皇帝の側妃になった!
私はとにかく焦っていた。
「ねぇ、助けて」
「私を連れて逃げてくれる?」
「帝国についたら殺される、その前に思い出が欲しいの」
「今だけでいいの、忘れさせて」
「お願い…」
所構わず、男を誘った。
帝国へ護送される馬車の中で、時折泊まることのできる宿屋の一室で、野営中の簡易天幕の中で。
隣国を属国とした准将の凱旋に加え、宝飾品や酒・農産物などに見目麗しい女を加えた新属国から皇帝陛下への献上品という事もあって、護送団はそれなりの規模だ。誘う男には困らない。
猫撫で声でしなを作り、胸を寄せて見せ、潤ませた瞳で上目遣いをする。
最初のうちは断られた。当然だ、まがりなりにも皇帝陛下への献上品である。むやみに傷つけるわけにはいかないだろう。
けれど手を拘束し連行されるだけの自分にはひたすら時間があった。断られ続けて気づいたのは、同じ軍服にも差があるということだ。
腕章の有無、階級を示すであろう装飾の形と数、袖口の刺繍の差。細かい事を挙げればきりがないが、同じ濃紺の制服の中でもわかりやすいのは上着の長さだろう。よく見れば、指示を出す側の人間は必ず丈の長い上着を着ている。だから、丈が短くて装飾のなるべく少ない彼が見張りに立った夜に声をかけた。
「お願いがあるの…」
出入口が一ヶ所しかない箱形の荷馬車の中、積み込まれた荷物の隙間に申し訳程度にいくつか置かれたクッションの上。そこが唯一の私のスペースだ。移動中はクッションの上でひたすら振動に耐え、夜は身体を身体を折り曲げて眠る。
その狭い隙間にほんのりと月明かりが差し込む夜。
しどけなくクッションに身を預け、頬を赤くして息も絶え絶えに胸元を抑える女が一人。
「ねぇちょっと…苦しいの、助けて…」
スカートは敢えて乱して、膝が見えるか見えないか程度に素肌を晒す。
いつもと違う様子の私に、慌てて覗き込んだ男がごくりと音を鳴らして息を呑みこんだのがはっきりと分かった。
「苦しくて…背中、少しだけ緩めてほしいの…」
背に流した長い髪を気だるげな仕草で払うと露わになる首筋。月明かりに白く浮かぶように見せているのはもちろん計算のうちである。
一瞬戸惑う仕草を見せた男に縋るように目を向ける。
目と目が合ったら、ゆっくりと瞬きをする。
ほろりと光る粒がこぼれたら完璧だ。
「少しだけなら…」
箱馬車に身体を滑り込ませた男に身を寄せ、ここぞとばかりにしな垂れかかる。さも苦し気な吐息で。
震える男の手が背中をまさぐるが、そこに服を緩めるものなどありはしない。そもそもが侍女もつかず身一つで追いやられているのだ。背中に開きのあるような一人で着脱が出来ない服など着るわけがない。
屈みこんでいる男の膝に乗り上げ、反対の手を取り胸元へ導いた。
振り払われない手と固くなった男の股間が、私の勝利を物語っている。
「今夜だけでいいの。お情けを…」
それからはあっけないほど簡単だった。
箱馬車の見張りは、何人かの男が順番に立つようになった。
こちらから声をかければ待ってましたとばかりに舌なめずりをしながら入って来る者、交代した瞬間にもう箱馬車に押入って来る者。
初めのうちは移動のない夜だけだったのが、周囲の見張りも巻き込んだのか昼間のちょっとした休憩にも付き合わされるようになった。思惑通りではあるのだがそんなに頻繁に付き合わされるとは思ってなかった。長距離移動で疲れていたところをさらに酷使したせいで、身体が悲鳴を上げている。
ごめんね。もうちょっとだけ頑張って。
三週間の旅路の果て。やっと皇都に到着した。
凱旋らしく目抜き通りを進むのか、そこかしこから歓声が聞こえてくる。王都に入る前にまたも男たちに付き合わされ、箱馬車の中でぐったりと休む私には関係ないけど。
たどり着いた先の宮殿は、帝国の栄華を具現化したかのような豪奢さでもって一同を迎え入れる。広い前庭で荷物と私は降ろされた。隊列を組んでいた兵士たちも、まばらに解散していく。
「あなたはこちらへ。まずは体を清めなくては」
連れられた湯殿で、侍女たちの手によって磨き上げられる。久しぶりの感覚に胸が躍るよりさきにほっと息をついてしまった。人の手で体を清められるのも、そもそも湯を使うのもかなり久しぶりなので。
侍女の一人が見張りの男に腹部が…とかヒソヒソと話しているのが聞こえたが、別に気にしない。聞こえないふりは得意だ。
久しぶりの広々とした柔らかいベッドを堪能し、早々にその日は休んだ。
次の日からは、やたらと明るい華やかな宮殿で過ごすことになった。
通称、華宮。いわゆる後宮らしい。
後宮と言ってもここ華宮は、歌劇団の歌い手だったり踊り子だったりと、皇帝のお墨付きを得た芸術方面に秀でた女性たちの仮住まいになっているらしい。ここに滞在を許された女性たちは、無償で稽古をつけてもらったり推薦を受けたりすることができ、いっそもう住み着いてその一画をアトリエにしてしまった女性画家もいるそうだ。もちろん皇帝の渡りもあるが、どちらかというと視察といった雰囲気で、日頃の成果を皇帝に直接披露する数少ない機会でもあるのだから、それはもう別の意味で皆の気合も入るというものだろう。
常に誰かしらの歌や楽器の音色が聞こえる、そんな賑やかでエネルギッシュな華宮の一部屋で、私はただのんびりと過ごしていた。たとえ皇帝への献上品だとしても、とても罪人の待遇ではない。
けれど、お腹の子に、罪はない。
そう、なんと私は妊娠しているのだ。
ここ皇都に辿り着いたころは、少しふくらみがわかるかわからないか程度だったのだが、優秀な侍女たちは薄い腹の僅かなふくらみを目ざとく見つけ、次の日に予定されていた皇帝への謁見は中止となった。
父は誰だと聞かれても、私はうふふと笑うだけ。
けれど優秀な帝国兵は、凱旋中の私とその周囲の見張り達の関係を既に洗い出している。どれだけの人数を、何度相手にしたかなどいちいち覚えていやしないが、目の前で見張りに立っていた新兵や下級兵たちの名前や人数、事に至った回数を詳細に読み上げられて、近くで聞いていた侍女たちは何人かが卒倒し、かろうじて倒れなかった者は震えながら侮蔑と嫌悪の視線を投げて寄こした。
日々は穏やかに過ぎてゆく。飾り立てることもなく、かといって働くこともない。こんなに穏やかに、静かに過ごすのは生まれて初めてだ。私はただ、重い身体を抱えたまま、出窓に腰掛け空を眺め、庭を散策し、運ばれてくる華宮の中では侍女にも劣る食事を口に入れ、命を繋いだ。
土砂降りの雨の隙間をぬって冷気が入り込んできたとある夜。シクシクと腹が痛むのに気付いた。
侍女に助けを求めるも、痛みの間隔がもっと短くなってからでないと産婆は呼べないとにべもなく部屋に戻される。
布団を被り、必死に耐えた。
鈍く、鋭く、不規則に痛む腹部。
不安ばかりだ。無事生まれてくれるのか。生まれたとしてもどうやって育てればいい。
後悔はしていないと言えば嘘になる。けれど他にどうすればよかったのかもわからない。
少しだけ懺悔をする。あなたがお腹にいることがわかっていたのに、見知らぬ兵士たちに身体を明け渡したこと、本当にごめんね。でもそうしなければいけなかった。
それからほんの少しだけ、僅かな期待。早く、会いたい。
痛みで朦朧とする意識の中、産婆らしき女性と准将が言い争う声が聞こえた。
「華宮は男子禁制のはずですが?しかも出産に立ち会うだなんて…」
「許可は得ている。これは見届けねばならないことだ」
「理解できませんわ…万が一があったら出て行っていただきますからね」
「その万が一に備えているのだ。見ているだけで手は出さないと誓う」
この華宮で私を、というかお腹の子を人として扱ってくれる数少ない一人の産婆が、諦めたように私に向き直った。
腹に手を当て、股に手を突っ込まれるが、痛みと疲れで抵抗する気力もない。
「まだかかりそうだね…準備してくるからもう少し頑張るんだよ」
叫び、痛みの合間にほんの僅かずつ眠り、時折水を口に含まされながら一昼夜の時が経った。
昨日の雨は嘘のように晴れ渡り、煌煌と満月の輝く中、ついにその時はきた。
「ぁ、ぁあっ…!」
「ほら頭が出たよ!後はいきまないで浅く呼吸しな」
「ふ、ひぅ、ぁ…っ」
尋常じゃない痛みと、何かがずるりと抜けていく感覚があって、強ばっていた身体から久しぶりに力が抜けた。ぱさりと髪がシーツに落ちて、次いで聞こえたのは耳を裂くような大きな泣き声。
「おや元気な子だね。男の子だよ」
まっさらな布にくるまれたそれは、とても小さい。それなのに、こんなにも大きな声で泣けるなんて。
「すごい、ね…」
私まで涙が出そうだ。
産婆が寄ってきて、その腕の中を見せてくれた。別の布で優しい手つきで顔を拭うと、不意にその鳴き声がやみ、二つの目が重たげに開かれる。
その輝かんばかりに光をたたえたの瞳に、ついに私の目から涙がこぼれた。
「ぃ、る…」
嗚咽と既に掠れた声に苦笑を見せた産婆の顔が、私の後ろを見て引きつった。驚愕の、恐怖の表情だ。
慌てて振り返れば、そこには抜身の剣を握りしめた准将の姿が。
そういえば、こんな人いたっけ。
どうして剣を。
守らなくては。
疲れた、しんどい。
思考がうまくまとまらない。
肘で重い身体を支えるも、のろのろと起き上がるのがせいぜいで。
その間にも准将が産婆の腕の中から小さなそれを取り上げる。
その小さなシルエットが浮かび上がり、掲げた剣が月の光を反射して、鈍く光った。
「ぃやあああぁぁぁぁぁぁあぁあああぁぁぁっ!!?!」