廊下のすれ違いと、氷の公爵の焦燥
事故の翌朝。私は昨日の頭痛もすっかり引き、晴れやかな気持ちで学園の静寂な図書室を訪れていた。
「エルザ様、お体の具合は本当によろしいのですか?」
心配そうにつき添う侍女のミナに、私は優しく微笑みかけた。
「ええ、全く問題ないわ。ミナ、今日は自主学習のための参考書を探しに来ただけだから、そう心配しないで」
前世の記憶を取り戻してから、私の目標は明確だ。
アレクセイ様とマリア様の邪魔を一切せず、円満な婚約破棄を成立させること。そして、一人の自立した淑女として、いつ婚約が破棄されてもいいように学業に励むことだ。
かつての私は、授業免除の生徒会室へ押しかけてはアレクセイ様の邪魔をし、マリア様を睨みつけることだけに時間を費やしていた。
(ああ……なんて無駄な時間を過ごしていたのかしら。これからは自分の人生をちゃんと生きなきゃ!)
目的の図書を借り受け、静かな廊下をミナと歩いていると――前方から歩いてくる二人影が目に入った。
黒髪をなびかせた凛々しい佇まいのアレクセイ様と、その隣で小さく跳ねるように歩く金髪の可憐なマリア様だ。
「あ、アレク! 昨日の生徒会資料、私の方でまとめておいたよ!」
「ありがとう、マリア。助かる」
二人の会話が聞こえてくる。アレクセイ様がマリア様に向ける眼差しは、相変わらず柔らかい。
あだ名で呼び合う二人。まさに物語の主人公とヒロインにふさわしい、絵になる光景だ。
(よしっ! ここで私が話しかけたら邪魔になるわね。完璧なスルーを決め込むわよ!)
私は速やかに壁際に寄り、ドレスの裾を軽く持ち上げて優雅にお辞儀の姿勢をとった。
二人が目の前を通り過ぎるのを、視線を落としたまま静かに待つ作戦だ。
カツ、カツ、とアレクセイ様の洗練された靴音が近づいてくる。
(そのまま通り過ぎて、マリア様と甘い時間を過ごしてくださいませ……!)
だが――靴音は、私の目の前でぴたりと止まった。
「……エルザ」
頭上から降ってきたのは、低く、どこか抑え込まれたようなアレクセイ様の声だった。
「……? なにかご用でしょうか、カルステン様」
私はスッと顔を上げ、練習通り完璧で隙のない「笑顔」を向けた。
感情を一切乗せない、ただただ礼儀正しいだけの微笑みだ。
私のその対応を見た瞬間、アレクセイ様の眉がピクリと跳ね上がった。
「『カルステイン様』……? 君は昨日から、僕をそう呼ぶな」
「まあ。公爵家の嫡男であり生徒会長であられるあなた様を、伯爵令嬢の私が役職でお呼びするのは当然の嗜みにございますわ。何か非礼がございましたでしょうか?」
「非礼ではない! だが――」
アレクセイ様は言葉を詰まらせた。
いつものエルザなら、彼を見るなり「アレクセイ様ぁ!」と叫んで抱きつき、隣にいるマリアを「キッ」と恐ろしい顔で睨みつけ、「どうしてこの女と一緒にいらっしゃるの!?」と発狂していたはずなのだ。
それが今や、マリアの存在など眼中にないかのように一切触れず、自分に対しても一線を引いた態度で接してくる。
「……エルザ様」
アレクセイ様の隣で、マリア様が心配そうに私を見つめていた。
「昨日は凄く大きな音がして……お頭のお怪我は、もう大丈夫なのですか? 私、心配で……」
純粋な善意と心配から出た言葉だろう。
かつての私なら「あんたのせいで怪我をしたのよ! 偽善者ぶらないで!」と怒鳴り散らしていたところだ。
だが、今の私はマリア様に向き直し、心からの優しさを込めて優雅にお辞儀をした。
「お気遣いいただき、ありがとうございます、マリア様。幸いタンコブ程度で済みましたので、どうぞご安心くださいませ。昨日は私のお見苦しい失態でお二人のお邪魔をしてしまい、大変申し訳ございませんでした」
「えっ……い、いえ! そんな……!」
マリア様が驚いて目を丸くする。
嫌がらせの対象だったヒロインに対しても、完璧な配慮と誠意を見せる私。
(どうかしら! 嫉妬も恨みも一切なし! 完璧な対応でしょ!)
心の中で自画自賛していた私だったが――ふとアレクセイ様へ視線を戻すと、彼の紫の瞳に暗く燃え上がるような「激しい苛立ち」が宿っていることに気づいた。
アレクセイ様は拳を強く握りしめ、私とマリアの間に割り込むように一歩前に踏み出してきたのだ。
「……エルザ。僕を見ろ」
「……はい?」
「なぜマリアを睨まない。なぜ僕に詰め寄らない。……君は一体、どうしてしまったんだ」
(ええ……!? なんでマリア様と仲良くして引き下がってるのに、そんなに怒ってるのよー!?)
冷酷だったはずのアレクセイ様の瞳に、困惑と、そして逃がさないと言わんばかりの強い執着が兆し始めていた。




