敗北宣言と沈黙
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「ねぇ……今夜もまた、お酒のせいにする?」
熱い頬に触れたリアの指先は、夕暮れの冷気にさらされていたせいか、ひどく冷たく感じた。だが、その冷たさが逆に、俺の肌を焼くような熱を際立たせる。
至近距離で見つめてくる瞳は、市場で見せていた「無垢な弟分」の光を完全に消し去り、底知れない愉悦と執着を孕んで俺を射抜いていた。
「……っ。お前、自分が何を……」
声が掠れる。掴んだリアの手首を振り払おうにも、指先に力が入らない。
いや、違う。振り払うのが「怖い」のだ。ここで力任せに突き放せば、俺の中に辛うじて残っている『兄貴』という名の最後の一線が、音を立てて崩壊するのが分かっているから。
市場で誤魔化し、木の実を買い与え、必死に自分を「保護者」の型に嵌め直そうとした努力は、すべて無駄だった。
襟元に触れるリアの指先が、昨夜刻まれた熱い痛みをなぞるたび、頭の奥で火花が散る。酒のせいにして、記憶の闇に葬り去ろうとしたあの夜の残像――喉を鳴らし、しがみつき、俺を翻弄した「何か」が、今、目の前のリアと重なり合っていく。
(……覚えねぇなんて、嘘だ。……忘れるわけねぇだろ、あんなもん……!)
酒に逃げ、罪悪感に逃げ、子供扱いすることで自分を騙し続けてきた。だが、頬を撫でる指の感触も、鼻をくすぐる蜂蜜の甘い匂いも、俺が知っている「純粋な弟分」の枠をとうの昔に食い破っていた。
こいつは、俺が正しく導いてやるべき迷子なんかじゃない。
俺という男が必死に守り抜いてきた「自制心」という名の牙城を、笑いながら食い荒らしに来た捕食者だ。
「……やめろ、リア。……頼むから、それ以上は……」
「やめてあげないよ」
断じたリアの声は、鈴を転がすような甘さでありながら、逃げ場を完全に断つ刃だった。
俺が今、この細い首を絞めて黙らせたいのか、それともこの熱い身体を強く抱き寄せたいのか。自分でももう、判別がつかない。
掴んでいる手首から伝わる脈動が、俺の心音と不格好に同調していく。
俺よりずっと小さくて、華奢で、守ってやらなきゃならねぇはずの存在。それなのに、今の俺は、石畳に伸びる不格好な影のように、こいつの存在に一方的に侵食され、飲み込まれようとしている。
(……大人げねぇ。情けねぇ……。だが、もう……)
「……酒のせいには、できねぇよ。……お前が一番、分かってんだろ」
俺は震える声でそう絞り出すと、捕らえていたはずのリアの手首を、吸い寄せられるように自分の首の後ろへ回させた。
自分から檻に首を突っ込むような、滑稽で救いようのない降伏。
俺は、諦めたように重い瞼を閉じ、逃げ場のない路地裏の湿った空気の中で、目の前の「正体不明の怪物」に、すべてを明け渡す覚悟を決めた。視界は、真っ暗なはずなのに、リアの冷たい指先の感触だけが鮮明に焼き付く。
首の後ろに回されたリアの腕。引き寄せたはずの俺の方が、その細い腕に絡め取られ、逃げ場を失う。その重みは羽のように軽いのに、俺にとってはどんな鎖よりも重く、逃れがたいものに感じられた。
(……っ……ここじゃ、ダメだ)
これ以上、人目に付く場所でこいつの毒に当てられ続けたら、俺は本当に、往来の真ん中で正気を失ってしまう。
俺は自分の首筋――リアが刻んだ噛み跡をなぞっていたその腕を、震える手でそっと解き、代わりにその小さな手を握りつぶさんばかりの力で掴み取った。
「来い」
拒絶は、ない。俺は、自分を翻弄するこの「正体不明の怪物」を、誰にも見られない場所へ連れ去るために、乱暴に歩き出した。
宿の階段を一段飛ばしに駆け上がり、部屋の扉を蹴るようにして開ける。
扉に鍵をかけ、俺たちの「日常」を外側へと放り出す。
カチリ、と錠が下りる小さな音が、静まり返った部屋の中で、弔鐘のように重く響いた。
俺はリアを壁に追い詰めたが、それは逃がさないためというより、そうでもしないと自分の膝が震えて崩れ落ちそうだったからだ。壁を突く腕も、リアの肩を掴む手も、驚くほど力が入らねぇ。
「……お前、最初から……こうするつもりだったんだろ」
声が、掠れてまともに音にならない。怒鳴る気力もなかった。
「市場で、俺がお前を『可愛い弟分』だと信じて……必死に自分を騙そうとしてるのを、お前はどんな気持ちで見てた? 蜂蜜を食わせて、ガキ扱いして……。俺が必死に築いた『兄貴』なんて砂の城が、お前のひと噛みで崩れるのを、笑って見てたのか……」
掴んでいる肩は、驚くほど細い。
力任せに抱きしめれば、あるいは捻れば、簡単に壊せるはずの命だ。なのに、今この場を支配しているのは、間違いなくこの小さな体温の方だった。
俺は、自分の首筋――リアが刻んだ、熱く脈打つ「印」を震える指でなぞった。
「答えろよ、リア。……俺を、どうしたかったんだ。俺を……ただの男に引きずり下ろして、何がしたかった……?」
俺の指先が、リアの唇に弱々しく触れる。
問い詰めながら、俺の瞳には怒りではなく、深い絶望と、それでもこいつに触れずにはいられないという、無様な渇望だけが浮かんでいた。
俺はもう、逃げることも、戦うことも、導くこともできない。
ただ、目の前の存在が放つ甘い毒に、最後の一滴まで浸されるのを待つだけの、哀れな獲物だった。
「……答えろよ、リア。俺が……俺がどれだけ、お前を正しく導こうとしてたか、お前が一番分かってたはずだろ」
言葉を吐き出すたびに、喉の奥が焼けるように痛む。
壁を突いた腕に額を押し付け、俺は目の前の小さな存在を見ることすらできずに、ただ己の無様さを呪った。
月明かりが入る部屋で自分の身体が作る影が、リアを完全に覆い隠している。
暗がりの中で、リアの表情も、その肌の色さえも見えない。ただ、掴んでいる肩の細さと、そこから伝わってくる、やけに落ち着いた鼓動だけが、こいつがそこにいることを証明していた。
「お前には、真っ当に生きてほしかった。俺みたいな、返り血の臭いが染み付いたガサツな男の隣じゃなくて……。いつか、誰かいい奴を見つけて、日向を歩いていけるようにって。……本気で、そう願ってたんだぞ」
鼻をつく蜂蜜の甘い香りが、かえって俺の口の中を苦くさせる。
今日、市場で買い与えたあの木の実の瓶。あれは俺にとって、こいつを「子供」の枠に繋ぎ止めておくための、最後の手枷だった。だが、そんな俺の願いを、こいつは鼻で笑って踏み躙ったんだ。
「それを……お前は、笑いながら食いちぎった。俺が必死に守ろうとしていた『リア』を、お前自身が殺したんだ。……なぁ、お前、今どんな面してる? 絶望して、震えてる俺を見て……満足かよ」
俺は、意を決して顔を確認した。
至近距離。焦点の合わない視界の中で、リアの吐息のの熱が、俺の肌を焦がす。
掴んでいる肩に、もっと力を込めればいい。いっそこのまま、壁にめり込むほど強く抱きしめて、すべてを壊してしまえば楽になれる。
だが、できない。
「……お前が怪物でも、人殺しでも、なんでもよかった。……だが、俺を『兄貴』としてしか生きられなくしておいて、最後に性愛を突きつけるのは……あんまりだろ……」
痛みだけが、俺がまだ正気であることを辛うじて証明している。
俺はもう、お前の頭を撫でることも、生意気な口を叩くお前を笑い飛ばすこともできない。
「……なぁ。もう一度だけ、嘘でもいいから笑ってみせろよ。……いつものみたいに、『冗談ですよ、兄貴』って……。そう言ってくれたら、俺は、このまま死ぬまで騙されてやるから。……頼む、リア……」
俺の声は、もはや問い詰めですらなく、ただの惨めな乞いだった。
自分の人生を、誇りを、リアという存在にすべて献上してしまった男の、最後の一滴の未練。
【ガナッシュの身体ログ】
• 【視界:ログアウト】 自分の巨体で唯一の光源(月明かり)をセルフ遮断。リアがよく見えない。
• 【触覚:情報過多】 相手が華奢すぎて、力を込めたら折れるし緩めたら逃げられる。手加減の限界に到達。
• 【IQ:10%】 理性、完全にストライキ中。




