黄絨毯
テーマ「黄」より
今年も蝶がやってくる。空が黄色く変化して、花粉や黄砂が舞い落ちる春の日に。旦那にまとわりつく黄色の絨毯となりに。
母は孤独の登山家だった。父に捨てられ、女手一人で私を育てあげ、死ぬほど忙しい日々を乗り切ると、やがて家庭というくびきから放たれた母は、日常を嫌うようになっていた。軽い散歩からトレッキングへ、トレッキングから観光登山へ、観光登山から本格的な登山へと移行するのにはさほど時間は掛からなかった。私は今まで囚われていた時間をそれで取り戻せるのなら、と、母に好きにさせていた。どちらにしても私の旦那ともあまり気が合わず、家にいて、顔を合わせれば喧嘩ばかりしているのだからと。
事前に計画を立てては数日をかけて日本の様々な山々に足を向ける。滑落の危険のある山、切り立つ岩が屹立する険しい峰、無心で手をかけ足をかけ、登っている間、母は人間であることを忘れて、自然と一体に慣れた気がする、そう言っていた。
日本の西から東へ、低い山から歩ききり、やがて高い山へと。一週間家を空けることもあれば、日帰りで帰ることもある。自分の足跡を残さず、写真一枚残そうとしない母の、記録を知るには本人から聞く以外なかった。体に残る痛々しい傷と日に焼けた母の顔、それを目にしてもかつての母には見られなかった満ち満ちた表情を目にしたら、止めることはできなかった。
あの日は朝から天候が落ち着かず、春まじかにして僅かに粉雪が舞っていた。前日からの徹夜で朝に帰宅した私は旦那の姿が見えないことに違和感を感じながら、母を探した。庭先には見たことのない黄と黒のまだらの羽を持つ蝶が一匹、粉雪の合間をゆらゆらと舞っていた。
いつまでも起きてこない母を心配に思い、寝室を覗くと、抜け殻のような布団がひと組み残されていた。以来母は忽然と家から姿を消してしまった。以前であれば、家を空ける前には必ず計画を知らされていた。おかしいと思いながらも、旦那と母の板挟みに疎ましさを感じていた私は、対応を先送りにしてしまった。結局母はそれきり帰ってこなかった。
母が教えてくれた忘れられない出来事がある。ある山の窪地に夥しい数の蝶が羽を休めていたのだという。母はその景色に目を奪われ、近くまで歩み寄った。すると蝶は一斉に空へと飛び立った。黄と黒のまだらの羽を持つ蝶が均等に広がり、空を游ぐ。やがて地面には横たわる鹿の姿が見えた。腐りかけの死体、それを見て母はいつか死ぬ時が来たならばそうして弔われたいと思ったと私に語りかけた。私はそんなの気味が悪いでしょ、そう言ったのに、母はどうせ旅立つなら体の中の悪いもの、全部吸い取ってもらいたいじゃない、そう言っていた。
母が姿を消してから数年、未だに行方はわからない。けれど、春になると普段見かけない蝶の姿が私の庭に現れる。その蝶達は、庭に人型を形作り、やがてどうやってか、いつの間にか家の中に入り込む。母が姿を消して以来臥せがちになり、痩せさらばえ、寝たきりとなった旦那の体は春の一時、蝶の楽園となる。




