき契約してもらうためのプレゼンだった。午後すべてを営業にまわしたから直帰とはいっても、定時を少し過ぎていたが最後の営業先がアパートから近かったので問題はない。この時期になると夕方の街はイルミネーションでキラキラとしているので、少し早歩きで歩く。こういうのには興味がないし、きっとこれから先も俺には縁がない。それにこの時期は特に人が多くなるので尚更だ。
アパートに帰ってきて、ただいまと呟きながらお風呂の湧き上げボタンを押す。それからこの時間に炊き上がるように設定しておいた炊飯器を開ける。炊き立ての白米が目の前に広がる。今日は何を食べようかと冷凍庫を開ける。物価高の影響で外食はもちろん、コンビニもたまにしか行けなくなった。金曜日のお昼だけは悠馬と一緒に食べに行くことにしているが、それ以外は弁当を持参している。夕食は冷凍してある作り置きを電子レンジであたためて食べている。おかげで料理の腕は上がった。俺の人生の中で、自分の作った料理を誰かに食べてもらうことなんてきっと、ないんだろうなと思う。それを以前は少し悲しく思ったけれど、今はもうなんとも思わない。仕方がないことなんだと割り切っている。誰かと恋愛関係に発展して同じ時間を過ごす想像を、俺はできない。誰かと生活をする想像なんてもっとできない。今日の夕飯は冷凍しておいたハンバーグだ。それと一緒に即席のスープを作る。玉ねぎのスープだ。ハンバーグは我ながらうまくできたと思う。中にチーズをいれたからそれもまた美味しさに拍車をかけている。
お昼は急いで食べたから夕飯くらいはゆっくり食べよう、と決めてゆっくり味わいながら食べ始める。テレビを点けてはみたけれど、特に興味を引くものがなくてすぐに消した。
「ん、悠馬だ」
スマホに通知が届いた。見てみると悠馬からだった。
【やほ~、もう家か??女の子紹介しようと思ってさ—】
女の子、紹介の文字を見てすぐに画面を閉じた。今日の昼に俺がその気になったらと言っていたくせに…。と思いながら白米を口に放り込む。少し面倒くさいので無視をする。今はご飯に集中したい。この時間が俺は割と好きだ。誰にも邪魔されたくない時間だ。だから尚更、誰かと時間を過ごすことを考えられない。
三十分かけて夕飯を味わっている間に、お風呂が沸き上げ完了の音楽を鳴らした。食器を片付けてから脱衣所へパジャマを持って移動する。下着類は脱衣所に置いてある棚の中にある。サッと服を脱いで洗濯機に放り込む。この時期は脱衣所と風呂場の温度の差が激しいのが嫌で、服を脱ぐ前に風呂場のドアを開けておく。こうしておけば少しは差がなくなる。シャワーでサッと髪と身体を洗い、素早くお湯に身体を沈める。少し熱くて身体が一瞬強張るが、段々と暑さに身体が慣れていく時間が好きだ。お湯に浸かりながら、ふくらはぎや肩を軽く揉む。営業だから歩くのは慣れてはいるが、やはり年には勝てない。もう俺も二十六だ。もう若くはない。この年になると、誕生日に両親から来るのはおめでとうではなくて、彼女はどうなの。結婚は。という連絡ばかりだ。一人っ子だから両親に孫を見せてあげられるのは俺しかいない。俺は両親に自分がアロマンティックであることは話していない。というか、話したところで、分からないだろう。そんなことを話したら親父がきっとまた、怒る。どうしてお前は普通じゃないんだ。どうして普通になれないんだ。と。そしてそれを聞いて母親は泣くのだろう。普通に育てたはずなのにどうして、私の育て方が悪かったのね。と。両親はいつだってそうだ。普通に縛られて、世間体ばかりを気にして。普通が何かを教えてもくれないくせに。
いや、一度だけ。あれは俺が高校生だった時だ。普通ってなんだよと言った俺に、みんなと同じように生きることだ、いい会社に就職して結婚して子供を産む。親孝行をする。それが普通だと、確か親父に言われた。
は、と乾いた笑いが口からこぼれる。何が普通だ、大多数の人間がそうしているだけで、それが普通だと勝手に言っているだけだ。結婚する人だって、定職に就いている人だって、ましてや子供を産む人だって今はもう少なくなっている。親孝行の仕方だって、変わってきている。変わっていないのは、変化を受け入れていないのは両親の方だ。選択する自由が俺にだってあるはずだ、俺だって一人の人間だ。自分の考えをしっかり持っている人間だ。両親の言う通りに動くお人形じゃない。両親にとっての俺が普通じゃないとしても、俺の普通は存在している。ただ普通の基準が違うだけだ。俺はきっと、いわゆる少数派の方の人間なのだろう。大多数の人間が当たり前にしている恋愛が俺にはどうしたってできない。恋愛感情が分からない。友情と何が違うのかが俺には分からない。
ふう、と息を吐き出す、お風呂の中だということを忘れていた。すっかりお湯の温度に身体が慣れていた。お風呂の栓を抜いて、お風呂を洗う。次入る時に少しでも楽なように、どんなに疲れていても洗うようにしている。洗い終えて、身体を拭いて着替える。明日は土曜日だ。特に予定はない。何をしようか考えながら洗濯機を明日の朝に回るように設定する。髪を乾かしながら口に歯ブラシをつっこむ。サッと乾かして歯磨きをしながらスマホを操作する。ほったらかしにしていた悠馬への返信を済ませて、口をゆすぐ。口をゆすいでいる間にスマホに通知が来た。多分悠馬だろう。どうせまた文句だろうから画面を見ずにポケットに入れてそのまま上着を羽織る。金曜日の夜に、俺は散歩に出かける。特に行くところも決めていない。適当に一時間くらいただひたすらに歩く。幸い俺の近所には飲み屋がないので、金曜日の夜だけれど大して人はいない。
ドアを開けると冷え込んだ空気が身体を包み込む。せっかくお風呂であたためた身体がじわじわと冷えていく。それでも俺はこのルーティーンを辞めない。意外とストレス発散になるのだ。誰もいない街頭の下を歩く。俺はこの時間がとても好きだ。世界に一人だけ、俺だけの世界みたいで、少しテンションが上がる。曲を聴くわけでもなく、自分の足音や呼吸音だけを聞きながら歩く。たまにコンビニの光に目を細めながら、電車の音に耳を済ませながら、淡々と歩き続ける。スマホで時間を確認する。三十分経っている。そこで俺はくるりと自分の家の方へ足を向ける。散歩は一時間だけ、と決めている。数分の遅れは誤差の範囲内で許すけれど、できるだけ一時間で終わらせる。
「ただいまー」
本日二度目のただいまを薄暗い玄関に放つ。冬とはいえ一時間歩いたので寒くはない。暑いくらいだ。一時間前の自分に言いたい。エアコンは消していいぞと。上着を脱いでソファに座る。ちょうどいい疲労感が身体を包んでいる。背伸びを二回繰り返してからベッドに移動して電気毛布の電源をいれる。すぐには布団に入らずにまたソファに戻る。三十分くらいしてから入ると適温にあたたまっているはずだ。ソファに戻ったはいいものの特にすることもない。金曜ロードショーは何だったかとテレビをつけようとして、時計を見るとすでに終わりの時刻だったのでやめた。本を読む習慣はないし、あまり文字を読むのは得意ではないので本もあまり持っていない。こういう時に時間をつぶせるような趣味がない。高校生の頃は寝るまでずっと勉強をしていたので特に困ったことはなかった。今更勉強をする気にはなれない。何かゲームでもしようかとスマホを開くけれど、気分じゃなかったのですぐに閉じた。それなら、と代わりに動画サイトを開く。おすすめに出てきた動画を適当に開く。猫のかわいい場面を詰めた動画だった。猫は特別好きなわけではないが、何も考えずに見られるので結構好きだ。いくつかの猫動画を見ていたら三十分くらいあっという間に経っていた。明日は休みで、特に用事もないから夜更かしをしても問題はないけれど、寝る時間を決めていると平日もスッキリ起きられるので、次の日が休みでも変わらずに同じような時間に眠るようにしている。朝起きるのも同じような時間にしているのでアラームをかけてからベッドに入った。
他人から見たらキッチリしすぎていると思われるかもしれないけれど、これは俺が少しでも過ごしやすくなるためにしていることだ。いつか現れるのかもしれないけれど、今は俺くらいしか俺のことを解れないだろうから、できる限り俺が生きやすいように行動していたい。俺くらいは、俺のことを肯定していたい。




