二十話「後継者」
翌朝、アルマが去ると言った。
「ここでわたしにできることは終わった」
レインが「まだいてください」と言った。アルマは首を振った。
「いるべき場所に戻る。薬草の仕入れが残っている」
嘘ではないが、全部でもないとレインには分かった。でも引き止めなかった。
アルマは荷物をまとめながら、昨日の空洞の話の続きをした。荷をまとめながら話すのが、アルマのやり方だった。重要な話ほど、手を動かしながら言う。
「神樹の最後の記憶について、一つ補足しておく」
ガリウスが椅子を引いた。ソフィアが壁際に立った。レインが帳面を出した。
「神樹が封じられた後も、意志だけは残り続けた。土の中で、根の記憶として。それが五百年かけて、新しい根を探した。お前たちは器と呼んでいるが──」アルマは振り返った。「わたしは後継者という言葉の方が近いと思っている」
「どう違うんですか」レインが聞いた。
「器は、使われて終わる。後継者は、引き継いで続ける」
沈黙。
「どちらが正しいかは、わたしには分からない。文献にも書いていない。ただ」アルマはリコの鉢を見た。「神樹の花は問いを持ち続けると書いてあった。答えを求めない。問うことをやめない。それが神樹の本質だと。器にそういう性質は要らない。でも後継者には、必要だ」
「リコが問いを持ち続けているかどうか」ガリウスが言った。「どうやって分かるんですか」
「今もそこにいるだろう」アルマは言った。「答えが出ない状態で、それでも根を張っている。それが答えだ」
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アルマが出発の準備を終えたとき、レインとガリウスとソフィアは宿の外に出た。
馬を手配する、という名目だったが、実際はアルマとリコを二人にするためだと、三人それぞれが思っていた。
口には出さなかった。
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部屋に二つの気配が残った。
アルマと、リコ。
アルマは荷袋を肩にかけたまま、窓辺の鉢の前に立った。
しばらく、何も言わなかった。
それから、膝をついた。老いた体で、ゆっくりと。鉢と目線を合わせるように。
「お前に謝らないといけないことがある」
新芽は揺れなかった。
「わたしはお前が来ると知っていた。別の世界から、植物を愛する魂が呼ばれると、文献で分かっていた。来る前に止める方法を探そうとした。でも途中でやめた」
アルマは右手首の傷を見た。
「止めるより、来てもらった方が良いと思ったからだ。封印石を放置すれば、この街は死ぬ。来てもらえれば、可能性がある。だからわたしは止めることをやめた」
新芽は、やはり動かなかった。
「それは勝手だった。お前に選択肢を与えない判断だった。申し訳なかった」
頭を下げた。
老いた薬師が、花の鉢に向かって、頭を下げた。
しばらくして、顔を上げた。
そのとき。
春の野原の香りが、かすかに漂った。
懐かしい、という意味に近い香りが。
アルマは目を細めた。
「……怒っていないのか」
香りは続いた。
「お前は」アルマは立ち上がりながら言った。「文献に書かれていた通りだ。問いを持ち続けている」
扉を開けて、出ていく前に、もう一度振り返った。
「根は、張り続けろ。どこへ行っても」
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三人が戻ってきたとき、アルマはすでに宿の前にいた。
レインが「先生」と呼んだ。アルマは振り返った。
「また会えますか」
「生きていれば」
「それは答えになってません」
「薬師の答えとしては十分だ」
アルマは馬に乗った。手綱を取りながら、レインを見た。
「お前の辞典、続けろ。あれは価値がある」
「辞典?」レインが目を丸くした。
「帳面に書き続けているものだ。香りと意味の記録。わたしも同じものを作ろうとして、途中で諦めた。お前の方が向いている」
レインは帳面を見た。気づいていなかった。いつの間にか「辞典」になっていたことに。
「四十項目以上ある」アルマは言った。「続ければ、百になる。百になれば、誰かの命を救う」
それだけ言って、馬を進めた。
振り返らなかった。
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午後。
レインは帳面を机に広げ、辞典の整理を始めた。
これまで「記録」として書いていたものを、引けるように並べ直す作業。
ラベンダーの香り → 起きている、聞いている
キンモクセイの香り → 遠いものを感じている
ローズウォーターの香り → 照れている、恥ずかしい
ローズマリーの香り → 起きている(意志を持って)
焦げた土の香り → 恐怖、強い警戒
苦い草の香り → 怒り、覚悟
春の野原の香り → 懐かしさ、怖くないという意思表示
名前のない甘い香り → ありがとう
書き出してみると、四十を超えていた。
レインは少し、笑った。
「リコ」と呼んだ。
ローズマリーの香りがした。
「これ、全部合ってるかな。いつか確認して」
返事はなかった。でもレインは気にしなかった。
いつか確認できる日が来る。
その確信が、今は根拠なくあった。
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夕方、ソフィアがガリウスに聞いた。
「次、どこへ行くんですか」
「決めていない」ガリウスは言った。「リコが動けるようになったら、聞く」
「わたしは、ついていっていいですか」
ガリウスはソフィアを見た。
「行く場所も、帰る場所も、今は分からないんですが」ソフィアは続けた。「この四人でいる方が、一人でいるより根が張れる気がして」
「根が張れる」ガリウスは繰り返した。
「変な言い方だって分かってますけど」
「いや」ガリウスは首を振った。「分かる」
リコの鉢が、二人の間にあった。
新芽が二本、夕光の中にあった。
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夜。
リコは深いところで、記憶の断片を整理していた。
昨日、空洞の近くで触れたもの。大地の深層から流れ込んできたもの。
その中に、一つ、際立って鮮明なものがあった。
森の奥。川の上流。岩盤の割れ目の下。
誰かが、意図的に種を埋めた場所の感触。
神樹の最後の記憶の中にあった。
封じられる直前に、神樹が最後にしたことの記憶。
種を埋めた。どこかに。
自分が消えても、根が続くように。
リコはその感触を、繰り返し辿った。
場所の感触だけがあった。地図はなかった。でも根で感じれば分かるかもしれない。
大地のネットワークが、王都の外に向かって少しずつ戻り始めていた。石畳の隙間の草が増えているのが、リコには根で分かった。
もう少し回復すれば、もっと遠くが聞こえるようになる。
その方向に、何かがある。
リコは新芽を、その方向へ、わずかに傾けた。
誰も見ていなかったが。




