二十二話「魔素雨、もう一度」
雨の匂いがしたのは、日が暮れてすぐだった。
リコには分かった。これはただの雨ではない。土の中の魔素が蒸発して、大気と混ざって、また降ってくる。あの雨だ。
最初に人の姿になった、あの夜の雨と同じ。
リコは新芽を揺らした。大きく、はっきりと。
ガリウスが気づいた。
「どうした」
もう一度、揺らした。空を向けて。
ガリウスが空を見た。雲の色が、普通の雨雲と違った。光を含んだような、薄く発光するような色。
「レイン」ガリウスが呼んだ。「テントを張れ。雨が来る」
「どんな雨」
「魔素雨だ」
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レインが手を止めた。
ソフィアが振り返った。
二人の目が、リコの鉢に向いた。
「リコが」レインが言った。「また」
「降り始める前に、屋根の下に入れた方がいいのか、外に出した方がいいのか」ガリウスが言った。
リコは新芽を、外の方向へ傾けた。
「外か」
傾けたまま、動かなかった。
ガリウスは少し考えてから、鉢を荷から外した。
抱えて、立った。
「降り始めたら、テントに入れ」とレインに言った。「俺はリコと外にいる」
「なんで」
「最初のときもそうだったから」
レインは何も言わなかった。
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雨は静かに始まった。
音がした。でも普通の雨音と少し違った。土に当たる音が、わずかに低かった。重さが違うような。
ガリウスは木の下に立っていた。リコの鉢を両手で持って。
雨粒がリコの花弁だった場所に──今は新芽だけがある茎に──当たった。
それから。
茎が伸びた。
ゆっくりと、でも確かに。節が増えた。葉が広がった。花が咲いた。咲いて、また閉じて、また開いて。最初に人化したときと同じように。
それから──茎から、腕が出た。
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テントの中から、レインがこっそり見ていた。ソフィアも隣で見ていた。
人の姿が、完成した。
白い花弁を散らした髪。薄い緑の、植物の繊維でできたような衣。
最初に会ったときより、少し変わっていた。髪の色が少し濃かった。目が、少し落ち着いた色をしていた。
でも、リコだった。
人の形のリコが、雨の中に立っていた。
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ガリウスが声をかけた。
「久しぶりだな」
リコが振り返った。
口が開いた。
「……久しぶり」
声だった。
低くも高くもない、穏やかな声。リコの声。
ガリウスは何も言えなかった。
「聞こえてた」とリコは言った。「全部。声にしなくても。どうしてかは分からないけど、ガリウスが言ったことは聞こえてた」
「全部」
「大変だったな、って言ってくれたとき。声に出さなかったやつも」
ガリウスは息を吐いた。
「それは恥ずかしいな」
「ごめん」リコは少し笑った。「でも助かってた。毎回」
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レインとソフィアがテントから出てきた。
走ってきた。雨の中を。
「リコ!」レインが呼んだ。
「レイン」リコが応えた。声で。
レインが立ち止まった。泣いていた。走りながら泣いていた。
「声、ある」
「ある」
「良かった。良かった」レインは繰り返した。言葉が他に出てこない様子で。
「辞典、見せて」リコが言った。
レインは濡れた帳面を出した。リコが受け取って、雨の中でページをめくった。
一項目ずつ、目で追った。
「全部合ってる」リコは言った。
レインが顔を覆った。
「一個だけ、追加してほしい」
「何の香り」
「春の野原」
「懐かしさ、怖くないという意思表示、って書いてある」
「合ってる。でももう一個意味がある」リコは帳面をレインに返した。「ありがとうの、別の言い方」
レインは書いた。雨で滲んだが、書いた。
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ソフィアが近づいた。リコと向き合った。
二人は少し、似ていた。年頃も近い。でも何か根本的なところが違った。リコには土の匂いがして、ソフィアには空の匂いがした。
「根」とリコが言った。「返さなくていい。あげたんだから」
「でも」
「借りたまま終わりたくない、って言ってたの、聞こえてた。あの夜、香りは出せなかったけど、ちゃんと届いてた」
ソフィアは口を閉じた。
「それと」リコは続けた。「ハナ、元気だよ。根が張れてる。あの子、最初は怖がってたけど」
「怖がってた?」
「知らない場所で一人で芽吹いたから。大丈夫だよって言ったら、落ち着いた」
「話してたんだ」
「話してた。あの夜、ソフィアが見てたの、分かってた」
ソフィアは笑った。泣きながら、笑った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
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「名前」とガリウスが言った。「教えてくれるか。向こうの世界での」
リコはガリウスを見た。
「神崎莉子」と言った。「リコは、そこから」
「神崎莉子」ガリウスが繰り返した。「覚えた」
「忘れなくていい。リコでいい。でも」リコは少し間を置いた。「知っててほしかった」
「なんで」
「ガリウスが、前の世界での名前を聞いたとき、うん、って答えたから。あの約束、覚えてた」
ガリウスは口を閉じた。
覚えていた。花弁一枚の返事を、ガリウスも覚えていた。
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ソフィアがリコに聞いた。
「向こうの世界の言語、知ってる?」
ソフィアが、18話で目覚めた直後に発した言葉を、もう一度口にした。あの短い、切実な響きの言葉を。
リコが目を見開いた。
「……知ってる」
「どこで」
「分からない。でも、聞いたことがある。向こうにいたとき」
「何て意味かも分かる?」
リコは少し考えた。
「『ここはどこ』……だと思う。たぶん」
ソフィアが固まった。
「それで合ってる」ソフィアはゆっくり言った。「目が覚めたとき、反射的に出た言葉だった」
二人は雨の中で、しばらく黙った。
「同じ場所から来たのかな」リコが言った。
「分からない。でも」ソフィアは空を見た。「空の色が同じだった気がする。向こうの」
答えは出なかった。
出さないまま、並んで雨を受けていた。
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「その歌」リコがソフィアに言った。「空洞で歌ってたやつ。知ってる」
「どこで」
「向こうで聞いたことある。どこでかは分からない。誰が歌ってたかも」
「わたしも分からない。勝手に出てきた」
「でも知ってた」
「うん」
二人はそれ以上、追わなかった。
分からないことは、分からないままにする。
それで今夜は十分だった。
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雨が小さくなってきた頃、リコはガリウスの隣に立った。
「怖かったことが、一つある」と言った。
「言えるか」
「器だって言われたとき。自分がここにいる理由が、最初から決められていた気がして。自分じゃない何かのために使われるために来た気がして」
「怖かったな」
「うん。でも」リコは雨を見た。「ガリウスが、決めるのはお前だって言ったとき。初めて、ここにいていいと思えた」
ガリウスは何も言わなかった。
「それだけ」リコは続けた。「ずっと言いたかった。言えなかったけど」
「伝わってた」
「そう?」
「たぶん。でもちゃんと聞けて良かった」
リコは少し笑った。
「アルマ先生に伝えてほしい」リコは言った。「怒ってないって。むしろ、来られて良かったって」
「伝える」
「会えるか分からないけど」
「会えなくても、いつか伝える方法を見つける」
リコは頷いた。
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雨が、止みそうになってきた。
リコが感じた。あと少し。人の姿でいられるのは。
言いたいことは言えた。
でも。
「もう一つ、聞きたいことがある」とリコは言った。
「何だ」
その瞬間。
雨が、止んだ。
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静寂。
リコの姿が、薄くなり始めた。
花弁になって、散って、茎になって、新芽になって。
ガリウスが鉢を受け取った。自動的に、慣れた動きで。
新芽が二本、手の中にあった。
「続きは」とガリウスは言った。「今度でいいか」
新芽が、一度だけ、大きく揺れた。
「うん」という意味だと、ガリウスは受け取った。
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焚火の前で、四人は乾かしていた。
レインが帳面の濡れたページをそっと広げていた。
ソフィアがハナの鉢を確認していた。雨に当たって、葉が少し増えていた。
ガリウスはリコの鉢を膝に置いていた。
誰も、しばらく話さなかった。
話す必要がなかった。
それだけのことが、今夜、起きた。
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ガリウスは新芽を見ながら思った。
あの夜の続き、もう一度聞きたいことがある、とリコは言った。
何を聞こうとしていたのか。
次の魔素雨まで、分からない。
でも。
言おうとしていた、ということが分かった。
それで、今夜は十分だった。




