蜂蜜の毒と、嘘吐きの晩餐
楽しんでもらえると嬉しいです。
「必要な物でも買い足すぞ」
私の囁きを振り払うように、ガナッシュは足早に人混みの中へ逃げ込んだ。
(ふふ、必死ね。あんなに広い背中をしてるのに、逃げ場所を求めて右往左往してるなんて)
昼時を過ぎた市場は、夕食の買い出しに走る人々の熱気で溢れかえっている。ガナッシュはあえて騒がしい露店が並ぶ通りを選び、興味もない武具や乾物を食い入るように見つめていた。周囲の喧騒を盾にして、自分の中に渦巻く「昨夜の残像」を無理やりかき消そうとしているのが、その強張った肩越しに伝わってくる。
私はその焦りを見逃さず、獲物を追う足取りで隣に並ぶ。
「兄貴、そんなに急いでどこへ行くんですか? まだお腹いっぱいで、私はのんびり歩きたいのに」
「………砥石が切れそうなんだ。あと、お前の……その、ボロくなった靴の代わりも見てやる」
(……出た。お得意の『保護者面』。そうやって私を子供扱いすることで、自分を安心させようとしてる。)
私はあえて返事をせず、彼が避けたがっている右側に回り込んだ。
案の定、私の身体がわずかに触れる距離に来ただけで、ガナッシュの歩調が乱れる。
「兄貴」の仮面を被り直そうとするたびに、首筋の噛み跡が服の襟に擦れて、彼の意識を昨夜へと強制的に引き戻しているのが手に取るように分かった。
「……あ、あそこ。果物屋、美味しそうなのが並んでますよ。兄貴、見てみよ?」
私はわざと甘えた声を出し、ガナッシュの逞しい腕を軽く引いた。
彼は一瞬、私を振り払おうとするような動きを見せたけれど、結局は溜息をついて足を止めた。
懐に入り込み、断れない状況を作るなんて、私にとっては基本中の基本だ。
「……一つだけだぞ。ほら、選べ」
ぶっきらぼうに差し出されたお金。
私はそれを受け取らず、彼の大きな掌をそっと包み込むように握りしめた。
午後の明るい光の下、ガナッシュの指先が、火に触れたみたいに跳ねる。
「兄貴が選んでください。……今の私が何を食べたいか、ちゃんと分かってくれるでしょ?昨夜、私をあんなに必死に見てたんだから。」
「――っ」
ガナッシュの喉が、引きつったように鳴った。
記憶がないフリを貫くなら、「そんなの知るか」と笑えばいい。
でも、彼はそれができない。私を大切にしてきた自負と、昨夜の熱が、彼の口を重く封じている。
(本当にチョロいわね、ガナッシュ。……あなたが私から目を逸らすたびに、昨夜の敗北を思い出してるんでしょ?)
「……これだ。ほら、食うだろ」
震える指先で指し示したのは、小瓶に入った「蜂蜜漬けの木の実」だった。
市場の屋台でもひときわ目を引く、琥珀色に輝く贅沢な一品。昨夜、私の視線に射抜かれ、逃げ場を失って絶句していた彼が、精一杯の「ご機嫌取り」として選んだのがこれかと思うと、可笑しくてたまらない。
(ふふ。適当な安物でお茶を濁さないあたり、本当に……あなたらしい)
「わあ、美味しそう! 兄貴、【正解】です。私、これが一番食べたかったんです」
私はわざとらしく声を弾ませ、ガナッシュが差し出した銀貨を店主に渡すのを隣で見守る。受け取った瓶を開けると、蜂蜜の甘い香りが午後の柔らかな光の中に広がった。私は指で木の実を一つ取り、自分の唇に寄せる。
「兄貴も一つ、いかがですか? 昨夜私に買ってくれたお菓子と同じくらい美味しそうですよ?」
「――っ、いらねぇ! お前が食え!」
ガナッシュは弾かれたように顔を背けた。昨夜、私は絶対に涙なんて見せなかった。ただ、溢れそうな熱を瞳に溜めて、逃げようとする彼を真っ向から睨みつけ、組み伏せただけ。私は蜂蜜のついた指先を、わざとらしく自分の口元で転がしながら、再び彼の逞しい二の腕に絡みついた。
相手の急所を完璧に把握して、ぐうの音も出ないほどに追い詰める。かつての職場で培ったこの手管が、この「純粋な野獣」には面白いくらいに突き刺さる。
「……美味いか」
「はい。兄貴が選んでくれたから、余計に」
ぶっきらぼうな問いに、最高に無垢な微笑みを返してあげる。
彼の横顔が、蜂蜜の色よりも濃い赤色に染まっていくのを眺めながら、私は次の「一手」を頭の中で組み立てていた。
買い与えられた「蜂蜜漬けの木の実」を最後の一粒までゆっくりと咀嚼し、私は空になった小瓶をそっと仕舞った。
甘い余韻で口を封じられたフリをするのは、ここまで。
市場の喧騒が遠のき、石畳に落ちる私たちの影が、夕闇に溶けるように長く、不格好に伸び始める。
「……おい。そんなにくっつくな。歩きにくいだろ」
ガナッシュの声は、さっきよりずっと低く、どこか切羽詰まっている。
腕を組んだままの私を振り払う力なんて、この男にはいくらでもあるはずなのに。それをしないのは、私を「傷つきやすい弟分」だと思い込もうとしている、彼の最後に残った理性のせいだ。
(ねぇ、ガナッシュ。その理性、もうボロボロだよ?)
私はわざと歩幅を緩め、彼の二の腕に額を押し当てた。
「……だって、急に静かになると、昨夜のこと……思い出しちゃって。兄貴、本当に怖かったから」
私はあえて、昨夜の「被害者」のような言葉を口にする。
「怖かった」という響きは、彼にとって最大の毒だ。自分が私を傷つけた、あるいは取り返しのつかないことをしたという罪悪感を突けば、この男は面白いほど動きを止める。
案の定、ガナッシュの足が止まった。
宿へ続く路地裏。オレンジ色の街灯の火が、彼の苦悶に満ちた横顔を縁取っている。
「……すまねぇ。……覚えてねぇんだ、本当に。……だが、お前を怖がらせたなら、俺は……」
「『覚えてない』って言えば、全部なかったことになるんですか?」
私は腕を解き、一歩、彼の懐へと踏み込んだ。
見上げる視線の先、ガナッシュの瞳が激しく揺れる。逃げ場を完全に塞ぐ距離。
「首の傷……服が擦れて、ずっと痛そうだよ? 嘘をつくたびに、そこが脈打ってるの、私には見えてるんですよ」
私はそっと手を伸ばし、彼が必死に隠していた襟元に指をかけた。
ガナッシュの身体が石像のように硬直する。喉の奥から、くぐもった、悲鳴のような吐息が漏れた。
(あ、今、この人……私を『弟』として見てない)
「……やめろ、リア」
「やめない。……昨夜、私を突き放そうとしたのはガナッシュでしょ? なのに、いざ私が噛みついたら、あんなに情けない声で私の名前を呼んで……」
「……っ、黙れ……!」
ガナッシュが私の手首を掴んだ。
でも、その力は驚くほど弱く、震えている。
私を黙らせたいなら、力ずくで突き放せばいい。なのに、彼はただ私の瞳から視線を逸らすことすらできず、夕闇の中で溺れるように私を見つめている。
(本当にチョロい。……でも、そんなに必死に『兄貴』を演じようとするあなたが、今はたまらなく愛おしいよ)
私は掴まれた手首をそのままに、もう片方の手で、彼の熱い頬に触れた。
「ねぇ……今夜もまた、お酒のせいにする?」
【リアの工作ログ】
・罪悪感の増幅:「怖かった」という嘘で良心を揺さぶり、抵抗力を削ぐことに成功。
・ 心理的包囲網:90%逃げ場を完全抹消。
・自己診断: どんなに背中が広くても、逃げ出すための「心の隙間」はもう一箇所も残してあげない。




