冷めきったお茶と、戸惑う生徒会室
学園の保健室。清潔なホワイトリネンの匂いが漂う室内で、私はベッドの上に腰掛け、侍女のミナから冷やしタオルを受け取っていた。
「エルザ様、本当にお怪我はありませんか……? 医務室の先生からは『タンコブ程度で済んだのが奇跡』と言われましたが……」
青ざめた顔で心配してくれるミナ。彼女は昔から高慢な私に振り回されながらも、健気に仕えてくれている大切な侍女だ。前世の記憶を取り戻した今、申し訳なさと感謝が胸にこみ上げてくる。
「ええ、大丈夫よミナ。ご心配をかけてごめんなさいね。……それと、今まであなたに酷い当たり方をしてしまって、本当にごめんなさい」
「えっ……!? エ、エルザ様……!? あ、頭を強く打たれたせいで、おかしなことに……!?」
素直に謝罪した私に対し、ミナは目を見開いて怯えるように後ずさった。
(……うん、まあそうなるわよね。今までの私は本当に酷い悪役令嬢だったんだもの……)
そこへ、ノックもなしにバタバタと保健室のドアが開いた。
入ってきたのは、今まで私の「いじめ」の手先となって動いていた取り巻きの令嬢二人――クラリスとシャロンだ。
「エルザ様! 大変ですわ!」
「あの平民上がりのマリアが、またアレクセイ様に馴々しく『アレク』なんて呼んで纏わりついておりますのよ! 今すぐ懲らしめてやりましょう!」
以前の私なら「なんですって!?」と跳び起き、マリア様のもとへ怒鳴り込んでいただろう。
だが、今の私は静かにハーブティーのカップを口にし、優雅に微笑んだ。
「まあ、クラリス、シャロン。声を荒らげるのは淑女の嗜みに反しますわよ」
「……はい?」
「エルザ……様?」
「マリア様はアレクセイ様の幼馴染でいらっしゃいますし、二人が『アレク』『マリア』と呼び合うのは昔からの自然なことでしょう? 仲が良いのは微笑ましいことですわ。私たちが口を挟むことではありません」
ポカンと口を開ける二人。
かつてマリア様が「アレク」と呼ぶたびに発狂し、「アレクセイ様と呼んでちょうだい! 馴々しくあだ名で呼ぶなんて万死に値するわ!」と叫んでいた私を知っている二人からすれば、宇宙人と会話しているような気分だろう。
「で、ですがエルザ様! アレクセイ様は貴女の婚約者ですのよ!? あの女、アレクセイ様に甘えて、勉強を教えてもらったりお菓子をあーんしてもらったり……まるで恋人気取りですのよ!?」
(知ってるわよ。乙女ゲームのスチルで見たわ。アレクセイ様がマリア様にだけ見せる、あの激甘な蕩ける笑顔ね)
胸の奥がチクリと痛んだ。かつてのエルザの「アレクセイ様が好き」という感情が残っているからだ。
けれど、破滅フラグを回避するためには、この感情を完璧に押し殺さなければならない。
「アレクセイ様がどなたにお勉強を教えようと、それは生徒会長としての慈愛の心ですわ。私のような高飛車な女よりも、可憐なマリア様と過ごされる方が、アレクセイ様のお心も休まるでしょう。……私はもう、お二人の邪魔をするつもりはありません」
完璧な微笑みとともにそう告げると、取り巻きの二人は恐怖で顔を引きつらせた。
「エルザ様……本気で仰っていますの……?」
「頭を打って、本当に人が変わられてしまったのでは……」
「ええ、本気よ。だからあなたたちも、もうマリア様へ嫌がらせをするのはやめなさいね。もしこれ以上、私の名前を使って彼女をいじめるようなことがあれば――カルステン公爵家ではなく、我がヴァルハイト伯爵家があなたたちを裁きますわ」
静かだが逃げ場のない圧力をかけると、二人は「ひいっ」と悲鳴を上げて保健室から逃げ出していった。
これで取り巻きたちの暴走も止められた。よしよし、着実に死亡フラグを折っていっているわ。
◇
一方、その頃。
学院の生徒会室では、重苦しい空気が漂っていた。
「……アレク? どうしたの、ずっと難しい顔をして……」
マリアが心配そうに、淹れたての紅茶を執務机に置く。
いつもなら「ありがとう、マリア」と優しく微笑み、あだ名で呼ばれることに目を細めるアレクセイだったが、今日の彼は書類に目を落としたまま、微動だにしない。
「……マリア」
「なに、アレク?」
「……エルザは、今日保健室から直帰したのか?」
「ええ。侍女の方と一緒に馬車でお屋敷へ帰られたそうよ。頭のお怪我が心配ね……あんなに酷く倒れるなんて」
マリアは優しく胸を痛めている様子だったが、アレクセイの頭の中にあるのは、エルザの「怪我」そのものよりも、彼女が去り際に見せたあの瞳だった。
いつもなら、マリアが「アレク」と呼ぶたびに血相を変えて割り込んできた。
「アレクセイ様! その女を『マリア』と甘く呼ぶのはおやめください! 私にはそんな風に笑ってくださらないのに!」と、醜く嫉妬を爆発させていた。
冷酷に突き放しても、ウザがっても、彼女はしがみついてきた。
その執着が鬱陶しく、不快で、だからこそ徹底的に冷たくあしらっていたはずだった。
なのに――今日のエルザは違った。
頭から血を流しかけながら、マリアを睨むこともなく、アレクセイに縋ることもなく。
まるで「見知らぬ高貴な公爵閣下」に接するかのような、隙のない完璧な礼儀作法。
そして、氷のように冷たく、けれど美しく澄んだ「他人をみる瞳」。
(『お気遣い感謝いたします。ですが、このような無様な姿をお見せし続けるのは、ヴァルハイト伯爵家の名に傷がつきますので』……だと?)
アレクセイは手にしていた羽ペンをギシッと力任せに握りしめた。
「……ふざけるな」
「え……? アレク……?」
突然低く吐き捨てられた言葉に、マリアが驚いて肩を跳ねさせる。
アレクセイの胸の中に渦巻いていたのは、解放された安らぎなどではなかった。
自分を追いかけ回していたはずの女が、突然手の中から滑り落ち、二度と触れられない遠い場所へ行ってしまったような――強烈な「不快感」と「焦燥」だったのだ。




