岩山の崩壊、あるいは猛獣使いの本気
楽しんでもらえると嬉しいです。
「……水と何か適当に出してくれ」
ガナッシュが親父さんにそう言った瞬間、確信した。
あんなに酒が好きだった人が、一口も飲もうとしないなんて。
(……やっぱり、昨夜のことを少しは覚えてるんだ)
テーブルを挟んで向かい合う彼は、まるで怯えた獲物みたい。私の視線が首筋の噛み跡に吸い寄せられるたび、彼の喉仏がビクンと跳ねる。
酒のせいで何も覚えてないフリをして、なんとか兄貴分に戻ろうと必死な姿が、愛おしくて、滑稽で……たまらなくゾクゾクする。自分の隠し事は棚に上げてあなたの嘘を許せないズルい私でごめんね。
(いいよ。あなたが忘れたフリをするなら、私が何度でも刻みつけてあげる)
昨夜、私の指がベッドに縫い止めたその手首。
今は所在なげに震えているその大きな手が、また私の熱で塗りつぶされるのを待っているみたいで、私は心の中で静かに舌を出した。
「……あ、の……兄貴」
彼に声を掛けようとしたタイミングで親父さんに呼ばれ、私はしょうがなく「いつもの健気な弟分」の顔でフロアへ滑り出した。
そんな中、下品な冒険者が私の声を冷やかしてきた。
「坊主、昨夜はどんな『夜遊び』をしてたんだ?」
私はわざと兄貴に聞こえるように、小悪魔な微笑みを浮かべて答えてあげた。
「……ふふ、そう見えますか? ちょっと、言うことを聞かない大きな野獣を手懐けるのに、一晩中かかっちゃいまして」
店内に響き渡る爆笑。
その中で、勢いよく水を噴き出す音が聞こえる。羞恥と混乱で沸騰しているガナッシュの体温が、離れていても伝わってきた。
(ねぇ、自分が何をされたか、ちゃんと自覚出来た?)
トレイを抱え直して、親父さんに襟元を揶揄われている彼を振り返る。
一瞬だけ、昨夜の「熱」を思い出させるように目を細めて見せてあげたら、喉の奥から絞り出すように吠えた。
「――っ、う、うるせぇ!!……俺がヘマして、こいつに……折檻されたんだよ! これで満足か!」
一瞬の静寂。
この人、自分で何を言ったか分かっているのかな。「折檻」なんて不穏な言葉をこんな場所で使ったら、みんながどんな想像をするか。
「……折檻、ねぇ」
親父さんの目が、可笑しそうに細くなる。周りの冒険者たちも「あのガナッシュが、あんな坊主に?」と、ニヤニヤしながら私たちを交互に見比べた。
私はトレイを抱えたまま、ガナッシュの背後にそっと忍び寄り、獲物を追い詰めた猫のような笑みを浮かべて、掠れた声で追い打ちをかける。
「そうなんです、兄貴は……お仕置きが必要な悪い子だったので」
「っ…………!!」
真っ赤になったその耳たぶを見て、私は胸の奥がじんわりと熱くなった。
「……勘定だ、親父! 行くぞ、リア!」
兄貴は叩きつけるように代金を置くと、私を振り返りもしないで店を飛び出していった。
背中に浴びせられる「坊主、お手柔らかにな!」っていう野次をBGMにして、私は軽やかな足取りで後を追う。
(ふふ。「折檻」かぁ。自らそんなパワーワードを選ぶなんて、ガナッシュ、自分で自分の逃げ道を爆破してるって気づいてるのかな?)
表に出ると、少し先を肩を怒らせて歩いていた。
逃げるような、それでいて必死に「格好いい兄貴分」の背中を保とうとしている。その耳の裏が、店内にいた時よりもさらに赤くなっているのを私は見逃さなかった。
(忘れたことにして、また『教育熱心な兄貴分』に戻るつもり? ……そうはさせないから。せっかくお酒を断って、五感が冴え渡る『正気』になったんだもの。昨夜の続きを、もっと鮮明に刻んであげなくちゃ。営業ノルマに比べれば、この人を落とすなんて、赤子の手をひねるより楽なんだから)
「あ、兄貴! 待ってよ、置いていかないで!」
私は少し息を弾ませたふりをして、小走りで隣に駆け寄った。
そして、今朝の迷いなんて最初からなかったみたいに、ごく自然な動作で、その逞しい二の腕に自分の腕をぎゅっと絡める。
かつて森で助けられた時に感じた「動く岩山」のような安心感。でも今は、その岩山が私の指先一つで、内側から崩壊しかけている。
(あ、すごい。……びくびくしてる)
前を向いたまま、必死に「いつもの威厳」を保とうとしているけれど、腕から伝わる脈動が全部教えてくれている。
「兄貴……? なんだか、心臓がすごく速いですよ? どうしたんですか、病気?」
私はわざと顔を近づけて、下から覗き込むように視線をぶつけた。
傾き始めた陽の光に照らされたガナッシュの耳たぶが、真っ赤に熟した林檎みたいに染まっていく。このまま昨夜の女の記憶なんて、私の熱で全て上書きしてしまえばいい。
「なっ……! そ、それは、さっきまで急いで歩いてたからだ!」
「ふーん……。でも、顔も真っ赤ですよ?」
私はクスクスと忍び笑いをして、わざとらしく兄貴の肩に頭を預けてみた。
この人は、私が「生意気だけど可愛い弟分」のフリをしている限り、手荒に振り払うことなんて絶対にできない。その甘さを、一滴残らず利用させてもらう。
(本当にチョロいんだから、ガナッシュは。……だから、私に捕まっちゃっても、もうしょうがないよね?)
「ねぇ、兄貴……宿に戻ります?それとも、このまま出掛けます?」
私は背伸びをして腕を引き寄せると内緒話をする様に彼の耳に囁いた。
(もっと、ゆっくり優しく囲い込むつもりだったのに……離れるなってあなたがいったんだよ?……だから、大人しく諦めてね。)
【リアの精神ログ:】
• 観察結果:ガナッシュの心拍数は予想の1.5倍
• 楽しさ: 「手懐けた」って言った時の、あの噴き出し方。最高に可愛かった。
• 今夜の予定: 宿に戻ったら、どんな顔でおねだりしようかな。




