十九話「空洞の記憶」
神殿の地下への入り口は、台座の破片をどかした床の下にあった。
アルマが「あるはずだ」と言い、ガリウスが石片を退けると、石畳の一枚が他と違う色をしていた。持ち上げると、下に段差があった。人が一人通れる幅の、石段が下へ続いていた。
光はなかった。
レインが燭台を二つ用意した。ガリウスが先に下りた。次にレイン。リコの鉢を抱えて。次にソフィア。最後にアルマが、ゆっくりと段を踏みしめて下りた。
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十五段ほど下りたところで、空間が広がった。
天井が高かった。燭台の光が届かない高さがあった。壁は石ではなく、土だった。でも普通の土ではなかった。黒く、緻密で、触れると少し温かかった。
「これ」レインが壁を指先で触れた。「生きてる」
「生きてはいない」アルマが言った。「でも、死んでもいない。大地の記憶が、圧縮されて残っている」
壁の表面を燭台で照らすと、無数の細かい粒が光を返した。結晶のようなもの。魔素が長い時間をかけて固体化したものだと、レインには分かった。
そしてその結晶の一つ一つの中に、何かが埋まっていた。
小さな、丸い、暗い粒。
レインは一つを爪でそっと掻き出した。壁がわずかに抵抗したが、取れた。
手のひらに乗せると、小さな種だった。植物の種。でもこの世界で見たことのある種ではなかった。形が違った。
「これ」レインはアルマに見せた。
「知らない」アルマは言った。珍しそうに。「五百年分の大地から来たものなら、わたしも知らない植物の種が混じっていても不思議はない」
レインは種を小瓶に入れた。大事に、ポケットにしまった。
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ソフィアが、入り口近くで止まっていた。
皆が奥へ進んでいるのに、一人、壁に手を当てて立っていた。
「大丈夫か」ガリウスが振り返って聞いた。
「……この感じ、知ってる」ソフィアは言った。「石の中で感じていた振動と、似てる。同じ場所から来てる感じ」
「怖いなら戻っていい」
「怖くはないです」ソフィアは首を振った。「懐かしい、に近い」
しばらくして、ソフィアが小声で何かを歌い始めた。
誰も知らない言語の、短い歌だった。四小節か五小節の、単純な旋律。子守唄のように穏やかで、でもどこか遠い場所の匂いがする歌。
歌が空洞に響いた。
壁の結晶が、かすかに揺れた。
光を変えた。さっきより少しだけ、明るくなった。
「……すごい」レインが言った。
ソフィアは歌をやめた。自分が何をしたか気づいていないような顔で。
「覚えてない歌です」と言った。「勝手に出てきた」
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空洞の中央に、窪みがあった。
床の中央だけが少し低くなっており、そこに水がたまっていた。水というより、液体化した魔素に近い。薄く発光していた。青白い光。
アルマが周囲を確認してから言った。
「触れてみろ。受け取れるものがあるはずだ。ただし、長く触れるな。溺れる」
「溺れる、って」レインが言った。
「記憶の量が多すぎる。引き込まれる。一瞬だけ触れて、引き返せ」
ガリウスが最初に窪みに近づいた。
片膝をついて、右手を液体に触れた。
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来た。
映像ではなかった。感覚だった。
土の感覚。
大地の側から見た、王都の記憶。
石畳の下。根が届く場所。根が届かなくなっていく過程。魔素が薄くなり、植物が枯れ、土が乾いていく感覚が、時間軸を持って押し寄せてきた。
その中に、一点、あった。
小さな根の記憶。
鉢の底から出た、細い細い根。石畳の継ぎ目から土に触れようとしていた根。魔素が尽きても、それでも伸びようとしていた根。
ガリウスにはそれが誰の鉢から来たものか、分からなかった。
分からなかったが、分かった。
根はずっと、下を向いていた。土に触れようとしていた。枯れる直前まで。
ガリウスは手を引いた。
立ち上がれなかった。片膝をついたまま、しばらく動けなかった。
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レインが次に触れた。
受け取ったのは植物の分布の変化だった。薬師として、五百年分の薬草の生育記録に近いものが流れ込んできた。どこに何が生えていたか。どの薬草が魔素の変化でどう変質したか。五百年分のデータが一瞬で。
手を引いたとき、レインの目は据わっていた。
「記録したい。全部」
「無理だ」アルマが言った。
「分かってる」レインは帳面を出した。「でも今覚えてる分だけでも」
書き始めた。手が追いつかない速さで。
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ソフィアは窪みの前で、長い間しゃがんでいた。
触れようとして、止まった。触れようとして、止まった。それを繰り返した。
「怖いのか」アルマが言った。
「中から見ていた景色と、外から見る景色が、重なったら」ソフィアは言った。「わたしがどっちにいたのか、分からなくなりそうで」
アルマは何も言わなかった。
ソフィアは結局、触れなかった。
立ち上がって、空洞の壁を見渡した。
「ここは」と言った。「封印石が嫌いだった場所だと思います。石が一番吸い取りたかった場所。でも吸い取れなかった場所。だから残ってる」
「なぜ吸い取れなかったと思う」アルマが聞いた。
「深すぎたから」ソフィアは言った。「石はこの深さまで根を届かせられなかった。でもリコは、届かせた」
アルマは頷いた。「そうだ」
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最後にリコの鉢を窪みに近づけた。
レインが抱えて、近づいた。
新芽が揺れ始めた。地下に下りてくる途中から揺れていたが、今は違った。揺れ方が変わった。風がないのに揺れていた。でも恐怖の揺れではなかった。
「喜んでる」アルマが言った。「根が、故郷の感触を覚えている」
「故郷?」
「大地のネットワークの源泉に近い。リコがずっと根を伸ばしてきた先にあるもの。ここはその溜まり場だ」
レインは鉢を窪みの縁に置いた。
根が届くように。鉢底の穴が液体に近くなるように。
直接触れさせなかった。でも近づけた。
新芽が止まった。
揺れていたのが、止まった。
静止した。
それから、ゆっくりと──大きく、一度だけ傾いた。
お辞儀のように。
「ああ」とアルマが言った。小さく、でも確かに。「知っていたんだな。ここに何があるか」
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四人が地上に戻ったのは、昼過ぎだった。
神殿の台座の間は、朝より人が増えていた。衛兵と、神殿の関係者と思われる者たちが、崩れた台座の周りで何かを議論していた。三人はその隙を縫って外に出た。
外の光が、眩しかった。
ソフィアが空を見上げた。
「今日も広い」と言った。
「慣れるか」ガリウスが言った。
「慣れると思います。でも驚きは残したい」
レインは帳面を抱えたまま、何かを書き続けていた。歩きながら書いていた。ぶつかりそうになるのをガリウスが何度か支えた。
「転んでも知らないぞ」
「今は書かないと消える」
「何が」
「五百年分の薬草の記録」
ガリウスは何も言わなかった。
石畳の隙間に生えた草が、朝より増えていた。二本になっていた。昨日の朝は一本だった。
誰も言葉にしなかったが、全員が気づいていた。
王都の土が、少しずつ、戻り始めていた。
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宿に戻って、ガリウスはリコの鉢を窓辺に置いた。
新芽を見た。二本。朝と変わらない本数。でも心なしか、葉の色が濃い気がした。
「どうだった」とガリウスは聞いた。「下は」
しばらく待った。
かすかに、香りがした。
甘い草の匂い。春の野原の匂い。リコが出したことのなかった香りだった。
レインが顔を上げた。「これ、何だろう」
「分からない」
「でも、悪い匂いじゃない。むしろ」レインは少し考えた。「嬉しい、じゃなくて──懐かしい、に近い?」
ガリウスは頷いた。
「そうか」と言った。「良かった」
それ以上は聞かなかった。
懐かしい場所があるということは、帰れる場所があるということだ。植物にとってそれがどういう意味を持つのか、ガリウスには分からなかった。
でも、悪いことではないと思った。
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夜。
ガリウスは一人、起きていた。
あの根の記憶を、まだ手の中に感じていた。
枯れる直前まで、下を向いていた根。
それがハナのものだったかどうか、証明する方法はなかった。
でも、そうだったとして。
ハナは最後まで、土に触れようとしていた。
それが分かれば、今は十分だった。
リコの新芽が、月の光の中にあった。
「お前に聞いていいか」とガリウスは言った。
返事はなかった。
「植物は、死ぬとき、何を感じる」
答えられるわけがない問いだと知っていた。
でも。
春の野原の香りが、またかすかに漂った。
懐かしい、という意味の香りが。
ガリウスはそれを、答えとして受け取った。
怖くないということだ、とガリウスは解釈した。
正しいかどうかは分からなかった。
でも今夜は、そう解釈することにした。




