六 芽吹く憎悪
十一月、役員昇進を決める経営会議の朝。
小坂は新調したスーツに袖を通し、いつもより十分早く家を出た。恵子は見送らなかった。それでも彼は、今日という日がすべてを帳消しにすると信じていた。数字は作った。評価は決まる。あの白い封筒など、取るに足らない嫌がらせにすぎない。
だが午前九時、会議室の扉が開かれる前に、全役員、監査役、人事部長のもとへ、二つの封書が同時に届いた。
一つは、営業一部の売上前倒し計上と、下請けへのコスト転嫁を示す伝票、指示メール、音声データの写し。日付も、金額も、小坂自身の言葉も、一分の隙なく揃っていた。
もう一つの表題は、こうであった。
『小坂和彦氏による「論理的暴行」の実態とその被害者リスト』
会議は開かれなかった。
人事部の小部屋で、小坂は初めて声を荒らげた。
「ハラスメントではない! 教育のための対話だ! 不正も一時的な調整にすぎない!」
人事部長は表情を変えず、書類を一枚、机の上で滑らせた。
「小坂さん。あなたは一度も怒鳴らなかった。だからこそ、タチが悪い。被害者は十一名です。不正についても、弁明の余地はありません」
「部下に聞いてくれ。彼らは私を慕っている。厳しくも、育てようとした私の――」
「聞きました」人事部長は言った。「全員に」
小坂は席を立ち、営業一部のフロアへ降りた。皆が、そこにいた。誰も目を合わせない。小坂は一番近くにいた佐々木の前に立った。
「佐々木くん。君は、私の指導で成長したと思っているね」
佐々木は長いあいだ黙っていた。小坂が、あの沈黙を、自分が一番よく知っているはずの沈黙を、今は向けられていた。やがて佐々木は、静かに言った。
「小坂部長。あなたの声を聞くこと自体が、苦痛なんです」
怒りも、嘲りもなかった。ただ事実を述べる声であった。小坂は何か言い返そうとして、言葉を探した。論理を、反論を、探した。何も見つからなかった。
自分は「慕われる厳父」ではなかった。全員から静かに嫌われていた、ただの害虫であった。五十年かけて築いた自画像が、一分で砕けた。
人間が本当に恐れるべきは、嵐のような怒号ではない。長い時間をかけて他人に与え続けた「静かな憎悪」が、ある日一斉に自分に向かって芽吹く瞬間である。




