二十一話「向こうの種」
レインが種を植えたのは、昼前だった。
小さな素焼きの鉢を市場で買い、土を入れ、空洞から持ち帰った種を一粒だけ埋めた。残りは小瓶に戻した。
「育つかどうか分からないけど」とレインは言った。
「何日くらいかかるんですか、普通」ソフィアが聞いた。
「種類による。早いやつは三日。遅いやつは二週間以上」
レインは鉢を窓辺に置いた。リコの鉢の隣に。
二つの鉢が、窓辺に並んだ。
---
その鉢から芽が出たのは、翌朝だった。
一日も経っていなかった。
レインが気づいて、声を上げた。ガリウスが来た。ソフィアが来た。
細い芽だった。でも色が違った。リコの新芽は淡い黄緑色だったが、こちらは深い、濃い緑だった。葉の形も違った。先端が丸く、縁が波打っていた。この世界の植物にはない形だった。
「ソフィア」レインが言った。「心当たりは」
ソフィアは芽を見た。
しばらく、黙っていた。
「……知ってる」
声が小さくなった。
「向こうの世界にあった植物です。庭に、生えてた」
「庭」
「子供の頃の、庭。毎日触ってた。葉を一枚むしって、匂いを嗅ぐのが好きだった。香りは──」ソフィアは目を閉じた。「柑橘に近い。でも甘い。この世界にはない匂い」
「名前は」
「忘れてた」ソフィアは目を開けた。「でも見たら思い出した気がする。正確な名前じゃないけど、わたしが呼んでた名前が」
「何ですか」
「ソフィは、と呼んでた」ソフィアは笑った。小さく。「自分の名前をつけてた。子供だったから」
レインは帳面に書いた。種の出所。芽吹きの速さ。葉の形と色。推測される原産地:別世界。
---
ガリウスは午後、市場へ出た。
出発前の食料を調達するためだった。次の目的地はまだ決まっていなかったが、王都にこれ以上いる理由もなかった。
雑踏の中で、見知った顔を見た。
薬草商の男だった。
13話で宿に来て、リコを買おうとした男。神殿の紋章を持っていた男。
向こうはガリウスに気づいていなかった。人混みの中を、目的を持って歩いていた。ガリウスは距離を取りながら、方向だけを確認した。
北だった。
王都の北門の方角へ、迷いなく歩いていた。
ガリウスは追わなかった。でも、その方向を覚えた。
宿に戻って、リコの鉢を見た。
新芽が二本。その向きを確認した。
北に、傾いていた。
---
「北へ行く」とガリウスは言った。
夕食の後、三人とリコと向き合って言った。
「理由は」レインが聞いた。
「二つある」ガリウスは指を立てた。「一つ、さっき市場で男を見た。神殿の男だ。北門の方向へ歩いていた。仕事が変わっても動いているということは、まだ続きがある」
「二つ目は」
「リコの新芽が、北を向いている」
レインが鉢を確認した。確かに、二本の新芽が窓の北側に向かってわずかに傾いていた。今朝より角度が増している。
「それだけで北と決めるんですか」ソフィアが言った。
「それだけで十分だ」ガリウスは言った。「今まで、リコが外れたことがない」
沈黙。
レインが帳面を閉じた。「分かった。準備する」
「わたしも行きます」ソフィアが言った。躊躇なく。
「危ないかもしれない」
「ここにいても、わたしには帰る場所がない。一緒にいる方が根が張れると言いました。昨日も」
ガリウスは頷いた。
---
夜、レインが向こうの植物の鉢をどうするか考えていた。
「持っていけるかな、これ」
「重さは問題ない」ガリウスが言った。「でも旅に耐えられるかどうか」
「丈夫そうではある。土もまだしっかりしてる」
ソフィアが近づいて、芽を見た。
「連れていきたい。捨てていきたくない」
「向こうの世界の植物だろう。思い入れがあるのか」
「子供の頃の庭だから。それに」ソフィアは少し迷ってから続けた。「名前をつけてもいいですか。この子に」
「向こうで呼んでた名前じゃなくていいのか」
「新しい名前をつけたい。この世界で芽吹いたから」
「好きにしろ」
ソフィアはガリウスを見た。少し躊躇った。
「ハナ、と呼んでいいですか」
ガリウスが固まった。
表情が変わった。変わったが、何とも言えない変わり方だった。
レインが息を止めた。
「……それでいい」ガリウスは言った。声が少しかすれた。「良い名前だ」
ソフィアは頷いた。
「ハナ」と芽に向かって言った。「よろしく」
---
深夜。
全員が眠りに就いた後、窓辺の二つの鉢だけが月光の中にあった。
リコの新芽と、ハナと名付けられた芽。
二つは隣り合っていた。
風はなかった。
でも、二つの芽が互いの方向へ、少しずつ傾いていった。
リコの方からハナの方へ。ハナの方からリコの方へ。
まるで話しているように。
レインは眠っていたから、気づかなかった。
ガリウスは眠っていなかったが、暗くて見えなかった。
ソフィアだけが、寝返りを打った瞬間に目を開けて、それを見た。
何も言わなかった。
ただ、また目を閉じた。
唇が少し動いた。声にはならなかったが、形だけ読めば「おやすみ」と言っていた。
どちらに向けた言葉か、自分でも分からなかった。
---
翌朝。
出発の準備が整った。
ガリウスがリコの鉢を背負い袋に固定した。ソフィアがハナの鉢を胸に抱えた。レインが地図と帳面を確認した。
北門を出れば、街道が三本に分かれる。
どれが正しいか、地図では分からない。
「リコ」ガリウスが言った。「頼む」
ローズマリーの香りがした。
意志を持って起きている、という意味の香り。
それで十分だった。
四人は北門へ向かって歩き始めた。
石畳の隙間の草が、見送るように揺れた。
王都の土が、少しずつ、確かに、戻り続けていた。




