密室の詰問と、氷の亀裂
放課後。私はミナを廊下に待たせ、生徒会室の扉を静かにノックした。
放課後の生徒会業務に必要な書類の提出――伯爵令嬢として、そして婚約者としての最低限の義務を果たすためだ。
「入れ」
中から届いたのは、低く硬いアレクセイ様の声だった。
失礼いたします、と室内へ足を踏み入れる。
いつもなら、この部屋にはマリア様が寄り添うように座り、二人で楽しそうに書類を整理している姿があった。
「アレク、この判子ここで合ってる?」
「ああ、マリア。相変わらず仕事が早いな」
……そんな甘く柔らかな会話が繰り広げられ、私が乱入しては「アレクセイ様! どうして私ではなくその女を生徒会室に入れるのですか!」とヒステリーを起こすのがいつものパターンだった。
だが、今日の室内にはアレクセイ様がただ一人、執務机に腰掛けていただけだった。
「カルステン様。先日の講義に関する提出書類をお持ちいたしました」
私は彼と一定の距離を保ったまま、隙のないお辞儀とともに書類を机の端へ置いた。
用件は済んだ。長居は無用だ。
「それでは、私はこれで失礼いたします」
すぐにターンして部屋を辞そうとした――その瞬間。
バァン!
背後で激しい音が響き、視界が影に覆われた。
気づいた時には、アレクセイ様が素早く扉の前に立ちふさがり、私の逃げ道を塞ぐように背後の扉へと手を突いていた。
――壁ドン、である。
(……え? なにこの乙女ゲームの王道シチュエーション!? 相手はマリア様でしょ!?)
「……アレクセイ様? これは一体どういうお戯れでしょうか」
私は動揺を一切顔に出さず、冷徹な営業スマイルを維持したまま見上げた。
だが、間近で見つめるアレクセイ様の紫の瞳には、いつもの冷酷な余裕など微塵もなかった。激しい焦燥と、抑えきれない苛立ちが渦巻いている。
「お戯れ、だと……? 僕の問いに答えろ、エルザ。……なぜ僕を避ける」
「避けてなどおりませんわ。公爵家の未来を背負うカルステイン様のお邪魔にならぬよう、適切な距離を保っているだけにございます」
「適切な距離だと!?」
アレクセイ様の低い声が怒りで震えた。
彼は逃がさないと言わんばかりに、私の頭上の壁をドンと強く叩いた。
「昨日の今日で、急に人間が変わったような態度をとるな! いつもならマリアが僕を『アレク』と呼ぶだけで、金切り声をあげて怒り狂っていただろう! 僕の腕に抱きつき、その女を追い出せと騒いでいただろう!」
「……それは、以前の私が浅はかで、お恥ずかしい振る舞いをしてしまっていたからですわ」
私は静かに目を伏せ、諭すように言葉を紡いだ。
「マリア様はカルステイン様にとって特別な幼馴染。お二人が『アレク』『マリア』とお互いに愛称で呼び合い、微笑み合っているお姿を拝見し、ようやく悟ったのです。……私のような高慢な女が、お二人の間に割り込むことこそが不敬であり、無意味な悪あがきだったのだと」
「……っ!」
アレクセイ様が息を呑むのが分かった。
「お二人はとてもお似合いですわ。私はこれ以上、お二人の邪魔をするつもりはありません。ですからどうぞ、私にお気遣いなさらず、マリア様とお幸せになってくださいませ」
(どうかしら! 完璧すぎる身引きの言葉! これでアレクセイ様も『分かってくれたか』って納得してくれるはず……!)
だが、私の予想に反して、アレクセイ様の瞳に宿ったのは安らぎなどではなかった。
それは――冷酷な氷がパキリと音を立てて割れ、中からドロリとした「黒い執着」が溢れ出してきたかのような、恐ろしい眼差しだった。
「……僕が、マリアと幸せになれだと……?」
アレクセイ様の手が伸び、私の顎をすっと持ち上げた。
逃げ場のない指線の強さに、私の背中に冷や汗が流れる。
「勝手な決めつけをするな、エルザ。マリアはただの幼馴染だ。僕の婚約者は――世界でただ一人、君だけだ」
「あ、カルステイン様……!?」
「僕を名前で呼べ。以前のように、僕にしがみついて嫉妬してみせろ。……僕から勝手に離れられると思うなよ」
耳元で低く毒のように囁かれた言葉に、私の頭の中はパニックに陥った。
(ちょっと待ってー!? マリア様だけに『アレク』って呼ばせて甘やかして、私をゴミみたいに冷遇していたのは誰よ!? なんで急にそんなヤンデレみたいな執着見せてくるのよー!!)
完璧に身を引こうとするエルザと、手の中から滑り落ちていく彼女に耐えかねて狂い始めたアレクセイ。
二人の噛み合わない関係は、より深く、逃げられない泥沼へとハマり込んでいくのだった。




