二十三話「根を張る場所」
翌朝、リコは花の姿に戻っていた。
当然だった。雨は止んでいたから。
でも昨夜と何かが違った。新芽が二本、ガリウムの方向へ向いていた。起きているときに出るローズマリーの香りが、朝からずっと漂っていた。
レインがそれを見て、ガリウスに言った。
「話すべきことがある人に向く、ってリコは言ってたよ。昨日の夜」
「言ってたか」
「辞典には書いてない。昨夜リコが教えてくれた。新しい項目」
ガリウスはリコの新芽を見た。
二本が、まっすぐこちらを向いていた。
「……分かった」とガリウスは言った。
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歩きながら、話した。
北への街道は人が少なかった。四人が横に並べる広さがあった。
ガリウスが前を向いたまま話した。誰かの顔を見て話す内容ではなかったから。
「妹の名前はハナといった」
そこから始めた。
「六つ下だった。母親似で、俺とは顔が全然違った。植物が好きで、何でも育てた。枯らしたことがない、って自慢してた」
レインは帳面を出さなかった。今は書く場面ではないと判断した。
「薬師になりたいと言い始めたのは、十六のときだ。王都に行きたい、王都の薬師に師事したい、と。俺は反対した。遠すぎる。一人は危ない。でもハナは聞かなかった」
ソフィアが隣を歩いていた。ハナの鉢を抱えたまま。
「三年前、俺が止めるのを振り切って、一人で来た。手紙は来ていた。最初の半年は元気だった。王都が楽しいと書いていた。師匠が良い人だと書いていた。育てている植物の話ばかり書いていた」
街道の両側に、草が増えていた。王都から離れるにつれて、大地が回復しているのが目に見えた。
「七ヶ月目に、手紙が来なくなった。八ヶ月目に、師匠から文が届いた。ハナが倒れた、と」
ガリウスの声が変わらなかった。感情を抜いているのではなく、もう何度も自分の中で繰り返した話だから、声の置き場所を知っているのだと、レインには分かった。
「駆けつけたとき、ハナはまだ生きていた。でも、もう言葉を話せなかった。目は開いていた。俺が来たことも分かっていたと思う。手を握ったら、握り返した」
少し間があった。
「病室の窓辺に、鉢植えが一つあった。葉が丸くて、小さい白い花が咲いてた。枯れかけていたけど、まだ生きていた。ハナが最後まで水をやり続けていたものだった。師匠が言っていた。体が動かなくなってからも、手だけ伸ばして水をやっていた、と」
誰も何も言わなかった。
「ハナが死んだ翌日、その植物も枯れた。師匠が知らせてくれた」
ガリウスは前を向いたまま続けた。
「なぜ死んだか分からなかった。若かった。病気でもなかった。魔素の欠乏だと言う医者もいたが、なぜ欠乏したかは分からなかった。だから調べるために王都へ来た。それだけだ」
「封印石のせいだと分かった」レインが言った。「今は」
「ああ」
「怒ってる?」
少し間があった。
「怒る場所がない」ガリウスは言った。「石は砕けた。神殿の人間を責めても、ハナは戻らない。怒りがある。でも向ける場所がなくて──それが、一番しんどい」
初めて言った言葉だった。
自分でも初めて言葉にしたことに気づきながら、言った。
レインが「そうだよ」と言った。「それは、しんどい」
それだけだった。でもガリウスには十分だった。
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昼の休憩のとき、ソフィアがガリウスの隣に座った。
ハナの鉢を前に置いて、しばらく黙っていた。
「名前」とソフィアは言った。「知らなかった。ハナの名前」
「ああ」
「知らないままつけた。でも」ソフィアは鉢を見た。「合ってた気がする」
「合ってた」ガリウスは鉢を見た。「良い名前だと思った。最初から」
「なんで言わなかったんですか。妹さんの名前だって」
「言う必要がなかった。それに──」ガリウスは少し考えた。「その名前が、また別のものについてもいいと思った」
ソフィアは黙った。
「ハナはもういない。でもその名前は、まだここにある。植物についても、人についても、どこについても、良い名前だ」
「……ありがとうございます」
「礼を言うことじゃない」
ハナの鉢の葉が、風に揺れた。
ガリウスはそれを見ていた。しばらく。
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「一つ聞いていいか」ガリウスがレインに言った。
「何」
「ハナが育てていた植物。葉が丸くて、小さい白い花。何か心当たりがあるか」
レインが帳面を開いた。昨日書き足した五百年分の薬草の記録を探した。
「丸い葉と白い花、か」レインは呟きながらページをめくった。「いくつか候補はある。でも王都の病室にあったなら、鑑賞用か薬草系か」
「鑑賞用じゃなかったと思う。ハナは薬師見習いだったから、薬草を育てていたはずだ」
「薬草で、白い花、丸い葉」レインは止まった。「……もしかして」
「分かるか」
「断言はできない。でも一つだけ、気になるものがある」レインは帳面を閉じた。「進みながら探す。この辺の野生種を見ながら」
「見つかるか」
「王都から離れて土が戻ってるなら、可能性はある。封印石の前から生えていたものは、まだ残ってるはずだから」
ガリウスは頷いた。
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午後。
リコの新芽が、ずっとガリウスを向いていた。
歩いていても、休んでいても、荷を下ろしていても。
レインが気づいて、小声でソフィアに言った。「聞いてる、ってこういうことだったんだね」
「ずっと向いてる」
「うん。昨夜リコが言ってた。話してる人の方を向いてる、って。辞典に追加した」
ソフィアはリコの鉢を見た。新芽がガリウスの背中を向いていた。
「話が終わっても、まだ向いてる」
「うん」レインは少し考えた。「話が終わってからも、一緒にいる、って意味かもしれない」
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夕方。
野営の準備をしながら、ガリウスがリコに話しかけた。
他の二人が離れた隙に。
「昨夜、言い忘れたことがある」
新芽が揺れた。
「お前が最初に人の姿になった夜。お前が別の世界から来たと話した夜。俺は『大変だったな』しか言えなかった。それ以上の言葉が出なかった」
新芽は揺れたまま、ガリウムの方を向いていた。
「今も同じ言葉しか出ない。でも」ガリウスは鉢の縁に指をかけた。「昨夜、お前が言ってくれた。ここにいていいと思えた、って。俺も同じだ」
新芽が、動きを止めた。
「お前がいたから、俺も話せた。ハナのことを。怒る場所がないってことを。今日ここで言えたのは、お前のせいだ」
静寂。
それから、春の野原の香りがした。
「ありがとう」の別の言い方だと、昨夜リコが言った香りが。
ガリウスは鉢から指を離した。
「どういたしまして、と言っとく」
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夜。
焚火の前で四人が座っていた。
星が出ていた。
しばらく誰も話さなかった。
レインが帳面を膝に乗せていた。書いていなかった。ただ持っていた。
ソフィアがハナの鉢を抱えていた。眠いのか、少し目が細くなっていた。
ガリウスが焚火を見ていた。
リコの新芽が、焚火の光の中で揺れていた。
風もないのに揺れていた。でも誰も今夜はその理由を考えなかった。
揺れているから、そこにいる。
それだけで良かった。
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レインが帳面を開いた。
一項目書いた。
「新芽が風もないのに揺れている→そこにいる、聞いている、一緒にいる」
書いてから、少し考えて、付け加えた。
「または、特に意味はなく、ただ揺れている」
書いてから、消した。
消してから、また書いた。
辞典とは、そういうものかもしれない、とレインは思った。
全部分かるわけじゃない。でも、分かろうとすることをやめない。
それが、一緒にいるということだ。




