夜の馬車と、ほどけない手鎖
夜会が終わり、会場の外には夜風が冷たく吹き抜けていた。
「それではカルステイン様、今夜は素晴らしいお時間をご一緒させていただき感謝申し上げます。私は我が家の馬車で帰宅いたしますので……」
私は会場の車寄せで別れの挨拶を告げた。
だが――私の差し出した手は、カルステイン様の大きな手によって当然のように包み込まれた。
「何を言っている。僕の馬車で送る」
「えっ……ですが、お屋敷の方向も違いますし、マリア様をお送りになられるのでは――」
「マリアには家の馬車を手配してある。……余計な心配をせず乗れ」
私の反論を許さず、カルステイン様は私を豪誓な公爵家の馬車へと促した。
バタン、と扉が閉まり、馬車がガタゴトと静かに走り出す。
重厚な革張りの座席。
向かい合わせに座るはずが、カルステイン様は迷わず私のすぐ隣へと腰掛けた。
逃げ場のない、完全に閉ざされた密室。
(……やばい、やばすぎるわ。この距離感、乙女ゲームなら完全に攻略ルートに入った時のシチュエーションじゃないの……!)
私は必死に緊張を押し隠し、窓の外の街灯の光に目を向けた。
「……カルステイン様。今夜のダンス、大変お見事でしたわ。マリア様もあなたの勇姿をうっとりと見つめていらっしゃいました」
(よしっ! あくまで二人の仲を応援するスタイルを貫くわよ!)
しかし、私の言葉が終わるか終わらないかのうちに――
ガタッ!
「あ……っ!?」
強い力で肩を抱き寄せられ、私はカルステイン様の胸の中に引き倒された。
視界が反転し、気づけば彼の長い指が私の両手首を捕らえ、座席の上で押し込められるような形になっていた。
「カルステイン様……!? 無礼ですわ、離してください……!」
「無礼? ……君が僕を『カルステイン様』と呼ぶことこそ、僕にとっては最大の非礼だ」
闇の中で、彼の紫の瞳が怪しく光っている。
いつもの冷徹で冷静な「氷の公爵」の面影はどこにもない。そこにあるのは、執着と焦燥に狂わされた一人の男の顔だった。
「以前の君なら、僕と他の女が喋るだけで泣いて怒った。僕の腕にすがりつき、僕の名前を何度も呼んだはずだ。……なのに、今の君はなんだ」
彼の手のひらが、私の頬を包み込む。指先が微かに震えていることに気づき、胸が跳ねた。
「僕を見ろ、エルザ。マリアのことなどどうでもいい。……僕が欲しいのは、君の視線だけだ」
「……っ」
「『アレク』とあだ名で呼ばれるのがそんなに嫌だったなら、今すぐ僕にそう命じればいい! 僕を罵り、以前のように僕にしがみつけ! なぜそうしない!?」
(だ、だって……! そうやってしがみついてマリア様をいじめるから、最後に断罪されて首が飛ぶんでしょうがー!!)
声に出せない叫びが胸の中で爆発する。
私が破滅フラグを回避するために引けば引くほど、彼はそれを「自分への拒絶」と受け止め、狂おしいほどの執着を深めていく。
「カルステイン様。私はただ、完璧な婚約者として身を引こうと――」
「身を引くだと? ふざけるな」
カルステイン様は私の額に自分の額を押し当て、逃げ場を完全に塞いだ。
「君を離すつもりなど、最初から一寸たりともない。……覚悟しろ、エルザ」
耳元で落とされた低く甘い脅迫に、私の背筋にゾクゾクとした悪寒が走った。
(嘘でしょ……!? 破滅フラグを折ろうとしたら、ヤンデレルートのフラグが爆速で立っちゃってるじゃないのよーー!!)
馬車は闇を切り裂きながら、静かに伯爵邸へと向かって走り続けていた。




