戻れない日常と消えない痕
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「……う、ぐ……ッ」
割れるような頭痛とともに意識が浮上した。
まぶたを突き抜けてくる陽光がやけに高い。確かめるまでもなく、毎朝行っているリアとの剣の修行なんて、とっくに終わっている時間だ。
「……飲みすぎた、か……」
ひどい脱水感と、泥のような倦怠感。昨夜、やけ酒を煽って、それから――。
思考を巡らせようとした瞬間、右の首筋に鋭い痛みが走った。
「っ……あ……?」
反射的に手が伸びる。指先が触れたのは、熱を持って微かに腫れた、生々しい傷跡だ。
その瞬間、真っ暗な脳裏に、雷が落ちたような鮮烈な光景が甦った。
泣きそうな、それでいて俺を射殺さんばかりに激しいリアの瞳。
俺の上に跨り、細い手首で全力でシーツに押しつけていた、あいつの熱。
『私を、ひとりにしないで……』
耳元で囁かれた、呪いのような、愛の告白のような、あの震える声。
(……夢だろ。いや、現実か……? 俺はあいつを突き放して、女と……いや、違う……夢に決まってる)
「酔っていた」という万能な言い訳がある。アレは夢だと。何も覚えていないことにすればいい。そうすれば、今日からもまた頼れる兄貴分として、今まで通りこいつの隣に居れるはずだ。
ふと横を見ると、俺の服の端をぎゅっと握りしめたまま、リアがまだ眠っている。
昨夜の荒ぶりとは打って変わった、いつもの、幼い寝顔。
俺が「真っ当な人生を歩め」と突き放そうとした、世界で一番守りたかったはずの弟分。
「…………っ」
俺はたまらずベッドから這い出し、顔を洗いに部屋を出た。冷水を浴びても、心臓の動悸は収まらない。
部屋に戻ると、リアが目を覚ましていた。
気まずい沈黙が、二人きりの部屋に満ちる。
「……あ、兄貴。おはようございます」
リアの声は少し掠れていた。それが昨夜の「叫び」のせいだとしたら、俺はどんな顔をすればいい。……そんなの、決まってる。
「……おう。……悪りぃな、リア。昨日は、その……かなり酔ってたみたいだ。だから何一つ覚えてねぇんだ」
俺はあえて首筋を隠すように顔を背け、ぶっきらぼうに謝った。
核心には触れない。触れたら最後、今のこの危うい「兄弟分」という関係が、音を立てて崩れる気がしたからだ。
「いえ……。私も、すみませんでした。兄貴がせっかく、私の将来を思って言ってくれたのに……取り乱して」
リアもまた、視線を床に落としたまま謝った。
「取り乱した」という一言で済ませるには、俺の体に残った痕跡はあまりに重い。
昨夜、リアが俺に噛みついた時、どんな顔をしていた? 憎んでいたのか、それとも――。
(よせ。これ以上考えるのをやめろ)
「……飯、食いに行くか。今日は、修行は休みだ」
「……はい」
お互いにぎこちなく準備しながら部屋を出た。歩き出しても、距離感が掴めない。いつもなら、リアの半歩先を歩く俺だが、今は背後にいるリアの気配が怖くて、さらに距離を空けてしまう。首筋の傷が襟に擦れるたびに、昨夜の「事実」が俺の嘘を暴こうと疼く。
(確かめてたまるか。ありゃ夢だ。酒のせいだ……)
無意識の内に足は、以前リアが働いていた『満腹の斧亭』へ向かっていた。リアの指先が、不意に俺の服の裾に触れようとして、迷うように引っ込んだのを視界の端で捉えた。
店のドアを開くと、いつもの調子で店主の親父が迎えてきたが、俺の顔を見るなり顔を引きつらせた。
「よぉガナッシュ、久しぶりだな。……おい、何だその面は。辛気臭ぇ顔しやがって……。それにリアも、今日はいつもより元気がねぇじゃねぇか。喧嘩でもしたか?特別にエールつけてやろうか?」
「……うるせぇ。エールはいらねえから、水と何か適当に出してくれ」
店に入り、親父にエールを勧められたが、俺は被せ気味に断った。
昨夜の「熱」を水で洗い流したい一心だったが、その注文が失策だった。俺がそう言った瞬間だった。
横で静かに立っていたリアの体が、微かに跳ねるように震えた。
「何も覚えていない」と宣言した俺が、酒を避ける。これ以上ない矛盾だ。
俺は卑怯だ。事実を認めてしまえば、もう二度と「兄貴」という立場には戻れないと分かっているから、必死に記憶を濁らせ、記憶の隅に閉じ込めようとしている。
「あぁ!?お前、そんな遠慮するようなタマじゃねぇだろ!?」
驚く親父の声を、俺は耳の端で聞き流しながら、向かいの席に座ったリアの顔を盗み見るように窺った。その瞳が、驚きから、一瞬で深い確信へと変わる。
(しまった……。酒から逃げたのが、バレたか……?)
たった一杯の「水」の注文から、俺の卑怯な心中がバレた……ような気がしなくもない。いや、気の所為だ。そうだ。そうに決まってる。
向かいに座るリアの視線が、時折、俺の首筋に吸い寄せられる。その視線にどこか蠱惑的な光が、よぎる。しかし、昨夜のことを考えると当分の間、酒を飲む気にならない。素面で向き合うリアは、今まで通りの可愛い弟分に見える。だが、俺の首筋の脈動が、昨夜のあいつの「熱」を思い出させて止まない。
俺は黙って、出された冷たい水を喉に流し込んだ。
注文した料理が運ばれてきても、俺たちの間に会話はなかった。
いつもなら「ほら、これ食って強くなれ」だの「好き嫌いしてんじゃねぇ」だの、俺から言葉を投げていたはずだ。だが今は、スプーンが皿に当たる硬質な音さえ耳に障る。
ふとした拍子に、テーブルに置かれたリアの指先が視界に入る。
その瞬間、昨夜の感触がまた甦った。ベッドに沈み込んだ俺の、手首を、あいつの指が驚くほど正確に、そして全力で……シーツに縫い付けていた。
あんな細い指のどこに、押さえ込める力があったんだ。
喉が焼け付くように乾き、反射的に水へ手が伸びる。だが、その冷たさでさえ、首筋に残る「噛み跡」の熱を冷ますことはできなかった。
「……あ、の……兄貴」
リアが意を決したように顔を上げた。だが、その瞬間、店のドアが勢いよく開き、荒々しい笑い声と共に冒険者の集団がなだれ込んできた。
「おい親父! 煮込みとエールを十人前だ! 大至急だ!」
昼時を迎え、店内は一気に騒がしくなる。空いていた席は瞬く間に埋まり、給仕の娘はトレイを抱えたまま、怒涛の注文に目を回していた。
「ちょっと、ごめんなさい! 今、人手が全然足りなくて……!」
厨房の方で親父が怒鳴り声を上げているのが聞こえる。
「おい、リア! 悪いがちょっと手を貸してくれ! 見ての通り、人手不足なんだよ!」
「あ、はい! 今行きます!」
リアは弾かれたように立ち上がった。俺に何かを言いかけていたはずのその唇は、今はもう仕事の顔になっている。
リアは手慣れた様子でトレイをひったくると、フロアへと滑り出していった。
(あいつは何を考えている? 昨夜、俺に噛みついた時のことを覚えているのか?それとも、俺と同じように現実と夢の境目で怯えているのか。)
リア達は慌ただしく客を捌き、やっと店内がまばらになってきた。雑踏の音が小さくなったからかあいつの声が、嫌なほど耳にこびりついて離れない。
「お待たせしました、こちら煮込みとエールです」
その声は、朝よりさらに低く、砂を噛んだように掠れていた。
俺が昨日、あいつを追い詰めて――リアにあんな事を叫ばせたからだ。
俺は残りの水を一気に飲み干そうとした。その時、酒を注文した、以前ここでリアに絡んだガテン系の冒険者が、あろうことかあいつの顔を覗き込んでニヤニヤと笑い声を上げた。
「おい、坊主! 今日はやけに掠れた声じゃねぇか。昨夜は、一体どんな楽しい『夜遊び』をしてたんだ? あぁ?」
「――っぶ!!」
口に含んだ水が、危うく盛大に噴き出しそうになった。
むせて激しく咳き込む俺のことなど構わず、男たちの下品な笑い声が狭い店内に響き渡る。
ところが、だ。当のリアは顔色ひとつ変えず、事も無げに笑って見せた。
「……ふふ、そう見えますか? ちょっと、言うことを聞かない大きな野獣を手懐けるのに、一晩中かかっちゃいまして」
「ぎゃはは! そりゃ相当な暴れ馬だったんだな!」
店内に響く爆笑。
「悪い子」とは俺のことだ。昨夜、あいつに組み伏せられていた俺だ。
あいつは分かっている。俺が「忘れた振り」をしている卑怯者だということを。そして、衆人環視の中で「手なずけた」と宣言することで、逃げ道を外側から埋めていく。
「……っ、げほっ、ごほっ……!」
首筋の傷が、ドクドクと警鐘を鳴らすように脈打つ。
男が向けた冗談は、ただの「男同士の冷やかし」に過ぎない。だが、その「夜遊び」の現場で、あいつに組み伏せられていたのが俺だという事実に、俺は死にたいほどの羞恥に叩き伏せられそうになっていた。
「……おいガナッシュ、大丈夫かよ。水の飲み方も忘れたか?」
いつの間にか、親父が俺のテーブルの横に立ち、怪訝そうな顔で俺と、涼しい顔で給仕をこなすリアを交互に見ていた。
「……水だ、もう一杯くれ……」
「水はいいがよ。……お前マジで昨夜、何やったんだ? リアの声もだが、お前のその、襟で必死に隠してる首の傷……」
親父の鋭い視線が、俺が隠しきれていなかった「噛み跡」の端を射抜いた。
「……喧嘩にしちゃ、随分、位置が色っぽすぎるんじゃねぇか?」
親父のニヤついた追求に、俺は、逃げ出したくなるほどの敗北感に包まれていた。
フロアの向こうで、リアがふっとこちらを振り返った。
あいつはトレイを抱きしめたまま、昨夜俺に見せたあの執念深い瞳をほんの一瞬だけ覗かせ、すぐに顔を伏せた。
【ガナッシュの精神ログ】
• 混乱度:測定不能(夢だ。夢だ。夢だ。でも首筋が熱い)
• 警戒レベル:MAX(リアを「守るべき対象」から「自分を壊す存在」として認識し始め、パニック中)
• モダモダ指数:MAX(いつも通りに接したいのに、手が触れそうになるだけで心臓が跳ねる)




