醒めた熱と、完璧なお辞儀
ガッ――ン!!!
鈍い衝撃とともに、視界が真っ白に染まる。
頭の中で、何かが弾けるような大きな音が響いた。
(……痛い。頭が、割れそう……)
激痛に耐えながら地面に倒れ伏す私の頭の中に、まるで溢れ出した濁流のように「知らないはずの記憶」が凄まじい勢いで流れ込んできた。
満員電車、深夜のオフィス、パソコンの画面、そして暇つぶしに遊んでいた乙女ゲーム『聖女の誓い』の画面――。
(え……? 私、前世は日本で働く普通の会社員……!?)
激痛と混乱の中で、すべてのピースがカチリと噛み合っていく。
ここは乙女ゲーム『聖女の誓い』の世界。
そして私は、ヒロインであるマリア様をいじめ抜き、最後にはヒーローによって処刑される最悪の悪役令嬢、エルザ・フォン・ヴァルハイト!
目の前で冷たい目を丸くしているアレクセイ様は、将来マリア様のために私へ冷酷な断罪を言い渡すメインヒーロー。
そして可憐なマリア様は、この世界の愛されるべき主人公なのだ。
(嘘でしょ……!? アレクセイ様が私を嫌って冷たくあしらい、マリア様だけに『アレク』と呼ばせて甘やかすのも当然じゃない! だって二人が主役なんだから!!)
これまで自分がやってきた高慢な振る舞いや、アレクセイ様への見苦しい執着、マリア様への嫉妬がいかに愚かで恐ろしいことだったかが怒涛のように理解できる。
(このまま婚約者の立場にしがみついて二人の邪魔をしていたら、数年後には私の首が飛ぶ……! 死ぬのは嫌! 絶対に嫌!!)
「おい、エルザ! しっかりしろ、起きられるか!?」
頭上から、焦ったようなアレクセイ様の声が聞こえる。
彼が珍しく仮面を崩し、手を伸ばして私を起こそうとしてきた。
だが、記憶を取り戻した今の私には、彼の手が「差し伸べられた救い」ではなく「破滅への誘い」にしか見えなかった。
彼が本当に愛しているのはマリア様であり、私に向ける手はただの「婚約者に対する世間体と最低限の義務」でしかないのだから。
(触らないで……! もうこれ以上、期待させないでちょうだい……!)
私は痛む頭を押さえ、ふらつきながらも驚異的な気合で自力で立ち上がった。
そして、伸ばされたアレクリ様の手をすっとかわすと、ドレスの裾をふわりと持ち上げる。
混乱する頭をフル回転させ、ヴァルハイト伯爵家で叩き込まれた最高精度の「淑女の作法」を思い出す。
背筋をピンと伸ばし、視線を落とし、三十度の角度で頭を下げた。
「……失礼いたしました、カルステン公爵令息様」
「……は?」
伸ばした手のまま、アレクセイ様が凍りつく。
周囲で騒いでいた取り巻きのクラリスやシャロン、そしてマリア様までもが息を呑んで固まった。
いつもなら「痛いですわぁ! アレクセイ様、私を抱きしめて慰めて! 全部あの女のせいですわ!」と金切り声をあげて泣き喚き、彼にしがみついていたはずのエルザが――。
私は痛みを完璧な「営業用スマイル」の裏に隠し、隙のない静かな声を作った。
「私の不注意と不徳により、皆様の貴重なお時間を汚してしまいました。体調を整えますため、本日はこれにて辞退させていただきます」
「待て、お前は頭を打ったんだぞ!? 辞退などと言っている場合では――」
「お気遣い感謝いたします。ですが、このような無様な姿をお見せし続けるのは、ヴァルハイト伯爵家の名に傷がつきますので」
スッと顔を上げた私は、一切の感情を削ぎ落とした完璧な笑みを彼に向けた。
(マリア様とお幸せになってね、アレクセイ様。私は完璧な淑女として一歩引き、円満な婚約破棄に向けて静かに退場させていただきますわ!)
「それでは、皆様、ごきげんよう」
「あ……おい、エルザ!」
アレクセイ様が制止の声をかけるより早く、私は華麗にターンを決めた。
頭の激痛を根性で耐え抜き、優雅に、けれど最速のスピードで中庭を後にする。
残された中庭。
アレクセイ様は手を伸ばした格好のまま、ぽつんと立ち尽くしていた。
自分に向けられた、完璧で、冷ややかなほどに「壁」のある笑顔。
自分への激しい執着も醜い嫉妬も綺麗に消え去り、まるで「ただの他人」を見るようなエルザの瞳。
「……マナー違反、だと……?」
アレクセイ様は自分の手を見つめ、それから彼女が逃げ去った校舎の廊下を、不機嫌そうに、けれど今まで見せたことのない惑いの瞳で見つめ続けていたのだった。




