本の夢
頂きましたお題「本」から
壁全面に設えつけられた本棚には恐るべき数の本が埋まっていた。丁寧に装丁され、大きさ別に均一に並べられた本は、余りに自然で建物の造り、壁の一部に見えた。車付きの階段に立ち、甲斐さんはその壁の一部を手に取り、私の座るテーブルの前に腰を落ち着けた。
「私はね、本の温もりが好きなんです」
甲斐さんはそう言って眼鏡に触れ、本の項をめくった。
「読む人間が好きな項に触れると、その紙にだけ手垢が付くでしょう、同じ紙を何度も何度も読み返し、心に染み込ませていく。今の人はそこまで熱中して本を読まないんじゃないかな。それこそ紙が擦り切れるまで好きな本を読み続けるなんてしないでしょう」
こうして何気なく会話を交わす間にも、甲斐さんは本を読み続けていた。
「そうでしょうね、これからは電子書籍の時代ですから。端末があれば何万冊という本が読める時代です。今時紙の本なんて流行りませんよ」
「確かにね、蔵書すれば当然質量は増えるでしょうし効率的じゃない。悲しいけどこの先、本や紙という媒体は衰退してゆくのでしょう。でもね、私はどうしてもこの本達を捨てようとは思わない」
甲斐さんは私の目をのぞき込こみ、微笑んだ。
「良いですか、私は本が好きなのであって文章が好きなわけではないんです。本という媒体自体が好きなんですよ。確かに情報としては本と文章は同じものなのかもしれない、けれど私が安らぎを得られるのは手のひらに伝わるこの紙の重さと、染み込んだ汚れがあってこそなんです」
そう言って本を立て、こちらに向かって、汚れている部分を見せた。
「不思議です。何故こんなことが起こるのか」
私がそう小声で洩らすと甲斐さんは笑った。
「でしょう、私だって不思議だ。こうして体を失った後にまで、この本達と一緒にいられるなんてね。でもそれも今日が最後です」
甲斐さんはそう言って手元の本を閉じると立ち上がり、本棚に戻す。私が「今日までありがとうございました」と頭を下げると「私こそ」と言い残し、現れた時と同じように忽然と姿を消した。
甲斐さんは数年前に亡くなっていた。所有されていた膨大な数の書と建物は、親族の意向からそのまま博物館として姿を変え、蔵書全てがデータ化されて電子図書として博物館内のPCで閲覧できた。
月明かりが落ちる夜の館内に影が見える、そんな噂が立ち、当縁の私がアルバイト警備員として引っ張られた。どうせ何もないから、そう言われ、初めて勤務についた夜に現れたのが甲斐さんだった。
定期的な虫干しの日以外、強化ガラス、鍵付きの本棚の本に自由に触れられるのは甲斐さんだけだ。不思議と怖さを感じなかった私は、いつしか彼と平然と話せるようになっていた。
さよならを耳にしても、私はまた甲斐さんと会えると思っていた。気まぐれに現れて気まぐれに消えてゆく、だから今度も気まぐれに過ぎないんだと。けれど、あの夜が明けて、蔵書の一部が市に寄贈されて以来、彼は二度と現れなかった。
そうして私は、彼が言っていた「大切にした本は時折夢を見るのだ」との言葉を思い出し、彼は実は幽霊などではなく、あの本達が見ていた夢だったのだと気がついた。




